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精神科、心療内科という言葉自体のいかがわしさ [Anti-psychotropic drugs]

病医院には看板に掲げる標榜科というものがある。以前は内科、外科、眼科、皮膚科など比較的単純だったが、2008年に法律が改正され、少し複雑になった。それによると、①上記のように単独で標榜できるもの、②内科、外科、歯科に以下の4つの属性を組み合わせて標榜するもの(1.臓器や身体の部位、2.対象とする患者の特性、3.診療方法、4.症状、疾患)、③ ①、②のいずれも可能なもの(精神科、アレルギー科、リウマチ科、小児科等々の場合)
②の1.は例えば胃腸外科、心臓内科等であり、2.は小児外科、女性内科等、3.は漢方内科、臓器移植外科等、4.は感染症内科、糖尿病内科等、といった具合だ。
いずれにしろ、②の「内科」「外科」という大きな括りの下の4つの属性はある程度合理的であり、大部分の標榜科はその名を見れば何を治療する医療機関かがおおよそ見当がつくだろう。
しかし、してみると、精神科心療内科だけは、②の4つの属性のいずれにも当てはまらないように思われる。そもそも精神とは何か? 心療とは何か? 精神という言葉は辞書に載っているが、心療という言葉は「心療内科」という複合語以外に、単独では意味さえなさない。そして、どちらも臓器でも身体の部位でもなければ、診療方法でも、症状でも疾患でもなく、ましてや患者の特性ではありえない。
「精神」とは「肉体」とか「物質」の反対語であり、「心療」の「心」も精神と同様で、実体のないものである。つまり、現代医療の対象ではないのではないか、という根本的疑念がわき起こる

