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望鵠記はnoteに全面移行しました [etc.]

2010年に前のブログを引き継ぐかたちでSo-netブログを始めてちょうど10年経ちましたが、このたび本ブログ機能を全面的にnoteに移行することにいたしました。
読者の皆様、どうもありがとうございました。今後ともnoteの私の記事をご覧いただけると嬉しいです。今まで以上に力を注いで書いていこうと思います。
移行先[バッド(下向き矢印)]
https://note.com/keikitano
なお、本ブログは閉鎖せず、当面はこのまま公開を続けます。

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打ちのめされた類家心平「RS5pb」 [Jazz]

IMG_3403.jpg正直いって、類家心平というトランペッターのアルバムを初めて聴いた。1976年生まれの43歳。決して若くはない。すでにプロのミュージシャンとして十数年の活動歴があり、かつてジャムバンドurbに属し、2009年には初リーダーアルバムも出している。
彼は、高校卒業後、自衛隊に入隊し、音楽隊として6年間勤務したという異質な経歴の持ち主でもある。
本作を聴いた後、過去のリーダーアルバムを3枚ほど聴いてみた。いずれも本作のタイトルにもなっているES5pbというギターを加えたクインテットのオリジナルメンバーの演奏だが、2011年のSector bは完全にアコースティックな演奏だったのに対し、次第にエレクトリックな要素が増してきている。
本作ではオープニングのCivetでいきなり打ちのめされた。ビートの利いたリズムに乗ってエフェクターを用いたトランペットを吹きまくる。田中“tak”拓也のファズの利いたギターがそれに続く。ローリングストーンズのカバー曲Lady Janeもミュートを用いたアコースティックのバラード演奏がなかなかいいが、とにかく最初のCivetで打ちのめされたまま、最後まで聴かせてしまうという構図だ。
たいした奴だと思う。

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川津桜満開、メジロ、そしておまけにヌートリア [Photograph]

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帰りがけ、何か流れてくるものがあるのでよく見たらカワウソ?! やがてこちら岸に上がった姿は化けネズミ? 帰って調べたら、南米原産のヌートリアという齧歯類。特定外来生物に指定されているそうで、中国地方には多いようだ。
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(いずれも倉敷川で)

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快作2つ-Dan Rosenboom「Absurd in the Anthropocene」、Michelangelo Scandroglio「in The Eyes of The Whale」 [Jazz]

IMG_3369.jpgDan RosenboomAbsurd in the Anthropocene
ロサンゼルスで活躍する37歳のトランペッターDan Rosenboomの「Absurd in the Anthropocene」は、「Bitches Brew」で始まる1970年代前半のマイルス・デイビスの音楽世界を21世紀にバージョンアップしたような音を聴かせてくれる。音楽家・芸術家の両親の元で育ったDan Rosenboomは、一方で自らレーベルを立ち上げる実業家としての顔も持つそうだ。
このアルバムでは同じくロス出身のアルトサックス奏者Gavin Templetonが大きな役割を果たしている。彼の時にウエイン・ショーター、時にオーネット・コールマンを彷彿させるサックスプレイが、歯切れのいいDanのトランペットとのバトルを繰り広げる。
アルバム構成はブラスセクションの入る大がかりな構成の7曲目のApes in Raphureを中心に、ドラム、ベース、ギターそれぞれ複数のミュージシャンが各トラックに交代で参加し、多彩な演奏を繰り広げている。
アメリカ、ウエストコーストのLA Jazzの今を余すところなく伝えてくれる生きのいいアルバムだ。

