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無とは何か? そして絶対不可知のマルチバース [etc.]

無とは何か? この疑問に、普通の人は「何もない真空状態」のようなものを想像するのではないだろうか? だが、真空のエネルギーの存在はさておき、もしこの宇宙のどこかに光の粒子ひとつ、ニュートリノひとつ存在しないような「真の真空空間」があるとして、そこに果たして時間が流れているのかという問題を除いても、少なくとも3次元の空間が存在することは確かだ。絶対的な無とは、次元も物質・質量も何も存在しないものである。そしてそのような「無」は私たちが存在する宇宙-すなわち有の世界にあっては容易に想像することも、アナロジカルに何かに喩えて論ずることも難しい。

素朴で無邪気なマルチバース論
私が宇宙に興味を抱くようになったのはもう20年以上昔のことだが、まだ宇宙に関してほとんど知識のなかった頃、よく寝物語に次のような宇宙旅行をしたものだ。そうすると不思議と眠くなり、元来寝つきの悪い私でも数分以内に眠りに就くことができた。以来、私は就寝時に必ず宇宙のことを創造する習慣がついた。
-私は超光速の宇宙船に乗って、地球から任意の方向へひたすらまっすぐ宇宙を移動し続ける。すると、やがて星々の光が途絶えて真っ暗闇の空間に出る。宇宙の果てで、そこから先は宇宙の外だ。私はかまわずそのまま進み、しばらくしてふり返ってみると、われわれの宇宙がどんどん遠ざかっていき、やがて星屑のように小さくなり、それも消え果てる。その真っ暗闇の真空の中をさらに進んで行くと、前方に微かな光が見えてくる。私はその方向に宇宙船を進めると、光はどんどん明るくなり、やがて私が遠ざかってきたわれわれの宇宙のような大きな宇宙が姿を現わす。そこは、われわれの宇宙とは違うもうひとつの宇宙なのだ。
極めて素朴で無邪気なマルチバース論だ。実際に思考実験としてこのようなことがあり得るとしたら、私が「宇宙の果て」と思ったのはせいぜい超銀河団の果てであって、真空のエネルギーないしはダークエネルギーで満ちた闇の空間の果てに見えてきた光は、その先にある超銀河団に過ぎないだろう。
では、宇宙の果てを目指して進む本当の思考実験をした場合、地球を起点に任意の方向にひたすら進んでいくと、やがて宇宙の果てに行きつくかというと、現実にはいつの間にか再び出発点の地球に戻ってきてしまう。宇宙の形を、私たちは膨張する風船かシャボン玉のように考えがちだが、時空は複雑に歪んでおり、この宇宙には中心も周縁もない。あるいは宇宙のあらゆる場所が宇宙の中心だともいえる。だから、私たちはどうあがいても、宇宙の外に出ることはできないのだ。

既存のマルチバース論
では、その宇宙の外には何が「ある」のか? あるいは宇宙の外はどうなっているのか? 宇宙は特異点を通して無から始まり、インフレーション、ビッグバンを経て、今日も膨張を続けているといわれる。そして、およそ10の100乗年後に終わりを迎え無に帰するともいわれる。
そして、今日、いくつかのマルチバース論が提唱されている。例えば、宇宙は洗濯の泡のように無数の泡宇宙からなっており、それぞれの宇宙はワームホールやブラックホールでつながっているとか、特異点の前には別の宇宙の終焉があり、その宇宙が特異点で反転して新たなインフレーションを起こして次の宇宙を誕生させるとか、あるいは時間の流れの瞬間ごとに無数の宇宙に枝分かれしていくというパラレルワールド等々。それらのマルチバース論はどれも未だ仮説の域を出ず、その存在が実証されたわけでもない。
しかし、それらのマルチバースがもし存在するならば、将来その仮説が否定しようもない確かな理論として確立されて、その発生と消滅のメカニズムが解き明かされることだろう。あるいは、ワームホールなり特異点を通して、人間が行き来しないまでも、他の宇宙とのなんらかの情報の交換がなされてその存在が実証的に証明されることだろう。

絶対不可知のマルチバース
だが私は、それらのマルチバース論とは違う、たとえその発生・消滅のメカニズムが解明され、われわれの宇宙は何も特別な存在ではなく、ある条件さえ整えばいくらでも発生しうるものであることが理論的に明らかにされ、無数の宇宙の存在が推測されるとしても、それらの宇宙は純粋に無から生じて無に帰するため、宇宙同士は絶対的無関係にあって他の宇宙の存在を実証的に明らかにすることは絶対不可能な、そんなマルチバースを考えている。私は宇宙論の素人ではあるが、専門家が主張する上述したような様々なマルチバース論のいずれも仮説の域を出ない以上、このようなマルチバースを主張する〝権利〟はあるのではないだろうか?

絶対的無限(開いた無限)と相対的無限(閉じた無限)
宇宙は無から生じて無に帰する。では、宇宙の外側は「無」なのだろうか? 宇宙は無の中に存在しているのだろうか? しかし、無とは何もないのだから、その中に何かが存在することは論理矛盾だ。恐らく、宇宙は特異点を通して無から発生した瞬間、無限の有へと相転移すると考えられる。そして、宇宙がその寿命を終えると、再び特異点を通して無へと相転移する。つまり、宇宙は常に無限なのだ。だが、われわれの宇宙は特異点からインフレーション、ビッグバンを経て常に膨張してきた。つまり一定の大きさを持ってきた。それが無限というのは矛盾する。しかし、無限を絶対的無限(開いた無限)と相対的無限(閉じた無限)に分けて考えれば、その矛盾は解決する。絶対的無限(開いた無限)とは、喩えていえば、最初に述べた素朴な宇宙論ではないが、どこまで進んでも果てのない文字通りの無限だ。それに対して相対的無限(閉じた無限)とは、地球の上空をまっすぐに飛行すると出発点に戻ってきて永遠に回り続けるように、上述したごとくこの宇宙の果てを目指してまっすぐ移動し続けると地球に戻ってきていつまでも飛び続けるような無限のことだ。したがって、宇宙空間は常に無限なので、中心も周縁もなく、ましてや外側など存在しえない。
このような絶対不可知のマルチバースはSF的には最も味気なく、宇宙論の観点からもつまらないかもしれないが、幸いにも他のマルチバースが抱えるアポリアを解決してくれる。そのアポリアとは、ユニバースには最初と終わりがあることが今日、常識となっているものの、では、マルチバースの過去ないし未来をたどると、どこかに始まりや終わりがあるのか、あるいは始まりも終わりもなく永遠に続くのかという問題だ。後者の場合、ではそもそも〝永遠〟とは何なのか?
絶対不可知のマルチバースを前提にすると、それぞれの宇宙は絶対無関係に存在するので、たとえば、われわれの宇宙の前に他の宇宙が存在したのかとか、われわれの宇宙が消滅した後にも他の宇宙が発生するのか、さらにはわれわれの宇宙に最も近い宇宙はどんな宇宙か等々の疑問自体が意味をなさなくなる。なぜなら、「いつ」とか「どこ」という疑問符は時空を前提として初めて意味を持つものだからであり、「無」によって隔てられ相転移した諸宇宙間には前後も遠近もなければいかなる関係性も存在しないからだ。絶対無関係とはそういうことだ。だからこそ、そんな絶対無関係に存在する無数のマルチバースは理論的には証明できても、実証的に存在を証明することは絶対に不可能なのだ。

