SSブログ

[社説]「最高賃金」法制化、実践的検討をする時がきた(京郷新聞) [etc.]

社会最大の懸案である不平等解消のために、最高賃金の一部を最低賃金と連動して制限しようという総選挙の公約が出てきた。正義党が出した「最高賃金制」公約がそれであり、賃金最高額を国会議員は最低賃金の5倍、公共機関は7倍、民間企業は30倍までに制限する内容である。地方自治体レベルですでに関連条例をつくって実施するところもあるだけに、社会全体が真剣に議論する時期にきていると思う。
正義党は去る29日、「常識外の賃金不平等が固定化している社会では、国民経済のバランスの取れた成長も社会統合も保障できない。最高賃金制を導入してますます深刻化する所得不平等を改善すべきであるという国民の要求に答える」と、最高賃金制導入の趣旨を明らかにした。併せて外部の人間で構成される国会議員報酬算定委員会を構成することも明らかにした。
最高賃金法は別名「太った猫法」とも呼ばれる。本来、腹いっぱいの資本家を指していた「太った猫」は、2008年の金融危機を経て貪欲な資本家と企業家を批判する言葉として使われた。以後、フランスは公共企業の年俸最高額が最低年俸の20倍を越えることができないようにする法案を、スイスは企業経営陣の報酬を株主が決定するようにする住民発議案を可決する等、各国は両極化にブレーキをかける策を整備している。国内ではシム・サンジョン正義党常任代表が2016年の国会で初期最高賃金法を提出した。法人等が所属役員や労働者に最低賃金額の30倍以上を支払えないようにし、課徴金等によって社会連帯基金をつくって、最低賃金者、非正規労働者支援等に使おうという内容である。この法案は国会での議論には上らなかった。しかし、釜山市が昨年、傘下の公共機関の役員の最高賃金を最低賃金の6~7倍に制限する条例案を通過させたのを筆頭に、計11の地方自治体で議案提出および制定(制定6、議案提出5)され議論に火がついている。
韓国の上下位10%の賃金格差は4.3倍(2018年)で、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちアメリカに次いで2番目に高い。世界的な経済学者らは韓国の労働市場両極化が政治、社会の信頼を損ねて経済活力を低下しうると警告している。シム・サンジョン代表は法案提出時に、「国会で最初の交渉団体代表演説で3党代表がともに不平等解消を第1の課題に選んだ。それにもかかわらず、実践はいつも言葉に及び得なかった」と述べた。今や実践する時がきた。

nice!(0)  コメント(0) 

「テセウスの船」田村心の努力はすべてムダ骨?-タイムスリップとパラレルワールド [etc.]

祖父殺しのパラドックスとワームホール
1月の新ドラマで竹内涼真主演のTBS日曜劇場「テセウスの船」が始まった。父の冤罪を晴らそうと事件現場の小学校を訪れた主人公・田村心が、事件のあった31年前にタイムスリップし、真犯人を突き止め惨劇を止めようと奮闘する物語だ。あまり期待をせずに初回を見たら、思っていたよりずっと面白かったので、2回目以降も見ることにした。
実は、私はこういう現実にあり得ない設定のドラマはあまり好きでない。その典型例が、ふたりの記憶が入れ替わるというやつだ。解離性同一性障害などで何人もの人格を持つ人物などはありうるが、他人になりきり、かつその相手と人格が互いに入れ替わるなどということは絶対にあり得ない。まあ、それでも物語としてリアリティーを感じさせ、面白ければそれでいいのだが、どうも嘘くささが先立ってしまってドラマに入り込めない。
同様に、過去へのタイムスリップとかタイムトラベルも、一般にあり得ないこととされている。よくその証明として語られるのは、「テセウスのパラドックス」ならぬ「祖父殺しのパラドックス」だ。別に祖父でなくてもよく、要するに、自分が生まれる以前にタイムスリップして自分の親を殺してしまったら、自分は生まれてこないことになる。その生まれなかった自分が親を殺すことはできない-という理屈だ。また、もし未来にタイムマシンが発明され過去へのタイムトラベルが可能になったら、未来から現代に来た人がたくさんいるはずなのに、そのような人はひとりもいない、ということも過去へのタイムスリップが不可能な論拠としてよくいわれる。例えば、世間から脚光を浴びたいと思う人が未来からやって来て百発百中の予言者になることができるだろうが、現実に予言者と称する人の予言的中率は全くたいしたことがない。さらに、競馬好きの人間が過去に行って大金持ちになることも可能なはずだが、そんな人も見たことがない。
しかし、一方でアインシュタインはワームホールを利用して過去に行ける可能性を示した。現在まで、ワームホール自体が発見されていないので、これはあくまで仮定の仮定の話に過ぎないのだが、もしそれが可能ならば、上述したパラドックスはどう解決されるのか?