IMG_3371.jpgMichelangelo Scandroglioin The Eyes of The Whale
Apple Musicを聴くようになってヨーロピアンジャズのアルバムを数多くダウンロードしてきたが、どういうわけかイタリアのミュージシャンのアルバムは多くない。
そんな中で、これはイタリアの若手ベーシストMichelangelo Scandroglioのファースト・リーダーアルバム。年齢等詳しい情報は得られなかったが、このアルバムで注目すべきは、彼のベーシストとしてよりもコンポーザーとしての才能だ。(わずかにベースソロが聴かれるのは6のみ)ひとことでいって、一度聴いてストンと落ちるまさにこれぞコンテンポラリージャズそのものといっていいセンスのいい音を醸し出している。ドラム、ピアノのリズムセクションはイタリア人だが、アルトサックスにLogan Richardson(1,2,6,7のみ)、トランペットにHermon Mehariというアメリカ人を迎えての演奏だ。(ギターはオーストラリア出身のPeter Wilson)とくにサックスのLogan Richardsonはこのブログでも「blues PEOPLE」というアルバムで紹介したことがある。このふたりの演奏がアルバム全体を引き立てている。
蛇足ながら、アルバムタイトルにちなんだのだろうが、ジャケットデザインはちょっといただけない。

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パラレルワールドでも解決しない「テセウスの船」の矛盾 [etc.]

今季いちばん面白いドラマ
力作揃いだった前季に比べて引けを取る今季のテレビドラマの中でいちばん面白いのは、何といっても前にも触れた「テセウスの船」だ(「テセウスの船」田村心の努力はすべてムダ骨?-タイムスリップとパラレルワールド)[ちなみに2番目に面白いのは小泉孝太郎主演のテレ東系「病院の治しかた」]。その際に、この物語を単なる「あり得ない話」としてでなく「あり得る話」として見る方法としてパラレルワールドによる解釈をあげた。ところが、その後の展開を見ると、パラレルワールドによる解釈を導入しても取り繕いようのない矛盾点が次々と現われてきた。
例えば、田村心が再び引き戻された31年後の世界は元の世界とは異なる世界であることはパラレルワールであれば当然のことであるが、そこで細かい点でいくつもの矛盾が生じる。前回、私は心がタイムスリップした31年前の世界は元の世界をAとすればそれとは異なる世界Bであり、彼は31年後のAに戻ることは絶対できないし、戻ろうとすれば彼は消滅すると述べたが、ここで描かれている31年後の世界がAともBとも異なるCという世界であると解釈すれば、つまり、過去であれ未来であれタイムスリップするごとにパラレルワールドへと迷い込む設定と解釈すれば、同一の心身・記憶を持った田村心がA→B→Cへと次々タイムスリップしたものと首肯できる。

矛盾点の数々
だが、
①最初にA→Bにタイムスリップした心がそこで母のお腹の中とはいえ既に生命を持っている自分自身と対面したのに対して、Cではその世界で生を享けたもうひとりの田村心が存在せず、A、Bを経てきた心が唯一の田村心として存在している。
②その心を、獄中の父は31年前に出会った心と認識しているにもかかわらず、姉の鈴や木村さつきら他の登場人物は31年前の心を全く覚えておらず、心をCで生を享けて成長してきた心としてしか認識していない。いったいCの世界の心はどこへ消えてしまったのか?
私は原作を読んでいないので結末を知らなかったが、気になってネタバレの記事に目を通してみたら、28年前からタイムスリップしてきた加藤みきおが事件直前のみきおとふたりで陰謀を巡らすと知り、ますます混乱した。タイムトラベラーがふたり存在し、過去へ行ったときは過去の自分と対面し、未来へ戻るとふたりの人格がひとりに統一し、しかもタイムトラベラーの記憶を保持している。ご都合主義極まれりの感を拭えない。
いずれにしろ、結末はどうであれー恐らく当初の予想どおりハッピーエンド(心の父・文吾の冤罪が晴れる)で終わり、心と由紀が再び結ばれるとしても、それはA→B→C→…と遠く離れたパラレルワールドでの話であって、前回述べたように、元々のAでの父の冤罪は晴れぬまま、心と由紀の子どもが両親のいない子として育つ運命に変わりはない。

しょせんエンタメドラマ、上質なSFとはいえない
とまあ、文句ばかり述べてきたが、前回も言ったように、「あり得ない話」でもリアリティーを感じさせ面白ければ、エンタメドラマとしてそれはそれでいい。記憶・人格入れ替わりドラマが科学的に全く説明がつかなくても、また、死んで成仏できない幽霊ドラマが、ある人には見えて他の人には見えなかったり、人と交わることのできない実体のない霊体にもかかわらず、なぜかしっかり地に足をついて歩くことができたり、時には食事をすることができたりと、そういう類いの娯楽ドラマに突っ込みを入れること自体が野暮なのかもしれない。「テセウスの船」もそう割り切ってみれば(割り切らなくても)けっこう面白く見ることができるのだが、一方、少なくとも上質のSFドラマと言い難いことは確かだろう。

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無とは何か? そして絶対不可知のマルチバース [etc.]