身の程知らずな宇宙創造の試み
IMG_3359.JPG最近読んだ本『ユニバース2.0-実験室で宇宙を創造する』(ジーヤ・メラリ著、青木薫訳、文藝春秋、2019年)は、上述した泡宇宙をはじめとする一般的なマルチバースを前提に、われわれ人類が宇宙を創造することを本気で論じている。ただ単に論じるだけでなく、実際にスイスのSERNのLHCでミニ宇宙がつくられるかもしれないというのだ。そして、この本では理論的な実現可能性を論じるとともに、人類が宇宙の創造者になることに関する倫理的あるいは神学的意味や妥当性が論じられている。
私は、上述したような昔の寝物語の中で、われわれの宇宙が外部の超高度な文明を持つ知的生命体(それを「神」と呼んでもいい)によってつくり出された存在であることを想像してみたことがある。「神」は実験室で実験装置の中のわれわれの宇宙を観察しているのである。また、それとは逆に、将来、われわれが宇宙の創造主になることも想像したことがある。なんと、そんな素人考えと同じことを、本気で考え、考えるのみならず実行しようとしている宇宙物理学者らが存在するのだ。
だがしかし、この本の読後感は、私にとってあまり後味のいいものではなかった。私自身が上述したようにそのようなマルチバースでなく、絶対不可知のマルチバース(何者かによる創造が不可能な)を考えていることもあるが、それ以前に、もしそんな簡単に宇宙をつくることが可能なら、人類の文明とは比較にならないほどの超文明社会を築いているだろうこの宇宙にあまた存在するに違いない宇宙人たちが、とっくの昔にいくつもの宇宙をつくっているだろうし、そんな超文明社会には足許にも及ばない猿に毛が生えた(抜けた?)程度の愚かで野蛮な人類に、そんな大それたことをする資格も能力もないだろうという気持ちが先立ったからだ。核分裂も核融合も満足に制御できないような人類が、間違ってもそんな大それたことに手を出すべきではないという倫理観もある。
まあ、それも私のマルチバース論が正しければ、そんな努力はすべて徒労に終わるだろうから放っておけばいいのだが、LHCでの実験でミニ宇宙をつくる構想は、ミニブラックホールをつくる実験の延長上にあるということなので、10年前に危惧されたような破滅的な事故の心配は否定できない。そういう意味で、愚かで野蛮な人類は、「神の領域」を犯すような振る舞いには徹底して禁欲的であるべきだと、私は考える。

とまれ、無とは何か?そして絶対不可知のマルチバースとは……などと寝床の中であれこれ思い巡らせていると、私はいつもじきに夢の世界へと誘われていくのだ。


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新型コロナ騒動を奇貨として、10年戦争を敗戦へ導こう [Politics]

政府・厚労省の無能・無策ぶり
新型コロナウイルス騒動が持ち上がった当初、私は今後の見通しについてふたつの可能性を考えた。ひとつは、4月頃までに流行のピークを迎え、また、昔と違ってワクチンや治療薬の開発のスピードが格段に速くなっている現状では、その頃までにはそれらが開発され量産化のメドもつき、騒動は鎮静化に向かうのではないかという楽観論。もうひとつは、致死率が低いことが唯一の救いとはいえ、ワクチン開発も治療薬も間に合わず、感染拡大に歯止めがかからず、パンデミックに至るという悲観論。
今のところ、今後事態がどう展開していくかは予断を許さないが、こと日本に限って見た場合、楽観論は許されない状況にある。ダイヤモンド・プリンセス号の例をはじめ、政府の初動の遅れと危機管理能力の欠如は目を覆うばかりだ。たとえ世界規模では早期収束が図られたとしても、この国だけは感染が拡大し続け、中国に次ぐ感染者と犠牲者を出すのではないかという危惧が日に日に高まっている。そうなれば、収束には1年以上を要し、その間、対策さえしっかりとられていれば死ななくてもよかった命が多く失われることになり、この国に住む以上、誰でもそのリスクを負わされることになる。まさに国による人災だ。
そうなれば、夏のオリンピックどころの騒ぎではなくなる。早くも観光業には深刻な影響が出てきているが、今後はサービス業、生産業等、多くの経済活動に影響が波及し、日本経済は大打撃を受けることになるだろう。

原子力緊急事態宣言から始まった「10年戦争」
私は3・11の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故による原子力緊急事態宣言以降、この国は平和な時代から「別のかたちの戦争」へと突入し、国民がそれと真正面からたたかわず脱原発と放射能リスク回避から目を背ける選択をした結果として、2012年末のアベ政権の誕生があり、その政権が原発推進政策のみならず、改憲を究極目標に特定秘密保護法や安保関連法、共謀罪等の一連の悪法を強権的に成立させる道へと導き、挙げ句の果てにはアベシンゾーの私利私欲追求のためのモリカケ公文書偽造や桜事件等、一連の犯罪行為を帰結したと思っている。その間、内閣人事局制度により首根っこを押さえ込まれた中央官僚どもは、国民に背を向けてひたすら官邸の顔色を窺い忖度することにのみ汲々とし、公文書の隠蔽・破棄・偽造にまで手を染め、ついにはそうした異常な事態が常態化してしまった。その結果としての、新型コロナウイルス対応を巡る政府・厚労省の無能・無策ぶりと、専門家の意見の無視である。アベはこの間、専門家(いわゆる「有識者」)を各種の私的諮問機関等で自己の私利私欲政策をごり押しするために都合のいいコマとしてのみ使ってきて、彼らの意見を真剣に聞く耳を持たず、逆に自分に都合の悪い意見を言う専門家を排除してきた。そのつけが、今回の新型コロナを巡る事態に如実に表われているといえよう。