パラレルワールドが矛盾を解決する
私はこの矛盾を解くひとつの仮説を提示することができる。それは、過去へのタイムトラベルないしタイムスリップは可能だが、ある特定の過去に辿り着いた瞬間、パラレルワールド(平行宇宙)へ移行してしまうということだ。そう仮定すれば、上述した問題はすべて解決することができる。
まず、親殺しのパラドックスについては、私が行った過去は私の来た世界とは微妙にずれた異世界なので、たとえ私が親を殺し、私が生まれなくても、その世界では私が生まれない宇宙であるだけだ。そして、親を殺した私はその世界の私ではなく、異世界からの闖入者、正体不明の不審者に過ぎない。また、未来から来た「予言者」が、ことごとく重大事件を予言することができないのも、その世界は元いた世界とは微妙に異なるので、当然のこと。それでもたまに予言を的中させて世間を驚かせることはできるだろう。同様に、競馬好きのギャンブラーも、もし元の世界でギャンブルに金を注ぎ込み借金まみれの生活をしていたのなら、この世界では大穴を当てて家を一軒くらい建てられるかもしれない。ただし、それも時間が経過してもと来た時間に達するまでのことで、それ以降も競馬を続ければたちまち負けが込むことになるので、その時点できっぱり競馬をやめるのが賢明だ。
あるいは、なかには幼少期の自分と対面したくて過去に行く人もいるかもしれない。例えば私が14歳の私に会いに行ったとする。そうすると、私の記憶には、14歳の時に未来から自分を訪ねてきた数十年後の私と対面した記憶があるはずなのに、私にはそんな記憶がない。もしそうした記憶があれば、私が14歳の私に会いに行く目的は、純粋に14歳の私に会いたいからではなく、私が14歳の時に未来から訪ねてきた私に会ったので、私も14歳の私に会いに行かねばならないという義務感からということになってしまうだろう。だが、この矛盾も平行宇宙の概念を導入すれば、一気に解決する。
では、平行宇宙へ迷い込んだ私は、元の宇宙に戻ることができるかといえば、時間が枝分かれして以降、ふたつの宇宙はけっして行き来することができなくなるので、もしタイムマシーンで元来た時代に戻ろうとすると、戻った瞬間、私は消失してしまうだろう。そうなりたくなかったら、遡った過去で、正体不明の不審者としてその後の人生を送る以外にない。一方、元来た世界で私はどうなっているかといえば、突如失踪して二度と現われることのない行方不明者になるのだ。

