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2020東京五輪ー近代オリンピック廃止の契機に [etc.]

輝いていた1964東京五輪
 当時小学生だった私には、1964年の東京オリンピックに関して、今も多くの記憶が残っている。日本は高度経済成長真っ盛りの時代で、その年の4月にOECDに加盟して先進国の仲間入りを果たしている。そして、開会直前に「夢の超特急」=東海道新幹線が開通した。オリンピック景気は経済に好循環をもたらし、池田内閣の「所得倍増計画」とも相まって、順調にGDPを伸ばしていった。
 私の住んでいた町も東京のベッドタウンとして急速に人口が増え、五輪翌年には市初のデパートが駅前にオープンした。それまで東京に行くと見かけた募金を求める傷痍軍人の姿はいつしか消え、高速道路があちこちに出現した。
 五輪見物自体は、姉が手に入れたウエイトリフティングの予選を母を含めて3人で代々木体育館に見に行っただけだったが、開会式からマラソン競技・閉会式に至るまで、家の白黒テレビで毎日観戦した。参加国は過去最多の94ヵ国で、独立間もないアフリカ諸国が大挙参加した。当時、私は社会科が大好きで世界中の国や首都や国旗をほとんどすべて暗記していたので、その面でも五輪への興味が尽きなかった。

近代五輪の矛盾が凝集された2020東京五輪
 1896年に始まった近代オリンピックは、「平和の祭典」と謳われるが、実際には常にその時々の国際政治に翻弄され、また、1936年のベルリン五輪のように政治利用されてきた。そうした中でも、1964年の東京五輪は、上述したようにかなり成功した例ということができるだろう。
 その後の1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナの武装勢力「黒い九月」によってイスラエル選手11人が殺害された。また、1980年のモスクワ五輪ではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国がボイコットし、次のロサンゼルス五輪ではその報復として東側諸国がボイコットした。
一方、その1984年のロス五輪当たりからオリンピックの商業主義化が進み、かつて「アマチュアスポーツの祭典」と呼ばれたオリンピックも1974年にプロ選手の参加が容認されて以降、この頃からプロ選手の参加が顕著になっていった。
 1964年の東京五輪もそうであったが、五輪を招致すると競技施設や選手村の建設を中心にゼネコンをはじめとした建設資本が潤い、さらにテレビの普及につれて莫大な放映権料をめぐる金の動きが活発化していった。さらに、選手にスポーツウエアや競技道具を提供するスポーツ関連産業、各国のマスコミ、観光産業等々、五輪を巡る莫大な金が動くようになった。
 一方、冷戦時代は東側諸国の選手らはメダルを取ると生涯年金が保障されるなどの優遇が受けられ、国家ぐるみでメダル獲得競争に邁進した。また、冷戦崩壊後はプロ選手の参加とも相まって、メダル争いが熾烈化し、そのためのドーピング問題も深刻化した。
 そうした近代五輪の矛盾が集約されたのが2020東京五輪といっても過言ではないだろう。招致を巡る電通を主体とした贈収賄疑惑、フクシマ・アンダーコントロールに「温暖で最適な気候」といった真っ赤な嘘のプレゼン、国立競技場デザイン問題やエンブレム問題、「安価でコンパクト」の謳い文句を反故にする3兆円とも言われる予算にマラソン・競歩札幌開催を含む広域化、ブラックボランティアに猛暑への無策、なにより「復興五輪」といいながら復興がなおざりにされ、原発事故や放射能汚染がこれを機になかったことにされかねない危惧等々、問題点をあげれば切りがない。