これ以上の犠牲を出すことなく「敗戦」を勝ち取ろう
来月11日で「別のかたちの戦争」が始まって丸9年になり10年目へと突入する。10年ひと昔という。もう十分過ぎるほどに十分だ。先の戦争は別名「15年戦争」とも呼ばれ、1931年の柳条湖事件から敗戦まで15年にわたり、国民は狂気の侵略戦争に動員されてきた。しかし、今回の新型コロナウイルス騒動は、思いもしないかたちでの「敗戦」(アベにとっての「敗戦」であると同時に、「戦争」を10年も許してきた国民にとっての「敗戦」)をもたらすことになるのかもしれない。すでに桜事件でアベの化けの皮は完全に剥がれ落ちている。「敗戦」までに新型肺炎によって「尊い犠牲者」ならぬ「犬死に同様の人災死」をこれ以上出さぬためには、この「戦争」を「10年戦争」として是非とも「敗戦」へと導かなければならない。さもなければ、次の「15年戦争」の果ての「敗戦」の先には、決して「戦後復興」は待ち受けていないだろう。
今ならまだ間に合う。腐臭を放つ腐敗政治を根絶し、アデノウイルスならぬアベノウイルスに感染した中央官僚どもを完治させ、本来の「国民全体の奉仕者」へと復帰させ、先の戦後社会が実現し得なかった市民社会と民主主義を今度こそこの社会に根づかせ、国民本位の政治を取り戻す。それを実現するためには、コロナウイルスが国民に蔓延してからでは遅いのだ。


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[社説]「最高賃金」法制化、実践的検討をする時がきた(京郷新聞) [etc.]

社会最大の懸案である不平等解消のために、最高賃金の一部を最低賃金と連動して制限しようという総選挙の公約が出てきた。正義党が出した「最高賃金制」公約がそれであり、賃金最高額を国会議員は最低賃金の5倍、公共機関は7倍、民間企業は30倍までに制限する内容である。地方自治体レベルですでに関連条例をつくって実施するところもあるだけに、社会全体が真剣に議論する時期にきていると思う。
正義党は去る29日、「常識外の賃金不平等が固定化している社会では、国民経済のバランスの取れた成長も社会統合も保障できない。最高賃金制を導入してますます深刻化する所得不平等を改善すべきであるという国民の要求に答える」と、最高賃金制導入の趣旨を明らかにした。併せて外部の人間で構成される国会議員報酬算定委員会を構成することも明らかにした。
最高賃金法は別名「太った猫法」とも呼ばれる。本来、腹いっぱいの資本家を指していた「太った猫」は、2008年の金融危機を経て貪欲な資本家と企業家を批判する言葉として使われた。以後、フランスは公共企業の年俸最高額が最低年俸の20倍を越えることができないようにする法案を、スイスは企業経営陣の報酬を株主が決定するようにする住民発議案を可決する等、各国は両極化にブレーキをかける策を整備している。国内ではシム・サンジョン正義党常任代表が2016年の国会で初期最高賃金法を提出した。法人等が所属役員や労働者に最低賃金額の30倍以上を支払えないようにし、課徴金等によって社会連帯基金をつくって、最低賃金者、非正規労働者支援等に使おうという内容である。この法案は国会での議論には上らなかった。しかし、釜山市が昨年、傘下の公共機関の役員の最高賃金を最低賃金の6~7倍に制限する条例案を通過させたのを筆頭に、計11の地方自治体で議案提出および制定(制定6、議案提出5)され議論に火がついている。
韓国の上下位10%の賃金格差は4.3倍(2018年)で、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちアメリカに次いで2番目に高い。世界的な経済学者らは韓国の労働市場両極化が政治、社会の信頼を損ねて経済活力を低下しうると警告している。シム・サンジョン代表は法案提出時に、「国会で最初の交渉団体代表演説で3党代表がともに不平等解消を第1の課題に選んだ。それにもかかわらず、実践はいつも言葉に及び得なかった」と述べた。今や実践する時がきた。

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「テセウスの船」田村心の努力はすべてムダ骨?-タイムスリップとパラレルワールド [etc.]

祖父殺しのパラドックスとワームホール
1月の新ドラマで竹内涼真主演のTBS日曜劇場「テセウスの船」が始まった。父の冤罪を晴らそうと事件現場の小学校を訪れた主人公・田村心が、事件のあった31年前にタイムスリップし、真犯人を突き止め惨劇を止めようと奮闘する物語だ。あまり期待をせずに初回を見たら、思っていたよりずっと面白かったので、2回目以降も見ることにした。
実は、私はこういう現実にあり得ない設定のドラマはあまり好きでない。その典型例が、ふたりの記憶が入れ替わるというやつだ。解離性同一性障害などで何人もの人格を持つ人物などはありうるが、他人になりきり、かつその相手と人格が互いに入れ替わるなどということは絶対にあり得ない。まあ、それでも物語としてリアリティーを感じさせ、面白ければそれでいいのだが、どうも嘘くささが先立ってしまってドラマに入り込めない。
同様に、過去へのタイムスリップとかタイムトラベルも、一般にあり得ないこととされている。よくその証明として語られるのは、「テセウスのパラドックス」ならぬ「祖父殺しのパラドックス」だ。別に祖父でなくてもよく、要するに、自分が生まれる以前にタイムスリップして自分の親を殺してしまったら、自分は生まれてこないことになる。その生まれなかった自分が親を殺すことはできない-という理屈だ。また、もし未来にタイムマシンが発明され過去へのタイムトラベルが可能になったら、未来から現代に来た人がたくさんいるはずなのに、そのような人はひとりもいない、ということも過去へのタイムスリップが不可能な論拠としてよくいわれる。例えば、世間から脚光を浴びたいと思う人が未来からやって来て百発百中の予言者になることができるだろうが、現実に予言者と称する人の予言的中率は全くたいしたことがない。さらに、競馬好きの人間が過去に行って大金持ちになることも可能なはずだが、そんな人も見たことがない。
しかし、一方でアインシュタインはワームホールを利用して過去に行ける可能性を示した。現在まで、ワームホール自体が発見されていないので、これはあくまで仮定の仮定の話に過ぎないのだが、もしそれが可能ならば、上述したパラドックスはどう解決されるのか?