「テセウスの船」の結末は?
話を「テセウスの船」に当てはめてみるとどうなるか? 田村心が31年前の音臼村の小学校にタイムスリップした瞬間、彼は平行宇宙に迷い込んでしまった。だから、その後、相次いで起きる事件も、死んだ妻が残したスクラップブックの新聞記事とは微妙に異なって起きることになる。それは単に、田村心がそこに介在したからというだけの理由ではないわけだ。そして、彼がその後、どんなに一生懸命真犯人を突き止めようとして、時には危険を冒してまで行動し、その結果、最後の小学校での大量殺人事件を阻止したとしても、それはそこの世界での出来事にすぎず、彼が本来果たそうとした元来た世界での父の冤罪を晴らすことにはならないのだ。元来た世界では、凶悪犯罪は敢行され、彼の父は逮捕され、依然拘置所に収監されて死刑を待つ身のままだ。そのうえ、田村心自身も、二度と元来た世界には戻れず失踪者扱いされることになるので、生まれたばかりの子どもは両親のいない子どもとして育つことになってしまう。
そして、田村心自身は、めでたく凶悪犯罪が起こらず、父親も冤罪の汚名を着せられずにすんだ異世界で、正体不明の闖入者として年を重ねていく以外にない。
私はこの原作を読んでいないので、ラストがどのように描かれるのか知らないが、もし31年後に幸せな日常を送る家族として描かれるとしたら、そこに登場する30歳の田村心ならぬ佐野○○は、一歩間違えれば父が冤罪で逮捕されて死刑を待つ身になっていたという記憶など保持してはいない。彼は31年前に母親のお腹の中にいた子どもにほかならず、一方、異世界から来た田村心は61歳の初老の人物として、上述したようにその世界のどこかでひっそりと生きていることだろう。

nice!(0)  コメント(0) 

2019-私のベストアルバムRYMDEN『REFLECTIONS & ODYSSEYS』 [Jazz]

IMG_3340.jpge.s.t.のダン・ベルグルンド(b)とマグヌス・オストロム(ds)がノルウェーのピアニストのブッゲ・ヴェッセルトフトと組んだRYMDENのファーストアルバム。
2000年前後にe.s.t.がもてはやされた頃、私は1枚だけそのCDを買って聴いてみたことがあるのだが、当時、欧米の最新のジャズ情報といえばFMのジャズ番組か「スイングジャーナル」で仕入れるくらいで、普段は60~70年代の主流派やフュージョンばかり聴いていた私には、正直、e.s.t.の音楽は斬新過ぎて共感するところがほとんどなかった。(あるいは単に、エスビョルン・スヴェンソンが性に合わなかっただけかもしれないが…)
だが、ここ3年ほど音楽配信サービスで世界中の最新ジャズを聴くようになり、私の耳も肥えて、ようやく時代の最先端の音に慣れてきた。そんな今の私にとって、昨年聴いたジャズのベストアルバムといったら、絶対にこの作品をあげたい。
ピアニストのブッゲ・ヴェッセルトフトは1960年代から北欧ジャズをリードしてきたノルウェーの出身で、1980年代からヤン・ガルバレク、テリエ・リピダルなどと共演してきたという。
このグループ名RYMDENはスウェーデン語でスペース=宇宙を意味するそうで、ロケットを描いたカラフルなジャケットデザインもいい。
北欧ジャズの伝統とe.s.t.の継承-それは、イントロ的な1曲目のReflectionsを経て、ヴェッセルトフトの力強い同一旋律の繰り返しが印象的なアコースティックピアノで始まる2曲目のThe Odysseyから、質の高い演奏を繰り広げる。そして、短いベースソロの次の4曲目のPitter-Patterは打って変わってリズミカルなフェンダーローズのエレクトリックサウンドだ。
とりわけ私のお気に入りは、親しみやすいメロディーラインからなる7曲目のBergenだ。ヴェッセルトフトのアコースティックピアノにオストロムのドラミング、ベルグルンドのベースソロやアルコベースが絶妙なハーモニーを醸し出し、ラストにコーラスが加わりエンディングへ盛り立てる。
9曲目のRåkはオストロムのシンセドラムから始まり、ヴェッセルトフトのアコピからフェンダーローズへ移る最もエキサイティングな演奏。
最後はフォークっぽいスローな曲で終わる。
とにかく、何度聴いても飽きさせないアルバムだ。

nice!(0)  コメント(0) 

2020東京五輪ー近代オリンピック廃止の契機に [etc.]