無とは何か? この疑問に、普通の人は「何もない真空状態」のようなものを想像するのではないだろうか? だが、真空のエネルギーの存在はさておき、もしこの宇宙のどこかに光の粒子ひとつ、ニュートリノひとつ存在しないような「真の真空空間」があるとして、そこに果たして時間が流れているのかという問題を除いても、少なくとも3次元の空間が存在することは確かだ。絶対的な無とは、次元も物質・質量も何も存在しないものである。そしてそのような「無」は私たちが存在する宇宙-すなわち有の世界にあっては容易に想像することも、アナロジカルに何かに喩えて論ずることも難しい。

素朴で無邪気なマルチバース論
私が宇宙に興味を抱くようになったのはもう20年以上昔のことだが、まだ宇宙に関してほとんど知識のなかった頃、よく寝物語に次のような宇宙旅行をしたものだ。そうすると不思議と眠くなり、元来寝つきの悪い私でも数分以内に眠りに就くことができた。以来、私は就寝時に必ず宇宙のことを創造する習慣がついた。
-私は超光速の宇宙船に乗って、地球から任意の方向へひたすらまっすぐ宇宙を移動し続ける。すると、やがて星々の光が途絶えて真っ暗闇の空間に出る。宇宙の果てで、そこから先は宇宙の外だ。私はかまわずそのまま進み、しばらくしてふり返ってみると、われわれの宇宙がどんどん遠ざかっていき、やがて星屑のように小さくなり、それも消え果てる。その真っ暗闇の真空の中をさらに進んで行くと、前方に微かな光が見えてくる。私はその方向に宇宙船を進めると、光はどんどん明るくなり、やがて私が遠ざかってきたわれわれの宇宙のような大きな宇宙が姿を現わす。そこは、われわれの宇宙とは違うもうひとつの宇宙なのだ。
極めて素朴で無邪気なマルチバース論だ。実際に思考実験としてこのようなことがあり得るとしたら、私が「宇宙の果て」と思ったのはせいぜい超銀河団の果てであって、真空のエネルギーないしはダークエネルギーで満ちた闇の空間の果てに見えてきた光は、その先にある超銀河団に過ぎないだろう。
では、宇宙の果てを目指して進む本当の思考実験をした場合、地球を起点に任意の方向にひたすら進んでいくと、やがて宇宙の果てに行きつくかというと、現実にはいつの間にか再び出発点の地球に戻ってきてしまう。宇宙の形を、私たちは膨張する風船かシャボン玉のように考えがちだが、時空は複雑に歪んでおり、この宇宙には中心も周縁もない。あるいは宇宙のあらゆる場所が宇宙の中心だともいえる。だから、私たちはどうあがいても、宇宙の外に出ることはできないのだ。

既存のマルチバース論
では、その宇宙の外には何が「ある」のか? あるいは宇宙の外はどうなっているのか? 宇宙は特異点を通して無から始まり、インフレーション、ビッグバンを経て、今日も膨張を続けているといわれる。そして、およそ10の100乗年後に終わりを迎え無に帰するともいわれる。
そして、今日、いくつかのマルチバース論が提唱されている。例えば、宇宙は洗濯の泡のように無数の泡宇宙からなっており、それぞれの宇宙はワームホールやブラックホールでつながっているとか、特異点の前には別の宇宙の終焉があり、その宇宙が特異点で反転して新たなインフレーションを起こして次の宇宙を誕生させるとか、あるいは時間の流れの瞬間ごとに無数の宇宙に枝分かれしていくというパラレルワールド等々。それらのマルチバース論はどれも未だ仮説の域を出ず、その存在が実証されたわけでもない。
しかし、それらのマルチバースがもし存在するならば、将来その仮説が否定しようもない確かな理論として確立されて、その発生と消滅のメカニズムが解き明かされることだろう。あるいは、ワームホールなり特異点を通して、人間が行き来しないまでも、他の宇宙とのなんらかの情報の交換がなされてその存在が実証的に証明されることだろう。