パラレルワールドが矛盾を解決する
私はこの矛盾を解くひとつの仮説を提示することができる。それは、過去へのタイムトラベルないしタイムスリップは可能だが、ある特定の過去に辿り着いた瞬間、パラレルワールド(平行宇宙)へ移行してしまうということだ。そう仮定すれば、上述した問題はすべて解決することができる。
まず、親殺しのパラドックスについては、私が行った過去は私の来た世界とは微妙にずれた異世界なので、たとえ私が親を殺し、私が生まれなくても、その世界では私が生まれない宇宙であるだけだ。そして、親を殺した私はその世界の私ではなく、異世界からの闖入者、正体不明の不審者に過ぎない。また、未来から来た「予言者」が、ことごとく重大事件を予言することができないのも、その世界は元いた世界とは微妙に異なるので、当然のこと。それでもたまに予言を的中させて世間を驚かせることはできるだろう。同様に、競馬好きのギャンブラーも、もし元の世界でギャンブルに金を注ぎ込み借金まみれの生活をしていたのなら、この世界では大穴を当てて家を一軒くらい建てられるかもしれない。ただし、それも時間が経過してもと来た時間に達するまでのことで、それ以降も競馬を続ければたちまち負けが込むことになるので、その時点できっぱり競馬をやめるのが賢明だ。
あるいは、なかには幼少期の自分と対面したくて過去に行く人もいるかもしれない。例えば私が14歳の私に会いに行ったとする。そうすると、私の記憶には、14歳の時に未来から自分を訪ねてきた数十年後の私と対面した記憶があるはずなのに、私にはそんな記憶がない。もしそうした記憶があれば、私が14歳の私に会いに行く目的は、純粋に14歳の私に会いたいからではなく、私が14歳の時に未来から訪ねてきた私に会ったので、私も14歳の私に会いに行かねばならないという義務感からということになってしまうだろう。だが、この矛盾も平行宇宙の概念を導入すれば、一気に解決する。
では、平行宇宙へ迷い込んだ私は、元の宇宙に戻ることができるかといえば、時間が枝分かれして以降、ふたつの宇宙はけっして行き来することができなくなるので、もしタイムマシーンで元来た時代に戻ろうとすると、戻った瞬間、私は消失してしまうだろう。そうなりたくなかったら、遡った過去で、正体不明の不審者としてその後の人生を送る以外にない。一方、元来た世界で私はどうなっているかといえば、突如失踪して二度と現われることのない行方不明者になるのだ。

「テセウスの船」の結末は?
話を「テセウスの船」に当てはめてみるとどうなるか? 田村心が31年前の音臼村の小学校にタイムスリップした瞬間、彼は平行宇宙に迷い込んでしまった。だから、その後、相次いで起きる事件も、死んだ妻が残したスクラップブックの新聞記事とは微妙に異なって起きることになる。それは単に、田村心がそこに介在したからというだけの理由ではないわけだ。そして、彼がその後、どんなに一生懸命真犯人を突き止めようとして、時には危険を冒してまで行動し、その結果、最後の小学校での大量殺人事件を阻止したとしても、それはそこの世界での出来事にすぎず、彼が本来果たそうとした元来た世界での父の冤罪を晴らすことにはならないのだ。元来た世界では、凶悪犯罪は敢行され、彼の父は逮捕され、依然拘置所に収監されて死刑を待つ身のままだ。そのうえ、田村心自身も、二度と元来た世界には戻れず失踪者扱いされることになるので、生まれたばかりの子どもは両親のいない子どもとして育つことになってしまう。
そして、田村心自身は、めでたく凶悪犯罪が起こらず、父親も冤罪の汚名を着せられずにすんだ異世界で、正体不明の闖入者として年を重ねていく以外にない。
私はこの原作を読んでいないので、ラストがどのように描かれるのか知らないが、もし31年後に幸せな日常を送る家族として描かれるとしたら、そこに登場する30歳の田村心ならぬ佐野○○は、一歩間違えれば父が冤罪で逮捕されて死刑を待つ身になっていたという記憶など保持してはいない。彼は31年前に母親のお腹の中にいた子どもにほかならず、一方、異世界から来た田村心は61歳の初老の人物として、上述したようにその世界のどこかでひっそりと生きていることだろう。

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2019-私のベストアルバムRYMDEN『REFLECTIONS & ODYSSEYS』 [Jazz]

IMG_3340.jpge.s.t.のダン・ベルグルンド(b)とマグヌス・オストロム(ds)がノルウェーのピアニストのブッゲ・ヴェッセルトフトと組んだRYMDENのファーストアルバム。
2000年前後にe.s.t.がもてはやされた頃、私は1枚だけそのCDを買って聴いてみたことがあるのだが、当時、欧米の最新のジャズ情報といえばFMのジャズ番組か「スイングジャーナル」で仕入れるくらいで、普段は60~70年代の主流派やフュージョンばかり聴いていた私には、正直、e.s.t.の音楽は斬新過ぎて共感するところがほとんどなかった。(あるいは単に、エスビョルン・スヴェンソンが性に合わなかっただけかもしれないが…)
だが、ここ3年ほど音楽配信サービスで世界中の最新ジャズを聴くようになり、私の耳も肥えて、ようやく時代の最先端の音に慣れてきた。そんな今の私にとって、昨年聴いたジャズのベストアルバムといったら、絶対にこの作品をあげたい。
ピアニストのブッゲ・ヴェッセルトフトは1960年代から北欧ジャズをリードしてきたノルウェーの出身で、1980年代からヤン・ガルバレク、テリエ・リピダルなどと共演してきたという。
このグループ名RYMDENはスウェーデン語でスペース=宇宙を意味するそうで、ロケットを描いたカラフルなジャケットデザインもいい。
北欧ジャズの伝統とe.s.t.の継承-それは、イントロ的な1曲目のReflectionsを経て、ヴェッセルトフトの力強い同一旋律の繰り返しが印象的なアコースティックピアノで始まる2曲目のThe Odysseyから、質の高い演奏を繰り広げる。そして、短いベースソロの次の4曲目のPitter-Patterは打って変わってリズミカルなフェンダーローズのエレクトリックサウンドだ。
とりわけ私のお気に入りは、親しみやすいメロディーラインからなる7曲目のBergenだ。ヴェッセルトフトのアコースティックピアノにオストロムのドラミング、ベルグルンドのベースソロやアルコベースが絶妙なハーモニーを醸し出し、ラストにコーラスが加わりエンディングへ盛り立てる。
9曲目のRåkはオストロムのシンセドラムから始まり、ヴェッセルトフトのアコピからフェンダーローズへ移る最もエキサイティングな演奏。
最後はフォークっぽいスローな曲で終わる。
とにかく、何度聴いても飽きさせないアルバムだ。

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2020東京五輪ー近代オリンピック廃止の契機に [etc.]