輝いていた1964東京五輪
 当時小学生だった私には、1964年の東京オリンピックに関して、今も多くの記憶が残っている。日本は高度経済成長真っ盛りの時代で、その年の4月にOECDに加盟して先進国の仲間入りを果たしている。そして、開会直前に「夢の超特急」=東海道新幹線が開通した。オリンピック景気は経済に好循環をもたらし、池田内閣の「所得倍増計画」とも相まって、順調にGDPを伸ばしていった。
 私の住んでいた町も東京のベッドタウンとして急速に人口が増え、五輪翌年には市初のデパートが駅前にオープンした。それまで東京に行くと見かけた募金を求める傷痍軍人の姿はいつしか消え、高速道路があちこちに出現した。
 五輪見物自体は、姉が手に入れたウエイトリフティングの予選を母を含めて3人で代々木体育館に見に行っただけだったが、開会式からマラソン競技・閉会式に至るまで、家の白黒テレビで毎日観戦した。参加国は過去最多の94ヵ国で、独立間もないアフリカ諸国が大挙参加した。当時、私は社会科が大好きで世界中の国や首都や国旗をほとんどすべて暗記していたので、その面でも五輪への興味が尽きなかった。

近代五輪の矛盾が凝集された2020東京五輪
 1896年に始まった近代オリンピックは、「平和の祭典」と謳われるが、実際には常にその時々の国際政治に翻弄され、また、1936年のベルリン五輪のように政治利用されてきた。そうした中でも、1964年の東京五輪は、上述したようにかなり成功した例ということができるだろう。
 その後の1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナの武装勢力「黒い九月」によってイスラエル選手11人が殺害された。また、1980年のモスクワ五輪ではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国がボイコットし、次のロサンゼルス五輪ではその報復として東側諸国がボイコットした。
一方、その1984年のロス五輪当たりからオリンピックの商業主義化が進み、かつて「アマチュアスポーツの祭典」と呼ばれたオリンピックも1974年にプロ選手の参加が容認されて以降、この頃からプロ選手の参加が顕著になっていった。
 1964年の東京五輪もそうであったが、五輪を招致すると競技施設や選手村の建設を中心にゼネコンをはじめとした建設資本が潤い、さらにテレビの普及につれて莫大な放映権料をめぐる金の動きが活発化していった。さらに、選手にスポーツウエアや競技道具を提供するスポーツ関連産業、各国のマスコミ、観光産業等々、五輪を巡る莫大な金が動くようになった。
 一方、冷戦時代は東側諸国の選手らはメダルを取ると生涯年金が保障されるなどの優遇が受けられ、国家ぐるみでメダル獲得競争に邁進した。また、冷戦崩壊後はプロ選手の参加とも相まって、メダル争いが熾烈化し、そのためのドーピング問題も深刻化した。
 そうした近代五輪の矛盾が集約されたのが2020東京五輪といっても過言ではないだろう。招致を巡る電通を主体とした贈収賄疑惑、フクシマ・アンダーコントロールに「温暖で最適な気候」といった真っ赤な嘘のプレゼン、国立競技場デザイン問題やエンブレム問題、「安価でコンパクト」の謳い文句を反故にする3兆円とも言われる予算にマラソン・競歩札幌開催を含む広域化、ブラックボランティアに猛暑への無策、なにより「復興五輪」といいながら復興がなおざりにされ、原発事故や放射能汚染がこれを機になかったことにされかねない危惧等々、問題点をあげれば切りがない。