絶対不可知のマルチバース
だが私は、それらのマルチバース論とは違う、たとえその発生・消滅のメカニズムが解明され、われわれの宇宙は何も特別な存在ではなく、ある条件さえ整えばいくらでも発生しうるものであることが理論的に明らかにされ、無数の宇宙の存在が推測されるとしても、それらの宇宙は純粋に無から生じて無に帰するため、宇宙同士は絶対的無関係にあって他の宇宙の存在を実証的に明らかにすることは絶対不可能な、そんなマルチバースを考えている。私は宇宙論の素人ではあるが、専門家が主張する上述したような様々なマルチバース論のいずれも仮説の域を出ない以上、このようなマルチバースを主張する〝権利〟はあるのではないだろうか?

絶対的無限(開いた無限)と相対的無限(閉じた無限)
宇宙は無から生じて無に帰する。では、宇宙の外側は「無」なのだろうか? 宇宙は無の中に存在しているのだろうか? しかし、無とは何もないのだから、その中に何かが存在することは論理矛盾だ。恐らく、宇宙は特異点を通して無から発生した瞬間、無限の有へと相転移すると考えられる。そして、宇宙がその寿命を終えると、再び特異点を通して無へと相転移する。つまり、宇宙は常に無限なのだ。だが、われわれの宇宙は特異点からインフレーション、ビッグバンを経て常に膨張してきた。つまり一定の大きさを持ってきた。それが無限というのは矛盾する。しかし、無限を絶対的無限(開いた無限)と相対的無限(閉じた無限)に分けて考えれば、その矛盾は解決する。絶対的無限(開いた無限)とは、喩えていえば、最初に述べた素朴な宇宙論ではないが、どこまで進んでも果てのない文字通りの無限だ。それに対して相対的無限(閉じた無限)とは、地球の上空をまっすぐに飛行すると出発点に戻ってきて永遠に回り続けるように、上述したごとくこの宇宙の果てを目指してまっすぐ移動し続けると地球に戻ってきていつまでも飛び続けるような無限のことだ。したがって、宇宙空間は常に無限なので、中心も周縁もなく、ましてや外側など存在しえない。
このような絶対不可知のマルチバースはSF的には最も味気なく、宇宙論の観点からもつまらないかもしれないが、幸いにも他のマルチバースが抱えるアポリアを解決してくれる。そのアポリアとは、ユニバースには最初と終わりがあることが今日、常識となっているものの、では、マルチバースの過去ないし未来をたどると、どこかに始まりや終わりがあるのか、あるいは始まりも終わりもなく永遠に続くのかという問題だ。後者の場合、ではそもそも〝永遠〟とは何なのか?
絶対不可知のマルチバースを前提にすると、それぞれの宇宙は絶対無関係に存在するので、たとえば、われわれの宇宙の前に他の宇宙が存在したのかとか、われわれの宇宙が消滅した後にも他の宇宙が発生するのか、さらにはわれわれの宇宙に最も近い宇宙はどんな宇宙か等々の疑問自体が意味をなさなくなる。なぜなら、「いつ」とか「どこ」という疑問符は時空を前提として初めて意味を持つものだからであり、「無」によって隔てられ相転移した諸宇宙間には前後も遠近もなければいかなる関係性も存在しないからだ。絶対無関係とはそういうことだ。だからこそ、そんな絶対無関係に存在する無数のマルチバースは理論的には証明できても、実証的に存在を証明することは絶対に不可能なのだ。