輝いていた1964東京五輪
 当時小学生だった私には、1964年の東京オリンピックに関して、今も多くの記憶が残っている。日本は高度経済成長真っ盛りの時代で、その年の4月にOECDに加盟して先進国の仲間入りを果たしている。そして、開会直前に「夢の超特急」=東海道新幹線が開通した。オリンピック景気は経済に好循環をもたらし、池田内閣の「所得倍増計画」とも相まって、順調にGDPを伸ばしていった。
 私の住んでいた町も東京のベッドタウンとして急速に人口が増え、五輪翌年には市初のデパートが駅前にオープンした。それまで東京に行くと見かけた募金を求める傷痍軍人の姿はいつしか消え、高速道路があちこちに出現した。
 五輪見物自体は、姉が手に入れたウエイトリフティングの予選を母を含めて3人で代々木体育館に見に行っただけだったが、開会式からマラソン競技・閉会式に至るまで、家の白黒テレビで毎日観戦した。参加国は過去最多の94ヵ国で、独立間もないアフリカ諸国が大挙参加した。当時、私は社会科が大好きで世界中の国や首都や国旗をほとんどすべて暗記していたので、その面でも五輪への興味が尽きなかった。

近代五輪の矛盾が凝集された2020東京五輪
 1896年に始まった近代オリンピックは、「平和の祭典」と謳われるが、実際には常にその時々の国際政治に翻弄され、また、1936年のベルリン五輪のように政治利用されてきた。そうした中でも、1964年の東京五輪は、上述したようにかなり成功した例ということができるだろう。
 その後の1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナの武装勢力「黒い九月」によってイスラエル選手11人が殺害された。また、1980年のモスクワ五輪ではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国がボイコットし、次のロサンゼルス五輪ではその報復として東側諸国がボイコットした。
一方、その1984年のロス五輪当たりからオリンピックの商業主義化が進み、かつて「アマチュアスポーツの祭典」と呼ばれたオリンピックも1974年にプロ選手の参加が容認されて以降、この頃からプロ選手の参加が顕著になっていった。
 1964年の東京五輪もそうであったが、五輪を招致すると競技施設や選手村の建設を中心にゼネコンをはじめとした建設資本が潤い、さらにテレビの普及につれて莫大な放映権料をめぐる金の動きが活発化していった。さらに、選手にスポーツウエアや競技道具を提供するスポーツ関連産業、各国のマスコミ、観光産業等々、五輪を巡る莫大な金が動くようになった。
 一方、冷戦時代は東側諸国の選手らはメダルを取ると生涯年金が保障されるなどの優遇が受けられ、国家ぐるみでメダル獲得競争に邁進した。また、冷戦崩壊後はプロ選手の参加とも相まって、メダル争いが熾烈化し、そのためのドーピング問題も深刻化した。
 そうした近代五輪の矛盾が集約されたのが2020東京五輪といっても過言ではないだろう。招致を巡る電通を主体とした贈収賄疑惑、フクシマ・アンダーコントロールに「温暖で最適な気候」といった真っ赤な嘘のプレゼン、国立競技場デザイン問題やエンブレム問題、「安価でコンパクト」の謳い文句を反故にする3兆円とも言われる予算にマラソン・競歩札幌開催を含む広域化、ブラックボランティアに猛暑への無策、なにより「復興五輪」といいながら復興がなおざりにされ、原発事故や放射能汚染がこれを機になかったことにされかねない危惧等々、問題点をあげれば切りがない。

「平和の祭典」がはらむ矛盾の数々
 確かに五輪は、古代オリンピック以来、戦争を休戦してスポーツを競う「平和の祭典」としての意義はあったろうが、それは裏を返せばほんものの戦争をスポーツで代替するものに過ぎず、血は流されず殺人はなされないものの、スポーツ競技の本質は人間の闘争本能に根ざし、優劣を競い、勝者が賞賛されるものであった。そういった意味ではオリンピックは「平和」とはほど遠い、「疑似戦争」による戦争の代償行為といってもよい。
そして、近代五輪はそれを国家単位で競うため、ナショナリズムを必然的に伴う。「スポーツの祭典」は「スポーツによるナショナリズムの鼓舞」であり、「スポーツによるメダル獲得を競う国家競争」にほかならない。
それは、ソ連・東欧圏の社会主義体制の崩壊によって、いったん弱められたかに思われたが、西側資本主義一強体制のもと、商業主義とプロスポーツ化が一体化して、より過酷でグロテスクな競争を生むことになった。
少なくとも1964年東京五輪の頃までは、学校の部活の延長線上のはるか先に五輪出場やメダル獲得を夢見て、その夢を叶えることも不可能ではなかったが、今ではそれは夢の夢に過ぎない。アクロバット化した各競技は、子どもの頃から英才教育を施された一握りのエリートアスリートのみが挑戦権をうることのできる世界になっている。そのためにはすべてを犠牲にしたトレーニングと、ときには不正なドーピングが行われ、それが選手生命はおろか、選手の生命そのものも縮め、奪うことにもなりかねない。1988年ソウルオリンピックで陸上競技100m、200m、400mリレーの金メダリスト、フローレンス・ジョイナー選手が38歳で夭逝したのも、薬物の副作用が疑われた。
 現在では、4年に1度のオリンピック以外に、サッカーやラグビーのワールドカップ、世界陸上はじめ各競技のW杯にフィギアスケートのグランプリシリーズ……と、各競技ごとの国際大会が目白押しで、それは各国で放送されて高い視聴率をたたき出している。そうした娯楽が少なかった昔と違い、それらすべての競技を一堂に集めて「スポーツのデパート」を開催する必要性はもうないのではないのか?
 上でも触れたように、「平和の祭典」にメダル競争、国家競争はふさわしくない。特にそれは、オリンピックとともに開かれるパラリンピックについて特にいえるのではなかろうか? 「ナンバーワンよりオンリーワン」。それが障害者の真に輝ける姿なのではないのだろうか? ナンバーワン至上主義のメダル競争は、パラリンピックにかぎらず、「オリンピック精神」そのものに反するものだと思う。
 また、オリンピックは男女別に分かれて競われるが、LGBTの権利が叫ばれる現在、そうした男女区分は時代にそぐわないものになってきている。また、以前にも何度か性別確認検査によって失格とされメダルを剥奪された選手がいた。トランスセクシュアルやインターセックスの人にとって、これは残酷なシステムだ。

