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HPSとADHD-障害か気質か? [Anti-psychotropic drugs]

最近、HSP(Highli Sensitive Person)という言葉に出会った。一般に繊細・神経質・内向的といわれる人たちが持つ「気質」のことで、まさに私自身がそうだ。1996年にエレイン・N・アローンという学者が提唱した概念だというから、比較的最近できた言葉だ。詳しくは「HSP診断テスト」(hsptest.jp)を参照されたい。
私の年になると、自分がHSPに当てはまると分かってもさしたる感動はないが、その自分も、今から15年前に場面緘黙症という言葉に出会った時は大きな感動を受けた。幼い頃から心の片隅にわだかまり続けてきた疑念が一気に解消されたからだ。自身の孤立、孤独、生きづらさの原因が分かり、自分は決して特殊な存在ではなく、その概念で括られる「仲間」がいたことに安心と慰めを得られた。こうした体験は、たとえばある程度成長してから、自身がアスペルガー症候群であることを知った人の口からも聞いたことがある。
人の性格や気質、人格のこうしたカテゴライズそのものがナンセンスだという人もいるかもしれないが、「自分が何者か」を知ることを通して、自己とより正確に向き合い、自己解放の一助とできるなら、それは決して意味のないことではない。
HSPのいいところは、「障害」ではなく「気質」と定義していることだ。「障害」と概念づけることからは、→病気→治療の対象(→向精神薬の投薬)というベクトルが生じ、「障害」の克服こそが自己解放という方向づけが与えられ、自分を回り(社会)に合わせていこうとする発想しか生まれない。だが、「気質」と概念づければ、それは持って生まれた「個性」なのだから、いい面は伸ばし、ネガティブに捉えられがちな面もポジティブに活かす道を模索し、時には回り(社会)に合わせる方法を模索することも必要になるだろうが、もし仮にそのことに「障害」や生きづらさを感じたら、逆に回り(社会)に自分の「個性」を理解してもらい、回り(社会)の意識やシステムを変えていく解決法も探られなければならない。
LGBTもひと昔前までは「病気」「障害」とされ、「矯正」の対象とされていたが、今は持って生まれた「性的指向」や「性自認」と捉えられ、彼らの生きづらさを社会を変えることで解消する方向へ向かいつつあるのが世界の趨勢だ。
ADHD(Attention-deficit hyperactivity disorder)という「障害」がある。注意欠陥多動性障害と訳されており、21世紀に入って日本でも多くの子どもたちがこれに該当するとされ、医療の対象とされてきた。最近では「大人のADHD」が真面目に語られ、「発達障害」というより曖昧な概念とともに一人歩きして社会に認知されている。私はかねがね、ADHDに関しては1980年代以降、アメリカの製薬会社、精神医学界によってつくり出された「障害」であり、子どもたちが向精神薬によって医療の食い物にされていると批判してきたが、残念ながら日本でも、そうした事態はますます深刻なものになっている。昔なら、クラスに一人や二人はいた授業の妨げになる「ちょっと困った子」を、授業の生産性を妨げる因子として排除・矯正すべく、また向精神薬を投与することで製薬会社に巨額のマネーを生み出す「障害」として考え出されたのが、ADHDだ。
私は以前、「大人の発達障害」の会をやっている「広汎性発達障害」を自認する人物に会って話を聞いたことがあるが、その人自身は向精神薬の危険性をある程度認識しながらも薬をやめられずにおり、会のほとんどのメンバーも薬を飲んでいると言っていた。「障害」を克服し、回り(社会)に自分を合わせようとして、みな最も手っ取り早い手段として向精神薬に頼っているのが現状だ。
だが、私は今回、HSPという言葉に出会って思ったことがある。たとえばADHDもADHPと置き換えてみたらどうか? つまり、「注意欠陥多動性障害」ではなく「注意散漫多動性気質」だ。確かに、「診断テスト」で高得点するような「気質」の人々は子どもにも大人にも一定数おり、その「気質」の偏りがときに回りの社会と軋轢を生む。しかし、前述したように、「気質」であって病気でも「障害」でもないのなら、その人は必ずしも回り(社会)に合わせて生きて行く必要はないし、むしろ自分にあった仕事なり場所を見つけたり、それでも逃れられない生きづらさは、回り(社会)に変わってもらうしかない。
このことは、すべての「障害」についても言えることかもしれない。確かに私も罹ったことのあるパニック障害や強迫性障害のような「障害」のように、ある一定の「気質」を持った人が一定の環境下で発症する「病気」もあり、それは薬以外の方法で「治療」可能であり、「治る」ことができる。だが、多くの心身の「障害」は、先天的なものであれ、後天的なものであれ、「治すことのできない」その人の「個性」の一部になっている。生きづらさを人々にもたらす「障害」の多くは、その人自身にあるよりも、むしろ社会にこそあると言えよう。
「障害(者)」という言葉自体が、生産性を基準に社会がつくり出した概念と言ってもいいかもしれない。だったらやたらと人々に「障害(disorder)」というレッテルを貼るのをやめ、「そういう(あるカテゴライズされた)person」と捉えて、回りの意識と社会のシステムを変えることによって、彼らの生きづらさを軽減し、いろいろにカテゴライズされた人々が、一人も生きづらさを感じることなくともに生きていくことのできる世の中を目指したいものだ。

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