身の程知らずな宇宙創造の試み
IMG_3359.JPG最近読んだ本『ユニバース2.0-実験室で宇宙を創造する』(ジーヤ・メラリ著、青木薫訳、文藝春秋、2019年)は、上述した泡宇宙をはじめとする一般的なマルチバースを前提に、われわれ人類が宇宙を創造することを本気で論じている。ただ単に論じるだけでなく、実際にスイスのSERNのLHCでミニ宇宙がつくられるかもしれないというのだ。そして、この本では理論的な実現可能性を論じるとともに、人類が宇宙の創造者になることに関する倫理的あるいは神学的意味や妥当性が論じられている。
私は、上述したような昔の寝物語の中で、われわれの宇宙が外部の超高度な文明を持つ知的生命体(それを「神」と呼んでもいい)によってつくり出された存在であることを想像してみたことがある。「神」は実験室で実験装置の中のわれわれの宇宙を観察しているのである。また、それとは逆に、将来、われわれが宇宙の創造主になることも想像したことがある。なんと、そんな素人考えと同じことを、本気で考え、考えるのみならず実行しようとしている宇宙物理学者らが存在するのだ。
だがしかし、この本の読後感は、私にとってあまり後味のいいものではなかった。私自身が上述したようにそのようなマルチバースでなく、絶対不可知のマルチバース(何者かによる創造が不可能な)を考えていることもあるが、それ以前に、もしそんな簡単に宇宙をつくることが可能なら、人類の文明とは比較にならないほどの超文明社会を築いているだろうこの宇宙にあまた存在するに違いない宇宙人たちが、とっくの昔にいくつもの宇宙をつくっているだろうし、そんな超文明社会には足許にも及ばない猿に毛が生えた(抜けた?)程度の愚かで野蛮な人類に、そんな大それたことをする資格も能力もないだろうという気持ちが先立ったからだ。核分裂も核融合も満足に制御できないような人類が、間違ってもそんな大それたことに手を出すべきではないという倫理観もある。
まあ、それも私のマルチバース論が正しければ、そんな努力はすべて徒労に終わるだろうから放っておけばいいのだが、LHCでの実験でミニ宇宙をつくる構想は、ミニブラックホールをつくる実験の延長上にあるということなので、10年前に危惧されたような破滅的な事故の心配は否定できない。そういう意味で、愚かで野蛮な人類は、「神の領域」を犯すような振る舞いには徹底して禁欲的であるべきだと、私は考える。

とまれ、無とは何か?そして絶対不可知のマルチバースとは……などと寝床の中であれこれ思い巡らせていると、私はいつもじきに夢の世界へと誘われていくのだ。


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新型コロナ騒動を機に、10年戦争を敗戦へ導こう [Politics]

政府・厚労省の無能・無策ぶり
新型コロナウイルス騒動が持ち上がった当初、私は今後の見通しについてふたつの可能性を考えた。ひとつは、4月頃までに流行のピークを迎え、また、昔と違ってワクチンや治療薬の開発のスピードが格段に速くなっている現状では、その頃までにはそれらが開発され量産化のメドもつき、騒動は鎮静化に向かうのではないかという楽観論。もうひとつは、致死率が低いことが唯一の救いとはいえ、ワクチン開発も治療薬も間に合わず、感染拡大に歯止めがかからず、パンデミックに至るという悲観論。
今のところ、今後事態がどう展開していくかは予断を許さないが、こと日本に限って見た場合、楽観論は許されない状況にある。ダイヤモンド・プリンセス号の例をはじめ、政府の初動の遅れと危機管理能力の欠如は目を覆うばかりだ。たとえ世界規模では早期収束が図られたとしても、この国だけは感染が拡大し続け、中国に次ぐ感染者と犠牲者を出すのではないかという危惧が日に日に高まっている。そうなれば、収束には1年以上を要し、その間、対策さえしっかりとられていれば死ななくてもよかった命が多く失われることになり、この国に住む以上、誰でもそのリスクを負わされることになる。まさに国による人災だ。
そうなれば、夏のオリンピックどころの騒ぎではなくなる。早くも観光業には深刻な影響が出てきているが、今後はサービス業、生産業等、多くの経済活動に影響が波及し、日本経済は大打撃を受けることになるだろう。