悪評のうちに幕を閉じるだろう2020東京五輪を五輪廃止の契機に
近代オリンピックは、良きにつけ悪しきにつけ、近現代資本主義の世界化と歩を合わせて進んできた。その資本主義自体が終焉期に突入しつつある今、近代オリンピックもその歴史的使命を終えようとしているのだ。これ以上、無理矢理それを続けようとすれば、利権まみれの汚職の温床となり、選手たちが各国のゼネコン、スポーツ産業、放送業界、観光業界、その他世界的独占企業スポンサーの食い物にされ、アクロバティックな超絶技巧に大衆が感動を強いられる「感動ポルノ」化さえ危惧される。娯楽としてのスポーツは、各種スポーツ単体で、そのスポーツのファンがいくらでも好きなだけ楽しめばいい。オリンピックだからといって、ふだん見向きもしない種目のにわかファンになっても、その選手らは本当に嬉しいだろうか? ルールさえろくに知らないファンらの声援が……。
 さらに2020東京五輪は、1936ベルリン五輪のように、ナショナリズムの鼓舞に政治利用される危惧さえある。組織委の旭日旗容認問題は、国家間、民族間の対立・紛争を惹起しかねない。
 そうでなくとも、2020東京五輪はすでに数々のケチがつき、マラソン・競歩は札幌へ避難したが、聖火リレーや合宿地での福島原発事故由来の高濃度放射能の検出、東京湾のトイレレベルの汚水の中で行われるトライアスロン、そしてなにより大会期間を通しての酷暑・猛暑による選手、観客、ボランティアらの熱中症の恐れ……と、場合によっては「史上最悪の五輪」の悪評とともに幕を閉じることになりかねない。
 だが、もしそうなれば、それを機に、「五輪不要論」「五輪廃止論」の国際世論が一気に吹き出すこともありうるだろう。それでもIOCが五輪を継続するなら、そのうち選手の方がそっぽを向くようになり、参加国もどんどん減っていくのではないだろうか?


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福島の放射能汚染そのままで…東京オリンピック聖火リレーを?(ハンギョレ) [No Nukes]

聖火出発地の放射線量測定結果
福島原発事故以前の1千倍
今年の台風で除染作業が水の泡
「日本政府汚染実態過小発表」

日本政府が提示した1人当たり許容基準
原発労働者被曝制限値と同じ
「がんに安全な放射線値はない」

汚染地図・疫学調査情報すべて不確か
平和なオリンピックを行うには透明な情報公開を

国際環境NGOグリーンピースは4日、東京オリンピック聖火リレー出発地に指定されたJヴィレッジで高濃度放射線量が測定されたと発表した。グリーンピースが10月末にこの地域の放射線量を調査した結果、Jヴィレッジの駐車場で福島原発事故前の1千倍を越える最高71μSv/hの放射線量が検出された。ここは福島第2原発から20km離れた地点で、2011年3月の東日本大震災の時には福島原発事故の対応拠点として使用された。日本政府は来年3月26日にJヴィレッジ近隣から聖火リレーが出発し、福島県全域を回ると発表している。グリーンピースソウル事務所気候変動活動家のチャン・マリは、先月28日に韓国国会で開かれた「東京オリンピックと放射能リスク」セミナーで、「最近、福島の現場を訪れて、福島県の面積の70%を占める山地が放射能汚染の貯蔵庫であるという事実と、今年夏の台風19号がこの地域を再汚染したことを確認した。オリンピックの2種目が開かれる予定の福島県に集中豪雨や台風が接近したら、果たして平和なオリンピックが可能だろうかという疑問が生じた」と述べた。
福島地域の除染作業が円滑に行われたという日本政府の発表とは異なり、東京の北の地域は相変わらず放射能被害が発生しているという指摘が相次いでいる。オーストラリア・メルボルン大学のティルマン・ラフ教授は、「今年5月中旬、福島県飯舘村の除染敷地のモニタリング測定所では0.25μSv/hが測定された一方、測定所の外では0.3~0.4μSv/hが検出された。さらに子どもたちが遊んでいる運動場では2.5~2.6μSv/hが測定された。日本政府が汚染の実態を過小発表している」と指摘した。ラフ教授は1985年にノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師会議」と2017年にノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に所属し、世界保健機関(WHO)諮問委員を務めている。飯舘村はラオスのオリンピックホストタウンである。
福島県住民である加藤凜は国会のセミナーで、「山地は除染が不可能であり土壌汚染が深刻で、キノコや山菜、野生のイノシシなどで高濃度放射線量が測定されている。今年9月5日にはキノコ類の出荷が制限された」と証言した。福島原発事故が起きたところから60km離れた福島市で生活していた凜は、原発事故の後、お腹が痛くないのに下痢をし、娘がずっと鼻血を出したため、避難地域でないにもかかわらず大阪に引っ越した。彼女は「今年2月に以前住んでいた家を訪ねてみると、高濃度土壌を除染して集めたフレコンバッグが山のように積まれていて、放射線量が急上昇した。昨年の福島県放射能汚染地図を見ると、福島原発から遠く離れているこちらの濃度が原発付近と同様に高線量だった」と述べた。