「平和の祭典」がはらむ矛盾の数々
 確かに五輪は、古代オリンピック以来、戦争を休戦してスポーツを競う「平和の祭典」としての意義はあったろうが、それは裏を返せばほんものの戦争をスポーツで代替するものに過ぎず、血は流されず殺人はなされないものの、スポーツ競技の本質は人間の闘争本能に根ざし、優劣を競い、勝者が賞賛されるものであった。そういった意味ではオリンピックは「平和」とはほど遠い、「疑似戦争」による戦争の代償行為といってもよい。
そして、近代五輪はそれを国家単位で競うため、ナショナリズムを必然的に伴う。「スポーツの祭典」は「スポーツによるナショナリズムの鼓舞」であり、「スポーツによるメダル獲得を競う国家競争」にほかならない。
それは、ソ連・東欧圏の社会主義体制の崩壊によって、いったん弱められたかに思われたが、西側資本主義一強体制のもと、商業主義とプロスポーツ化が一体化して、より過酷でグロテスクな競争を生むことになった。
少なくとも1964年東京五輪の頃までは、学校の部活の延長線上のはるか先に五輪出場やメダル獲得を夢見て、その夢を叶えることも不可能ではなかったが、今ではそれは夢の夢に過ぎない。アクロバット化した各競技は、子どもの頃から英才教育を施された一握りのエリートアスリートのみが挑戦権をうることのできる世界になっている。そのためにはすべてを犠牲にしたトレーニングと、ときには不正なドーピングが行われ、それが選手生命はおろか、選手の生命そのものも縮め、奪うことにもなりかねない。1988年ソウルオリンピックで陸上競技100m、200m、400mリレーの金メダリスト、フローレンス・ジョイナー選手が38歳で夭逝したのも、薬物の副作用が疑われた。
 現在では、4年に1度のオリンピック以外に、サッカーやラグビーのワールドカップ、世界陸上はじめ各競技のW杯にフィギアスケートのグランプリシリーズ……と、各競技ごとの国際大会が目白押しで、それは各国で放送されて高い視聴率をたたき出している。そうした娯楽が少なかった昔と違い、それらすべての競技を一堂に集めて「スポーツのデパート」を開催する必要性はもうないのではないのか?
 上でも触れたように、「平和の祭典」にメダル競争、国家競争はふさわしくない。特にそれは、オリンピックとともに開かれるパラリンピックについて特にいえるのではなかろうか? 「ナンバーワンよりオンリーワン」。それが障害者の真に輝ける姿なのではないのだろうか? ナンバーワン至上主義のメダル競争は、パラリンピックにかぎらず、「オリンピック精神」そのものに反するものだと思う。
 また、オリンピックは男女別に分かれて競われるが、LGBTの権利が叫ばれる現在、そうした男女区分は時代にそぐわないものになってきている。また、以前にも何度か性別確認検査によって失格とされメダルを剥奪された選手がいた。トランスセクシュアルやインターセックスの人にとって、これは残酷なシステムだ。

悪評のうちに幕を閉じるだろう2020東京五輪を五輪廃止の契機に
近代オリンピックは、良きにつけ悪しきにつけ、近現代資本主義の世界化と歩を合わせて進んできた。その資本主義自体が終焉期に突入しつつある今、近代オリンピックもその歴史的使命を終えようとしているのだ。これ以上、無理矢理それを続けようとすれば、利権まみれの汚職の温床となり、選手たちが各国のゼネコン、スポーツ産業、放送業界、観光業界、その他世界的独占企業スポンサーの食い物にされ、アクロバティックな超絶技巧に大衆が感動を強いられる「感動ポルノ」化さえ危惧される。娯楽としてのスポーツは、各種スポーツ単体で、そのスポーツのファンがいくらでも好きなだけ楽しめばいい。オリンピックだからといって、ふだん見向きもしない種目のにわかファンになっても、その選手らは本当に嬉しいだろうか? ルールさえろくに知らないファンらの声援が……。
 さらに2020東京五輪は、1936ベルリン五輪のように、ナショナリズムの鼓舞に政治利用される危惧さえある。組織委の旭日旗容認問題は、国家間、民族間の対立・紛争を惹起しかねない。
 そうでなくとも、2020東京五輪はすでに数々のケチがつき、マラソン・競歩は札幌へ避難したが、聖火リレーや合宿地での福島原発事故由来の高濃度放射能の検出、東京湾のトイレレベルの汚水の中で行われるトライアスロン、そしてなにより大会期間を通しての酷暑・猛暑による選手、観客、ボランティアらの熱中症の恐れ……と、場合によっては「史上最悪の五輪」の悪評とともに幕を閉じることになりかねない。
 だが、もしそうなれば、それを機に、「五輪不要論」「五輪廃止論」の国際世論が一気に吹き出すこともありうるだろう。それでもIOCが五輪を継続するなら、そのうち選手の方がそっぽを向くようになり、参加国もどんどん減っていくのではないだろうか?


nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。