原子力緊急事態宣言から始まった「10年戦争」
私は3・11の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故による原子力緊急事態宣言以降、この国は平和な時代から「別のかたちの戦争」へと突入し、国民がそれと真正面からたたかわず脱原発と放射能リスク回避から目を背ける選択をした結果として、2012年末のアベ政権の誕生があり、その政権が原発推進政策のみならず、改憲を究極目標に特定秘密保護法や安保関連法、共謀罪等の一連の悪法を強権的に成立させる道へと導き、挙げ句の果てにはアベシンゾーの私利私欲追求のためのモリカケ公文書偽造や桜事件等、一連の犯罪行為を帰結したと思っている。その間、内閣人事局制度により首根っこを押さえ込まれた中央官僚どもは、国民に背を向けてひたすら官邸の顔色を窺い忖度することにのみ汲々とし、公文書の隠蔽・破棄・偽造にまで手を染め、ついにはそうした異常な事態が常態化してしまった。その結果としての、新型コロナウイルス対応を巡る政府・厚労省の無能・無策ぶりと、専門家の意見の無視である。アベはこの間、専門家(いわゆる「有識者」)を各種の私的諮問機関等で自己の私利私欲政策をごり押しするために都合のいいコマとしてのみ使ってきて、彼らの意見を真剣に聞く耳を持たず、逆に自分に都合の悪い意見を言う専門家を排除してきた。そのつけが、今回の新型コロナを巡る事態に如実に表われているといえよう。

これ以上の犠牲を出すことなく「敗戦」を勝ち取ろう
来月11日で「別のかたちの戦争」が始まって丸9年になり10年目へと突入する。10年ひと昔という。もう十分過ぎるほどに十分だ。先の戦争は別名「15年戦争」とも呼ばれ、1931年の柳条湖事件から敗戦まで15年にわたり、国民は狂気の侵略戦争に動員されてきた。しかし、今回の新型コロナウイルス騒動は、思いもしないかたちでの「敗戦」(アベにとっての「敗戦」であると同時に、「戦争」を10年も許してきた国民にとっての「敗戦」)をもたらすことになるのかもしれない。すでに桜事件でアベの化けの皮は完全に剥がれ落ちている。「敗戦」までに新型肺炎によって「尊い犠牲者」ならぬ「犬死に同様の人災死」をこれ以上出さぬためには、この「戦争」を「10年戦争」として是非とも「敗戦」へと導かなければならない。さもなければ、次の「15年戦争」の果ての「敗戦」の先には、決して「戦後復興」は待ち受けていないだろう。
今ならまだ間に合う。腐臭を放つ腐敗政治を根絶し、アデノウイルスならぬアベノウイルスに感染した中央官僚どもを完治させ、本来の「国民全体の奉仕者」へと復帰させ、先の戦後社会が実現し得なかった市民社会と民主主義を今度こそこの社会に根づかせ、国民本位の政治を取り戻す。それを実現するためには、コロナウイルスが国民に蔓延してからでは遅いのだ。


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[社説]「最高賃金」法制化、実践的検討をする時がきた(京郷新聞) [etc.]