フレスコバッグ.png

日本政府が1年間に1人当たり被曝許容値を20mSvと示しており、それ以下の濃度ならば何の問題もないかのように許容していることに対しても、専門家らは批判の声を高めている。チュ・ヨンス翰林大学医学部教授は、「国際的に報告された研究結果は、いくら低い放射線量でも、被曝すれば安全でないことを示している。放射線とがん発生の間に閾値(一定水準以上なら発病する臨界値で、逆にそれ以下ならば安全という数値)はないというのが通説」と話す。韓国は原発従事者が5年間累積100mSv被曝しないようにしなければなければならないと規定している。日本政府が提示した20mSvは原発労働者の被曝制限数値であるわけだ。
閾値に関連する最新の報告書は、2018年8月、医学ジャーナル「ランセット」に掲載された論文で、アメリカ・イギリス・日本・フランス・スウェーデン・イスラエルの6ヶ国で9つのコホート(同一集団追跡調査)研究データを総合して、児童・青少年期に年間100mSv以下の低線量放射線に被曝した時のがん発病傾向を分析したものである。1915~2004年の26万2573人に対する分析で、平均約20年間観察し、骨髄に被曝した放射線量は平均累積19.6mSvであった。そのうち154人は急性・慢性骨髄性悪性腫瘍に、40人は急性リンパ性白血病にかかり、221人はその他の白血病(慢性リンパ性白血病等)にかかった。チュ教授は「論文は最も低い5mSvに比べて5~100mSvまでが3倍程度危険であることを示している。論文の結論は電離放射線の安全な閾値はないということだ」と説明した。
キム・イクチュン反核医師会運営委員(元原子力安全委員会委員・元東国大学教授)は、「東京オリンピックに行けばどれくらい放射線に被曝するのか、日本国民は一日どれくらい被曝しているのかを知っていることが最も重要だ。しかし、日本政府が公表する汚染地図は福島近辺だけ表示されていて、疫学調査情報も不十分だ」と指摘する。現在、日本では「みんなのデータ」という市民団体が、市民が測定した放射線量結果を集めて全国汚染地図を作っているのが実情だ
キム運営委員は、「日本政府が唯一公表している疫学資料が福島の子どもの甲状腺がんであるが、30万人中218人と公表しただけで、比較対象は明らかにしていない。アメリカ人全体を対象にした結果値(年間100万人当たり1人)に比較すると70倍、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の資料(100万人当たり3人)と比較しても23倍に達する」と言う。彼は「停留睾丸(胎児の睾丸がお腹の中で作られて降りてこないまま生まれた状態)が13.4%増加し、死産率が2012年に12.9%増加した後、まだ原状回復されていない点等に関する精密な疫学調査が必要だ。日本政府が東京オリンピックを平和のオリンピックとして行うには情報公開から透明にしなければならない」と強調した。
2019.12.9(イ・グニョン記者)

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死後の世界はないが、「永遠の天国」はある? [etc.]

昨年、βエンドルフィンという言葉に出会って臨死体験に興味を覚え、立花隆『臨死体験』(文春文庫)を読んでみたりもした。この本の元となったNHKスペシャルが放送された1991年当時、私は韓国に在住していたので知らず、その後、本にまとめられたときもそれを知らずにいた。
立花隆はこの本で、取材で会った多くの臨死体験者の話を通して臨死体験そのものは疑っていないが、死後の世界があるのかどうかについては明確な考えを述べていない。
私自身は、元来が無神論者で唯物論者なので、臨死体験もβエンドルフィンをはじめとした脳内の鎮痛・多幸感をもたらす神経伝達物質の作用によるものと考えている。ただ、そうすると、立花も述べているように説明のつかない現象-例えば「幽体離脱」とか、何百キロ、何千キロも離れた場所に住む人の様子を見た(しかもその情景が客観的な状況と一致する)、というような-に説明がつかない。
だが、その点に関しては、私は「テレパシー」の存在を信じる。といっても、オカルト的な意味でのそれでなく、脳波(電磁波)の強力な作用が「テレパシー」だと思うのだ。いわゆる第六感というものも、恐らくそれに近いだろう。
私は子どもの頃、予知能力があった。年に1度くらいしか来ない親戚のおばさんが、ある朝突然「○○おばさんが来る」と予言すると本当に来たりした。また、学生時代に深刻な挫折体験をして引きこもり、死と向き合う毎日を送っていた頃、ある晩、800キロも離れた実家の姉から珍しく電話があり、「私とお母さんが昨夜、あなたの不吉な夢を見たのだが大丈夫か?」と心配してきたことがある。その時私は、無意識にテレパシーを発し、誰かに助けを求めていたのかもしれない。
もしかすると、言語を持たない動物同士は、テレパシーによって私たちが想像するよりはるかに豊富な情報交換や感情のやり取りをしているのかもしれない。私たち人類は、言語能力を獲得することによって、本来持っていた能力を失ってしまったのかもしれない。しかし、純粋無垢な子どもや、死に臨んだ人、精神的危機に直面した人などに、わずかに残されたその能力が一時的に強化されるとも考えられる。
それはさておき、昨年、いろいろ臨死体験について調べてみた結果、私も臨死体験の普遍性を疑わなくなった。実は、私の身近にも、昔、一酸化炭素中毒で死にかけたとき、臨死体験をした人がいる。人間は、どんな形にせよ、死を悟ったとき、その苦痛から逃れようとする本能に根ざして、鎮痛や多幸感を呼び起こす脳内神経伝達物質を通常の何十倍も一気にニューロンからシナプス間隙に放出する。その結果、眩しくはないが強烈な白い光の中を漂って得も言われぬ幸福感に浸ったり、真っ白な石が敷きつめられた清流のほとりに出たり、色とりどりの花が咲き乱れる坂道をひたすら登っていったりする光景に出会う。
しかし、臨死体験者はいうまでもなく死者ではなく、死直前からの生還者だ。だから、その先に何があるのかは、誰も知らない。ある人は死後の世界-天国や極楽-を信じ、そこから恐らく、その昔、宗教や信仰心も生まれたのだろう。一方、私がこの問題に対して出した結論は、「死後の世界はないが、永遠の天国はある」だ。
アインシュタインの一般相対性理論によると、例えばブラックホールに落ちていく宇宙船と、それを観察している人がいるとすると、宇宙船の中の人にとっては普通の感覚で時間が流れ、ブラックホールが近づくとどんどん速度を増して宇宙船は吸い寄せられていき、あっという間にブラックホールに飲み込まれてしまう。しかし、それを観測している人からすると、最初のうちどんどんブラックホールに向かって落ちていった宇宙船は途中からだんだん速度が遅くなり、ブラックホールに飲み込まれる直前になると、とうとう止まったように見え、いつまで経っても中に吸い込まれない。
人間の死に当たっては、喩えていえばこれと逆のことが起きているのではないだろうか? つまり、死を看取る家族や医者や看護師などにとっては、時間は時計通りに流れ、患者の死は一瞬の出来事、一通過点に過ぎない。しかし、死にゆく人にとっては、臨死体験の最終局面を経て、ついに「天国」へと至るのだ。それは、もしかすると、上述したような多幸感に包まれた情景の延長かもしれないし、その先の何かかもしれない。とにかく、死の直前、人は多幸感の頂点で「永遠の天国」に到達する。エクスタシーの絶頂で時間は止まり永遠と化す。死とともに時は止まるのだ。したがって、永遠は時間の停止と同義だ。(その「永遠」を「死後の世界」と思うかどうかは自由だが)
最近、量子重力論の第一人者であるカルロ・ロヴェリの著書『時間は存在しない』(NHK出版)を読んだ。それによると、私たちの世界にとって絶対的な存在条件と感じられる時間は、実はエントロピーの増大の結果に過ぎない。また、近代になって時計が時間の尺度として定着するようになるまでは、時間の流れは時と場所によって大きく異なっていた(日時計のように)。また、人は何かに熱中しているときはあっという間に時間が流れるが、苦痛に耐えているときは時間はゆっくりと流れる。要するに、この世、この宇宙に、「絶対的な時間」など存在しないのだ。
そうだとすれば、上述した人の死の瞬間における「永遠の天国」=時間の停止説も、あながち的外れな推論ではないような気がする。

