SSブログ

死後の世界はないが、「永遠の天国」はある? [etc.]

昨年、βエンドルフィンという言葉に出会って臨死体験に興味を覚え、立花隆『臨死体験』(文春文庫)を読んでみたりもした。この本の元となったNHKスペシャルが放送された1991年当時、私は韓国に在住していたので知らず、その後、本にまとめられたときもそれを知らずにいた。
立花隆はこの本で、取材で会った多くの臨死体験者の話を通して臨死体験そのものは疑っていないが、死後の世界があるのかどうかについては明確な考えを述べていない。
私自身は、元来が無神論者で唯物論者なので、臨死体験もβエンドルフィンをはじめとした脳内の鎮痛・多幸感をもたらす神経伝達物質の作用によるものと考えている。ただ、そうすると、立花も述べているように説明のつかない現象-例えば「幽体離脱」とか、何百キロ、何千キロも離れた場所に住む人の様子を見た(しかもその情景が客観的な状況と一致する)、というような-に説明がつかない。
だが、その点に関しては、私は「テレパシー」の存在を信じる。といっても、オカルト的な意味でのそれでなく、脳波(電磁波)の強力な作用が「テレパシー」だと思うのだ。いわゆる第六感というものも、恐らくそれに近いだろう。
私は子どもの頃、予知能力があった。年に1度くらいしか来ない親戚のおばさんが、ある朝突然「○○おばさんが来る」と予言すると本当に来たりした。また、学生時代に深刻な挫折体験をして引きこもり、死と向き合う毎日を送っていた頃、ある晩、800キロも離れた実家の姉から珍しく電話があり、「私とお母さんが昨夜、あなたの不吉な夢を見たのだが大丈夫か?」と心配してきたことがある。その時私は、無意識にテレパシーを発し、誰かに助けを求めていたのかもしれない。
もしかすると、言語を持たない動物同士は、テレパシーによって私たちが想像するよりはるかに豊富な情報交換や感情のやり取りをしているのかもしれない。私たち人類は、言語能力を獲得することによって、本来持っていた能力を失ってしまったのかもしれない。しかし、純粋無垢な子どもや、死に臨んだ人、精神的危機に直面した人などに、わずかに残されたその能力が一時的に強化されるとも考えられる。
それはさておき、昨年、いろいろ臨死体験について調べてみた結果、私も臨死体験の普遍性を疑わなくなった。実は、私の身近にも、昔、一酸化炭素中毒で死にかけたとき、臨死体験をした人がいる。人間は、どんな形にせよ、死を悟ったとき、その苦痛から逃れようとする本能に根ざして、鎮痛や多幸感を呼び起こす脳内神経伝達物質を通常の何十倍も一気にニューロンからシナプス間隙に放出する。その結果、眩しくはないが強烈な白い光の中を漂って得も言われぬ幸福感に浸ったり、真っ白な石が敷きつめられた清流のほとりに出たり、色とりどりの花が咲き乱れる坂道をひたすら登っていったりする光景に出会う。
しかし、臨死体験者はいうまでもなく死者ではなく、死直前からの生還者だ。だから、その先に何があるのかは、誰も知らない。ある人は死後の世界-天国や極楽-を信じ、そこから恐らく、その昔、宗教や信仰心も生まれたのだろう。一方、私がこの問題に対して出した結論は、「死後の世界はないが、永遠の天国はある」だ。
アインシュタインの一般相対性理論によると、例えばブラックホールに落ちていく宇宙船と、それを観察している人がいるとすると、宇宙船の中の人にとっては普通の感覚で時間が流れ、ブラックホールが近づくとどんどん速度を増して宇宙船は吸い寄せられていき、あっという間にブラックホールに飲み込まれてしまう。しかし、それを観測している人からすると、最初のうちどんどんブラックホールに向かって落ちていった宇宙船は途中からだんだん速度が遅くなり、ブラックホールに飲み込まれる直前になると、とうとう止まったように見え、いつまで経っても中に吸い込まれない。
人間の死に当たっては、喩えていえばこれと逆のことが起きているのではないだろうか? つまり、死を看取る家族や医者や看護師などにとっては、時間は時計通りに流れ、患者の死は一瞬の出来事、一通過点に過ぎない。しかし、死にゆく人にとっては、臨死体験の最終局面を経て、ついに「天国」へと至るのだ。それは、もしかすると、上述したような多幸感に包まれた情景の延長かもしれないし、その先の何かかもしれない。とにかく、死の直前、人は多幸感の頂点で「永遠の天国」に到達する。エクスタシーの絶頂で時間は止まり永遠と化す。死とともに時は止まるのだ。したがって、永遠は時間の停止と同義だ。(その「永遠」を「死後の世界」と思うかどうかは自由だが)
最近、量子重力論の第一人者であるカルロ・ロヴェリの著書『時間は存在しない』(NHK出版)を読んだ。それによると、私たちの世界にとって絶対的な存在条件と感じられる時間は、実はエントロピーの増大の結果に過ぎない。また、近代になって時計が時間の尺度として定着するようになるまでは、時間の流れは時と場所によって大きく異なっていた(日時計のように)。また、人は何かに熱中しているときはあっという間に時間が流れるが、苦痛に耐えているときは時間はゆっくりと流れる。要するに、この世、この宇宙に、「絶対的な時間」など存在しないのだ。
そうだとすれば、上述した人の死の瞬間における「永遠の天国」=時間の停止説も、あながち的外れな推論ではないような気がする。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。