社会最大の懸案である不平等解消のために、最高賃金の一部を最低賃金と連動して制限しようという総選挙の公約が出てきた。正義党が出した「最高賃金制」公約がそれであり、賃金最高額を国会議員は最低賃金の5倍、公共機関は7倍、民間企業は30倍までに制限する内容である。地方自治体レベルですでに関連条例をつくって実施するところもあるだけに、社会全体が真剣に議論する時期にきていると思う。
正義党は去る29日、「常識外の賃金不平等が固定化している社会では、国民経済のバランスの取れた成長も社会統合も保障できない。最高賃金制を導入してますます深刻化する所得不平等を改善すべきであるという国民の要求に答える」と、最高賃金制導入の趣旨を明らかにした。併せて外部の人間で構成される国会議員報酬算定委員会を構成することも明らかにした。
最高賃金法は別名「太った猫法」とも呼ばれる。本来、腹いっぱいの資本家を指していた「太った猫」は、2008年の金融危機を経て貪欲な資本家と企業家を批判する言葉として使われた。以後、フランスは公共企業の年俸最高額が最低年俸の20倍を越えることができないようにする法案を、スイスは企業経営陣の報酬を株主が決定するようにする住民発議案を可決する等、各国は両極化にブレーキをかける策を整備している。国内ではシム・サンジョン正義党常任代表が2016年の国会で初期最高賃金法を提出した。法人等が所属役員や労働者に最低賃金額の30倍以上を支払えないようにし、課徴金等によって社会連帯基金をつくって、最低賃金者、非正規労働者支援等に使おうという内容である。この法案は国会での議論には上らなかった。しかし、釜山市が昨年、傘下の公共機関の役員の最高賃金を最低賃金の6~7倍に制限する条例案を通過させたのを筆頭に、計11の地方自治体で議案提出および制定(制定6、議案提出5)され議論に火がついている。
韓国の上下位10%の賃金格差は4.3倍(2018年)で、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちアメリカに次いで2番目に高い。世界的な経済学者らは韓国の労働市場両極化が政治、社会の信頼を損ねて経済活力を低下しうると警告している。シム・サンジョン代表は法案提出時に、「国会で最初の交渉団体代表演説で3党代表がともに不平等解消を第1の課題に選んだ。それにもかかわらず、実践はいつも言葉に及び得なかった」と述べた。今や実践する時がきた。

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「テセウスの船」田村心の努力はすべてムダ骨?-タイムスリップとパラレルワールド [etc.]

祖父殺しのパラドックスとワームホール
1月の新ドラマで竹内涼真主演のTBS日曜劇場「テセウスの船」が始まった。父の冤罪を晴らそうと事件現場の小学校を訪れた主人公・田村心が、事件のあった31年前にタイムスリップし、真犯人を突き止め惨劇を止めようと奮闘する物語だ。あまり期待をせずに初回を見たら、思っていたよりずっと面白かったので、2回目以降も見ることにした。
実は、私はこういう現実にあり得ない設定のドラマはあまり好きでない。その典型例が、ふたりの記憶が入れ替わるというやつだ。解離性同一性障害などで何人もの人格を持つ人物などはありうるが、他人になりきり、かつその相手と人格が互いに入れ替わるなどということは絶対にあり得ない。まあ、それでも物語としてリアリティーを感じさせ、面白ければそれでいいのだが、どうも嘘くささが先立ってしまってドラマに入り込めない。
同様に、過去へのタイムスリップとかタイムトラベルも、一般にあり得ないこととされている。よくその証明として語られるのは、「テセウスのパラドックス」ならぬ「祖父殺しのパラドックス」だ。別に祖父でなくてもよく、要するに、自分が生まれる以前にタイムスリップして自分の親を殺してしまったら、自分は生まれてこないことになる。その生まれなかった自分が親を殺すことはできない-という理屈だ。また、もし未来にタイムマシンが発明され過去へのタイムトラベルが可能になったら、未来から現代に来た人がたくさんいるはずなのに、そのような人はひとりもいない、ということも過去へのタイムスリップが不可能な論拠としてよくいわれる。例えば、世間から脚光を浴びたいと思う人が未来からやって来て百発百中の予言者になることができるだろうが、現実に予言者と称する人の予言的中率は全くたいしたことがない。さらに、競馬好きの人間が過去に行って大金持ちになることも可能なはずだが、そんな人も見たことがない。
しかし、一方でアインシュタインはワームホールを利用して過去に行ける可能性を示した。現在まで、ワームホール自体が発見されていないので、これはあくまで仮定の仮定の話に過ぎないのだが、もしそれが可能ならば、上述したパラドックスはどう解決されるのか?