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京都 紅葉 2019 [Photograph]

先週末、念願の京都紅葉見物に行ってきた。晴天に恵まれ、初詣並みの人出を除けば、最高の紅葉日和だった。

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桂川


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渡月橋


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天竜寺


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東寺

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HPSとADHD-障害か気質か? [Anti-psychotropic drugs]

最近、HSP(Highli Sensitive Person)という言葉に出会った。一般に繊細・神経質・内向的といわれる人たちが持つ「気質」のことで、まさに私自身がそうだ。1996年にエレイン・N・アローンという学者が提唱した概念だというから、比較的最近できた言葉だ。詳しくは「HSP診断テスト」(hsptest.jp)を参照されたい。
私の年になると、自分がHSPに当てはまると分かってもさしたる感動はないが、その自分も、今から15年前に場面緘黙症という言葉に出会った時は大きな感動を受けた。幼い頃から心の片隅にわだかまり続けてきた疑念が一気に解消されたからだ。自身の孤立、孤独、生きづらさの原因が分かり、自分は決して特殊な存在ではなく、その概念で括られる「仲間」がいたことに安心と慰めを得られた。こうした体験は、たとえばある程度成長してから、自身がアスペルガー症候群であることを知った人の口からも聞いたことがある。
人の性格や気質、人格のこうしたカテゴライズそのものがナンセンスだという人もいるかもしれないが、「自分が何者か」を知ることを通して、自己とより正確に向き合い、自己解放の一助とできるなら、それは決して意味のないことではない。
HSPのいいところは、「障害」ではなく「気質」と定義していることだ。「障害」と概念づけることからは、→病気→治療の対象(→向精神薬の投薬)というベクトルが生じ、「障害」の克服こそが自己解放という方向づけが与えられ、自分を回り(社会)に合わせていこうとする発想しか生まれない。だが、「気質」と概念づければ、それは持って生まれた「個性」なのだから、いい面は伸ばし、ネガティブに捉えられがちな面もポジティブに活かす道を模索し、時には回り(社会)に合わせる方法を模索することも必要になるだろうが、もし仮にそのことに「障害」や生きづらさを感じたら、逆に回り(社会)に自分の「個性」を理解してもらい、回り(社会)の意識やシステムを変えていく解決法も探られなければならない。
LGBTもひと昔前までは「病気」「障害」とされ、「矯正」の対象とされていたが、今は持って生まれた「性的指向」や「性自認」と捉えられ、彼らの生きづらさを社会を変えることで解消する方向へ向かいつつあるのが世界の趨勢だ。
ADHD(Attention-deficit hyperactivity disorder)という「障害」がある。注意欠陥多動性障害と訳されており、21世紀に入って日本でも多くの子どもたちがこれに該当するとされ、医療の対象とされてきた。最近では「大人のADHD」が真面目に語られ、「発達障害」というより曖昧な概念とともに一人歩きして社会に認知されている。私はかねがね、ADHDに関しては1980年代以降、アメリカの製薬会社、精神医学界によってつくり出された「障害」であり、子どもたちが向精神薬によって医療の食い物にされていると批判してきたが、残念ながら日本でも、そうした事態はますます深刻なものになっている。昔なら、クラスに一人や二人はいた授業の妨げになる「ちょっと困った子」を、授業の生産性を妨げる因子として排除・矯正すべく、また向精神薬を投与することで製薬会社に巨額のマネーを生み出す「障害」として考え出されたのが、ADHDだ。
私は以前、「大人の発達障害」の会をやっている「広汎性発達障害」を自認する人物に会って話を聞いたことがあるが、その人自身は向精神薬の危険性をある程度認識しながらも薬をやめられずにおり、会のほとんどのメンバーも薬を飲んでいると言っていた。「障害」を克服し、回り(社会)に自分を合わせようとして、みな最も手っ取り早い手段として向精神薬に頼っているのが現状だ。
だが、私は今回、HSPという言葉に出会って思ったことがある。たとえばADHDもADHPと置き換えてみたらどうか? つまり、「注意欠陥多動性障害」ではなく「注意散漫多動性気質」だ。確かに、「診断テスト」で高得点するような「気質」の人々は子どもにも大人にも一定数おり、その「気質」の偏りがときに回りの社会と軋轢を生む。しかし、前述したように、「気質」であって病気でも「障害」でもないのなら、その人は必ずしも回り(社会)に合わせて生きて行く必要はないし、むしろ自分にあった仕事なり場所を見つけたり、それでも逃れられない生きづらさは、回り(社会)に変わってもらうしかない。
このことは、すべての「障害」についても言えることかもしれない。確かに私も罹ったことのあるパニック障害や強迫性障害のような「障害」のように、ある一定の「気質」を持った人が一定の環境下で発症する「病気」もあり、それは薬以外の方法で「治療」可能であり、「治る」ことができる。だが、多くの心身の「障害」は、先天的なものであれ、後天的なものであれ、「治すことのできない」その人の「個性」の一部になっている。生きづらさを人々にもたらす「障害」の多くは、その人自身にあるよりも、むしろ社会にこそあると言えよう。
「障害(者)」という言葉自体が、生産性を基準に社会がつくり出した概念と言ってもいいかもしれない。だったらやたらと人々に「障害(disorder)」というレッテルを貼るのをやめ、「そういう(あるカテゴライズされた)person」と捉えて、回りの意識と社会のシステムを変えることによって、彼らの生きづらさを軽減し、いろいろにカテゴライズされた人々が、一人も生きづらさを感じることなくともに生きていくことのできる世の中を目指したいものだ。

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