「平和の祭典」がはらむ矛盾の数々
 確かに五輪は、古代オリンピック以来、戦争を休戦してスポーツを競う「平和の祭典」としての意義はあったろうが、それは裏を返せばほんものの戦争をスポーツで代替するものに過ぎず、血は流されず殺人はなされないものの、スポーツ競技の本質は人間の闘争本能に根ざし、優劣を競い、勝者が賞賛されるものであった。そういった意味ではオリンピックは「平和」とはほど遠い、「疑似戦争」による戦争の代償行為といってもよい。
そして、近代五輪はそれを国家単位で競うため、ナショナリズムを必然的に伴う。「スポーツの祭典」は「スポーツによるナショナリズムの鼓舞」であり、「スポーツによるメダル獲得を競う国家競争」にほかならない。
それは、ソ連・東欧圏の社会主義体制の崩壊によって、いったん弱められたかに思われたが、西側資本主義一強体制のもと、商業主義とプロスポーツ化が一体化して、より過酷でグロテスクな競争を生むことになった。
少なくとも1964年東京五輪の頃までは、学校の部活の延長線上のはるか先に五輪出場やメダル獲得を夢見て、その夢を叶えることも不可能ではなかったが、今ではそれは夢の夢に過ぎない。アクロバット化した各競技は、子どもの頃から英才教育を施された一握りのエリートアスリートのみが挑戦権をうることのできる世界になっている。そのためにはすべてを犠牲にしたトレーニングと、ときには不正なドーピングが行われ、それが選手生命はおろか、選手の生命そのものも縮め、奪うことにもなりかねない。1988年ソウルオリンピックで陸上競技100m、200m、400mリレーの金メダリスト、フローレンス・ジョイナー選手が38歳で夭逝したのも、薬物の副作用が疑われた。
 現在では、4年に1度のオリンピック以外に、サッカーやラグビーのワールドカップ、世界陸上はじめ各競技のW杯にフィギアスケートのグランプリシリーズ……と、各競技ごとの国際大会が目白押しで、それは各国で放送されて高い視聴率をたたき出している。そうした娯楽が少なかった昔と違い、それらすべての競技を一堂に集めて「スポーツのデパート」を開催する必要性はもうないのではないのか?
 上でも触れたように、「平和の祭典」にメダル競争、国家競争はふさわしくない。特にそれは、オリンピックとともに開かれるパラリンピックについて特にいえるのではなかろうか? 「ナンバーワンよりオンリーワン」。それが障害者の真に輝ける姿なのではないのだろうか? ナンバーワン至上主義のメダル競争は、パラリンピックにかぎらず、「オリンピック精神」そのものに反するものだと思う。
 また、オリンピックは男女別に分かれて競われるが、LGBTの権利が叫ばれる現在、そうした男女区分は時代にそぐわないものになってきている。また、以前にも何度か性別確認検査によって失格とされメダルを剥奪された選手がいた。トランスセクシュアルやインターセックスの人にとって、これは残酷なシステムだ。

悪評のうちに幕を閉じるだろう2020東京五輪を五輪廃止の契機に
近代オリンピックは、良きにつけ悪しきにつけ、近現代資本主義の世界化と歩を合わせて進んできた。その資本主義自体が終焉期に突入しつつある今、近代オリンピックもその歴史的使命を終えようとしているのだ。これ以上、無理矢理それを続けようとすれば、利権まみれの汚職の温床となり、選手たちが各国のゼネコン、スポーツ産業、放送業界、観光業界、その他世界的独占企業スポンサーの食い物にされ、アクロバティックな超絶技巧に大衆が感動を強いられる「感動ポルノ」化さえ危惧される。娯楽としてのスポーツは、各種スポーツ単体で、そのスポーツのファンがいくらでも好きなだけ楽しめばいい。オリンピックだからといって、ふだん見向きもしない種目のにわかファンになっても、その選手らは本当に嬉しいだろうか? ルールさえろくに知らないファンらの声援が……。
 さらに2020東京五輪は、1936ベルリン五輪のように、ナショナリズムの鼓舞に政治利用される危惧さえある。組織委の旭日旗容認問題は、国家間、民族間の対立・紛争を惹起しかねない。
 そうでなくとも、2020東京五輪はすでに数々のケチがつき、マラソン・競歩は札幌へ避難したが、聖火リレーや合宿地での福島原発事故由来の高濃度放射能の検出、東京湾のトイレレベルの汚水の中で行われるトライアスロン、そしてなにより大会期間を通しての酷暑・猛暑による選手、観客、ボランティアらの熱中症の恐れ……と、場合によっては「史上最悪の五輪」の悪評とともに幕を閉じることになりかねない。
 だが、もしそうなれば、それを機に、「五輪不要論」「五輪廃止論」の国際世論が一気に吹き出すこともありうるだろう。それでもIOCが五輪を継続するなら、そのうち選手の方がそっぽを向くようになり、参加国もどんどん減っていくのではないだろうか?


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