パラレルワールドが矛盾を解決する
私はこの矛盾を解くひとつの仮説を提示することができる。それは、過去へのタイムトラベルないしタイムスリップは可能だが、ある特定の過去に辿り着いた瞬間、パラレルワールド(平行宇宙)へ移行してしまうということだ。そう仮定すれば、上述した問題はすべて解決することができる。
まず、親殺しのパラドックスについては、私が行った過去は私の来た世界とは微妙にずれた異世界なので、たとえ私が親を殺し、私が生まれなくても、その世界では私が生まれない宇宙であるだけだ。そして、親を殺した私はその世界の私ではなく、異世界からの闖入者、正体不明の不審者に過ぎない。また、未来から来た「予言者」が、ことごとく重大事件を予言することができないのも、その世界は元いた世界とは微妙に異なるので、当然のこと。それでもたまに予言を的中させて世間を驚かせることはできるだろう。同様に、競馬好きのギャンブラーも、もし元の世界でギャンブルに金を注ぎ込み借金まみれの生活をしていたのなら、この世界では大穴を当てて家を一軒くらい建てられるかもしれない。ただし、それも時間が経過してもと来た時間に達するまでのことで、それ以降も競馬を続ければたちまち負けが込むことになるので、その時点できっぱり競馬をやめるのが賢明だ。
あるいは、なかには幼少期の自分と対面したくて過去に行く人もいるかもしれない。例えば私が14歳の私に会いに行ったとする。そうすると、私の記憶には、14歳の時に未来から自分を訪ねてきた数十年後の私と対面した記憶があるはずなのに、私にはそんな記憶がない。もしそうした記憶があれば、私が14歳の私に会いに行く目的は、純粋に14歳の私に会いたいからではなく、私が14歳の時に未来から訪ねてきた私に会ったので、私も14歳の私に会いに行かねばならないという義務感からということになってしまうだろう。だが、この矛盾も平行宇宙の概念を導入すれば、一気に解決する。
では、平行宇宙へ迷い込んだ私は、元の宇宙に戻ることができるかといえば、時間が枝分かれして以降、ふたつの宇宙はけっして行き来することができなくなるので、もしタイムマシーンで元来た時代に戻ろうとすると、戻った瞬間、私は消失してしまうだろう。そうなりたくなかったら、遡った過去で、正体不明の不審者としてその後の人生を送る以外にない。一方、元来た世界で私はどうなっているかといえば、突如失踪して二度と現われることのない行方不明者になるのだ。

「テセウスの船」の結末は?
話を「テセウスの船」に当てはめてみるとどうなるか? 田村心が31年前の音臼村の小学校にタイムスリップした瞬間、彼は平行宇宙に迷い込んでしまった。だから、その後、相次いで起きる事件も、死んだ妻が残したスクラップブックの新聞記事とは微妙に異なって起きることになる。それは単に、田村心がそこに介在したからというだけの理由ではないわけだ。そして、彼がその後、どんなに一生懸命真犯人を突き止めようとして、時には危険を冒してまで行動し、その結果、最後の小学校での大量殺人事件を阻止したとしても、それはそこの世界での出来事にすぎず、彼が本来果たそうとした元来た世界での父の冤罪を晴らすことにはならないのだ。元来た世界では、凶悪犯罪は敢行され、彼の父は逮捕され、依然拘置所に収監されて死刑を待つ身のままだ。そのうえ、田村心自身も、二度と元来た世界には戻れず失踪者扱いされることになるので、生まれたばかりの子どもは両親のいない子どもとして育つことになってしまう。
そして、田村心自身は、めでたく凶悪犯罪が起こらず、父親も冤罪の汚名を着せられずにすんだ異世界で、正体不明の闖入者として年を重ねていく以外にない。
私はこの原作を読んでいないので、ラストがどのように描かれるのか知らないが、もし31年後に幸せな日常を送る家族として描かれるとしたら、そこに登場する30歳の田村心ならぬ佐野○○は、一歩間違えれば父が冤罪で逮捕されて死刑を待つ身になっていたという記憶など保持してはいない。彼は31年前に母親のお腹の中にいた子どもにほかならず、一方、異世界から来た田村心は61歳の初老の人物として、上述したようにその世界のどこかでひっそりと生きていることだろう。

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