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金と労働、ロボットとAI、そしてベーシックインカムについての覚え書き [Basic income]

資本主義社会において価値を測る絶対尺度は金だ。そしてそこから、労働は義務であり善であるという倫理観が導き出され、その両者が結びついて「働かざる者食うべからず」の規範が絶対化される。
しかし、詳しく分析すると、金と労働との関係は必ずしも整合性があるわけではない。世の中では、働いて得た金だけが尊ばれるわけではなく、詐欺や恐喝など犯罪によって得られたものでない限り、どんな手段によって得られたものであれ、金を得て経済的に自立している者が「一人前の社会人」として認められる。たとえそれが親の遺産であっても、それを管理する会社の代表取締役にでも納まれば、彼は非難されない。
一方、同じ労働であっても、ある場合は金と交換され、他の場合は無償労働とされることもある。寝たきり老人の介護であっても、介護士の資格のある者が他人の介護をすれば賃金を得られるが、実の子どもや息子の妻の介護は無償だ。だからといって、必ずしも介護士の介護が身内の介護より被介護者にとって心地よいものとは限らない。
あるいは、プロの作家の作品は出版社から原稿料や印税を得ることができるが、アマチュア作家の作品は無償で同人誌に掲載され、作者がその雑誌の同人なら制作費さえ負担しなければならないだろう。だからといって、プロの作家の作品がいつもアマチュア作家の作品よりいいとは限らず、アマチュア作家の作品がより多くの読者の感動を呼び起こすこともあるだろう。
単に善意で砂浜のゴミ拾いをしても1円の得にもならないが、「きれいな砂浜プロジェクト」を立ち上げて個人の寄付や企業の賛助金を募れば、ゴミ拾いも金になる。
その国でプロ興行のあるメジャーなスポーツに子どもの頃から打ち込み実力を磨いた選手は、大人になってもプロの選手として金を稼いでスポーツを全うできるだろうが、その国でマイナーなスポーツに取り憑かれた子どもは、大人になってそのスポーツを続けようとすれば、アルバイトでお金を稼ぎながらでなければそれを全うできない。たとえプロ選手が二流で、アマ選手が世界に通用する一流アスリートであったとしても。
そんな社会で、無償の労働がいちおう労働として評価され敬意を表されうるのは、家事労働くらいかもしれない。
また、朝から晩までパチンコ屋に入り浸ってお金を浪費する者は、社会から白い目で見られ指弾されるが、彼らから年間20兆円も巻き上げているパチンコ産業は”立派な”産業であり、そこで働く従業員が非難されることもない。
あるいは、特定の土建業者に公共事業がいくように斡旋することを仕事と心得ているような議員が、世間から「先生、先生」と崇められ、高額の報酬を得ている。
一方で、基幹産業の製造業の生産ラインで流れ作業に携わる派遣労働者は、毎月生きていくのが精一杯の金しか稼げず、基幹産業の孫請け企業の労働者は、世界に誇る職人の腕前でも、親会社の景気や為替に左右され賃金遅配も珍しくなく、たまにボーナスが出ればラッキーな状態だ。

そんななか、今後10~20年以内に、ロボットやAIが人間労働の半分を代替するともいわれている。そうなったら、生半可な失業対策では対処できない。いや、ロボットによる労働の代替はますます進んでいくのだから、もはや街に溢れる失業者を防ぐ手立てなどはない。
生産されたものは流通して消費されてこそ経済が成り立つ。とくに消費財は人口の圧倒的多数を占める労働者が消費することで経済が回る。その労働者の大半が失業してお金を持たなくなったら、経済は成り立たなくなる。
人間に取って代わったロボットは、人間のように労働の対価=賃金を要求しない。労働者のもとへ行っていたお金は、ますます企業=資本のもとへ集中し、金詰まり現象を起こすだろう。
その金を、何らかの形で”失業者”へ環流させない限り、経済は窒息死するしかなくなるだろう。そのためのベストなシステムがベーシックインカムであることに、富の独占者たちも気づかざるを得なくなるだろう。

もはや、「働かざる者食うべからず」の規範は放棄せざるをえなくなるだろう。それと同時に、人々は「労働とは何か?」という根源的な問いにあらためて直面することになるだろう。それは今まで、食うための手段に過ぎなかった。だが、ベーシックインカムのある社会では、それは手段から目的に転化するだろう。
金を稼げるかどうかが労働か否かを測る尺度であることをやめるだろう。ベーシックインカムのある社会では、労働の定義は自己実現とイコールになるだろう。
ある学生が卒論を書くために日本とスイスで行った意識調査によると、生活するに十二分なベーシックインカムが支給されたら何に使いたいかとの質問に、両国ともに目についた回答は「旅行」だった。今は旅行といえばレジャーか趣味としか認められないが、ベーシックインカムのある社会では、旅行は立派な仕事、旅人は立派な肩書きになるかもしれない。
思えば江戸の昔、松尾芭蕉の仕事は旅だった。ただ彼は、旅をしながら俳句を詠み、それが人口に膾炙したため、彼の名は後世に伝えられることになった。ベーシックインカムのある社会では、無数の旅人たちの中から、後世に残る画家や写真家、エッセイスト、小説家等が生まれることだろう。

だが、ベーシックインカムのある社会で重要なのは、人が優れた仕事をするかどうか、多くの人々に認められる仕事を残すかどうかにあるのではない。人はただ、生まれてくるだけで生きる意味がある。現在では価値を生まない=労働のできない「福祉の対象」、「社会のお荷物」とまで蔑まれている人々も、生きているだけで意味があり、それどころか何らかの労働をなすだろう。その労働は、家族を和ませることかもしれないし、誰かに愛され、あるいは誰かを愛することかもしれない。いや、周囲の人々を怒らせたり、反発を引き起こし、そのことによって何らかの問題を提起することかもしれない。
ベーシックインカムのある社会では、今までとうてい労働と思われなかったようなことが労働になる代わりに、今では立派な労働であり、その労働によって成り立っているいくつかの「産業」が、消えていくか、規模を大幅に縮小することだろう。毎年のようにモデルチェンジする商品。ゴミとして捨てられるほど生産される食品。ただ時間を埋め広告収入を得るためにだけ制作されるテレビ番組。毎日雨後の竹の子のように登場するゲームソフト。年々増えていく新たな「病名」とそれを”治す”新薬。保険業。教育産業。そして「公共事業」……手段と目的が逆転し、成長のため、金のために無理矢理つくりだされてきた仕事と産業自体が、もはやゴミ箱行きだ。
その最たるものが原発だろう。だが、こればかりはゴミ処理に何百年もの歳月を要することだろうが……。
そして、ベーシックインカムが世界的規模で実現したとき、テロという仕事、戦争という産業も消滅することだろ。
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