精神分析学派と生物学的精神医学
ここで、精神医学あるいは精神医療の歴史を簡単に振り返ってみよう。
近代西洋医学が成立して以降も、「心の病」は一般的に理解不能なもの、治療困難なものとして、医療の対象というよりも、社会防衛治安維持の対象-つまり、何を考えているか、何をするか分からない危険な対象なので、社会から隔離して施設に収容する対象と捉えられてきた。明治時代の瘋癲病院、精神病院も、まさにそのようなものとして存在し、欧米先進国を中心に、第二次世界大戦後、患者の人権擁護の観点から精神科病棟の開放化が図られて以降も、日本だけは異常に多い精神科病床と異常に長い在院日数が今日に至るまで継続している。そして、その多くを占める統合失調症患者は、未だ「一生直らない病気」という神話のもとに、治す対象としてではなく、管理しやすいように拘束したり、おとなしくしておく目的のために薬を投与されている。医療従事者のみならず、社会一般の「精神障がい者」への差別と偏見がそうした人権侵害を許しているのだ。例えば、今年7月に起きた相模原事件では、容疑者が「精神障がい者」かどうかの検証もなしに、措置入院制度の強化が、あたかも事件の再発防止策であるかのように語られ、検討されている。あんな凶悪で異常な犯罪を起こすのは「精神障がい者」に違いないから、隔離・収容を強化しなければならないという偏見・差別が、アプリオリの前提となっているのだ。
一方、精神医学、精神医療の歴史には、これとは異なる流れ、つまりフロイトによって創始された精神分析に始まる精神療法、心理療法というアプローチが存在する。つまり、精神や心理、心のあり方を分析し、患者の傷ついたり偏ったり弱ったりした心の有り様を改善して、治していこうという方法論である。しかしこれは、病気の原因を特定し、対症療法であれ根本療法であれ、物理的にそれを治していこうという西洋医学の方法論とは根本的に異なり、むしろ文系の心理学の系譜に属する方法論だ。
アメリカを中心に、20世紀末まで、精神分析派の精神医学が一定の勢力を占め、日本でも戦前から精神分析以外にも、森田療法の神経症治療など、独自の精神療法も編み出され、影響力を持ってきた。
ところが、第二次大戦後、アメリカを起源として、精神疾患を「脳の病気」と捉え、身体疾患と同様に薬物療法中心にアプローチする生物学的精神医学が勢いを増し、今日、日本の精神医療も完全にこの生物学的精神医学が席巻している。
もちろん、精神疾患が脳の病気として病気の原因が特定され、その病因に対する、対症療法であれ根本療法であれ、有効な治療法が確立され、患者が完治するなら、なんら問題はない。ところが実際には、いかなる精神疾患も、未だその原因が特定されず、推定の域を出ていないにもかかわらず、何故か結論部分の薬物療法だけが絶対的治療手段を装って患者に施されている。その結果は、一時的な改善は見られても、中長期的にはむしろ症状が悪化し、様々な副作用を招来している。
もし精神医療が本当に「脳の病気」と確信を持って断定できるなら、精神科とか心療内科などという胡散臭い名称を捨て、はっきり脳内科を標榜すればいいだろうが、彼らにその自信は微塵もない。
一方の精神療法、心理療法はといえば、精神科に通院すると「精神療法費」が点数にカウントされるが、それは精神分析とか認知行動療法とか呼べるようなしろものでは全くなく、「どうでしたか?」と問い、「変わりありません」と答えれば、「じゃあ、今のお薬を続けましょう」、「ちょっと具合が悪いです」と言えば、「じゃあ、お薬を増やして様子を見ましょう」と、オウムでも答えられそうな「療法」で何千円も稼ぐという、医者にのみおいしい話に過ぎない。精神科医、心療内科医の大半は、きちんと精神療法を学んでもいないので、まともなカウンセリングができるはずもない。なかには、医師自ら、あるいは臨床心理士等を使ってカウンセリングを併用している医院もあるが、あくまで薬物療法が主であることに変わりはない。
精神医療を否定する人の中には、精神療法まで完全否定する人も少なくないが、私は自身の経験からも、精神療法の効果は認める。昨年、公認心理師法が成立し、「公認心理師」が国家資格となり、今後、公認心理師が心理検査、カウンセリング、心理療法などを行うようになる。理系の医学とは異なり、文系の心理学の系譜に属する。
公認心理師は、臨床心理士等の民間資格に代わるものだ。しかし、公認心理師法第42条2項には「公認心理師は、その業務を行うに当たって心理に関する支援を要する者に当該支援に係る主治の医師があるときは、その指示を受けなければならない。」とある。これは、精神科や心療内科に通院中の患者が、独立した公認心理師の機関を訪れた場合にも、精神科医や心療内科医の治療方針に背くことができないというとんでもない条項だ。また、現状では、精神科、心療内科に雇われて行う「医療行為」には保険が適用されるが、独立機関の場合は保険適用外となる可能性が高い。私はこの42条2項を撤廃すると同時に、鍼灸治療への保険適用のように、独立した機関でも保険適用が受けられるようにすべきだと思う。ただし、同意書を受ける医療機関は精神科、心療内科に限らず、内科等、広く認められるべきだ。
私は、「心の病」はこれから、(精神)医療から独立した公認心理師が支援していくべきだと思う。確かに、私の経験からいって、向精神薬の中にはパニック状態の患者に対症療法的に即効性を持って効く薬もあるので、頓服的に、例えばパニック状態の患者の沈静化、統合失調症の患者の急性期の症状の緩和などに用いることを全面的に否定しようとは思わない。あるいは、重篤な統合失調症患者や大うつ病患者などの診断に長けた小数の「精神科医」の存在は当面必要かもしれない。(大多数の精神科医や心療内科医は的確な診断が下せず、誤診が日常茶飯だ。)そうした医師も、全国の総合病院にひとりふたりずつは必要だろう。
だが、大部分の「心の病」を抱えた患者は、国家資格を持つ公認心理師法の心理検査、カウンセリング、心理療法などで十分回復が可能なはずだ。あるいは、不十分な面は漢方医や漢方薬局、栄養士などとの連携で解決していけばいい。
そして、医療の分野からは、精神科、心療内科といういかがわし名称の標榜科をなくすべきだ。精神医療の根本的解決法、最終目標は、精神医療という概念を医療の分野からなくすことだ。



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