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ロボット社会の到来とベーシックインカム・第2部③ー絶対的貧困と相対的貧困の接近 [Post capitalism]

グローバリゼーションが経済先進国の労働者を窮乏化させる
 一方、それと同時に、水野和夫が明らかにしたように、つまり、レーニンが古くは『帝国主義論』で言及した帝国主義列強と植民地との関係、そして、第二次世界大戦後の経済先進諸国の消費社会と経済成長を下支えしてきた旧植民地=低開発国や発展途上国からの安い原材料や低賃金労働力の供給構造が、ここにきて急速に行き詰まりを見せ始めた。1980年代以降、アジア諸国が急速な経済成長を始め、BRICSと経済先進諸国との経済格差が縮まると、今やアフリカ大陸が最後の草刈り場になっている。そして、アフリカ大陸全体が開発され尽くしたとき、経済先進地帯は成長の動力を完全に失うことになるだろう。
 さらに、前述したIT革命は世界の時間的・空間的スケールを縮め、グローバリゼーションを加速化した。すでに多国籍企業は20世紀後半から世界経済を支配し始めていたが、グローバリゼーションは経済の国境を融解させた。

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菊本義治・西山博幸・本田豊・山口雅生著『グローバル時代の日本経済』(桜井書店、2014年)図1-3より転載

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財務省「本邦対外資産負債残高」より作成


 前の図は世界の直接投資(FDI)を示しているが、1990年代後半以降急増している。図Ⅰ-6は日本の海外直接投資残高で、2015年現在150兆円を超えている。日本企業といっても、今や日本発の多国籍企業であり、その発展は日本の雇用増加をもたらすのでもなければ、収益の果実や税金がすべて日本国内に返ってくるわけでもない。

恋愛もできず、結婚もできず、子どもも作れない
 日本の7分の1の翻訳単価であった韓国の翻訳会社が日本市場に進出すると、韓国と日本の翻訳単価の平準化が起こり、必然的に日本の翻訳単価が急激に下落することになる。同じことが社会のあちこちの分野で起こり、経済先進諸国の労働者の窮乏化が急速に進展する。

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「朝日新聞」2016年6月25日夕刊より転載


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白河桃子「年収1000万円以上男の「結婚の条件」【1】(「PRESIDENT」2010年8月30日号)より転載

 今や日本でも韓国でも、労働者の4割前後を占める非正規雇用労働者の多くは、「恋愛もできず、結婚もできず、子どもも作れない」状況に置かれている。前の図は年収300万円未満の20代男性は、それ以上の収入の男性と比べて既婚率が極端に低く、反対に「交際経験なし」が極端に多いことを示している。また、下の図は20~40代未婚男性のうち、年収400万円未満の層が全体の84パーセント近くを占めていることを示している。マルクスは『賃労働と資本』のなかで、「労働力の生産費を総計すれば、労働力の生存=および繁殖費となる。この生存=および繁殖費の価格は労賃を形成する。こうして決定される労賃は労賃の最低限と呼ばれる。」(カール・マルクス著、『賃労働と資本』、1891、長谷部文雄訳、岩波文庫版)と述べているが、まさにこの「労賃の最低限」さえも満たさない低賃金レベルに置かれている無権利状態の労働者たちが、21世紀の経済先進国に増殖しつつあるのだ。
 資本の有機的構成が高度化しても、それをカバーしてあり余る経済の高度成長が労働力を吸収し労働者を豊かにしていた時代は終わり、今や労働者の掛け値なしの絶対的窮乏化が進行している。

絶対的貧困と相対的貧困の接近
 こうした過程は、前述した資本主義周縁部の消滅過程とともに、すでに進行しつつある。その結果、先進資本主義諸国では大衆消費社会は終わり、分厚い中間層はやせ細って貧富の格差が拡大した。先進国の労働者の賃金は途上国の労働者の賃金と平準化していき、仕事の絶対量も減少し続ける。それでも完全失業率が急上昇しないのは、フルタイムの正規雇用をパートタイムやアルバイトの非正規雇用で置き換えたり、ワークシェアリングなどによって見せかけの就業率を保っているからにほかならない。また、低下した賃金水準は労働者全体に及ばないよう、非正規雇用労働者や移民労働者、女性労働者等、弱い階層に押しつけることによって、彼らを「労賃の最低限」以下のレベルへ追いやり、相対的貧困問題を低開発国や途上国の絶対的貧困問題と質的にあまり変わりのない程度の生存権の問題にまで深刻化させる。
 経済先進諸国の格差の問題は、アメリカ、日本、韓国等、従来から社会福祉が貧弱だった国々でいっそう深刻であるが、前述した問題は北欧福祉国家でさえ免れ得ない。なぜなら、社会福祉政策はワークフェア(労働を条件として公的扶助を行うべきであるとする考え方)を原則とし、障がいや高齢によって働けない者以外には「働かざる者食うべからず」の不文律を前提としているからだ。

迫り来る資本主義の終焉
 資本主義は経済成長を前提としたシステムだが、経済先進地帯では、今や市場原理にまかせた自然な経済成長は望めなくなっている。また、たとえわずかな成長を達成したとしても、富はすべて1%の富裕層に集積し、99%の人々はますます貧しくなり、貯蓄はおろか、ムダな消費をする余裕すら失いつつある。
 上位1%に集中したお金は行き場所を失い、一部は金庫の中やメガバンクに退蔵したり企業の内部留保として留まり、残りはマネーゲームに投じられて実態のない金融経済が肥大化する。

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「しんぶん赤旗」2016年2月4日


赤字国債を乱発して財政出動し、公共投資を行っても、大部分が大手ゼネコンなど大企業の懐に消え内部留保をいっそう増やすだけで、一時的に失業率が緩和しても、決して経済の好循環をつくりだして経済成長に結びつけることはできない。資本主義は解決不可能なアポリアに陥っている。
 このまま今の経済システムを延命させたら、10年後、20年後の世界はどうなってしまうのだろうか?
 中国、インドを含めたアジア諸国はもちろん、アフリカ諸国もある程度の経済成長は達成するだろうが、貧富の格差はよりいっそう広がり、経済成長の恩恵を受けられる層はごく限られたものになるだろう。栄養失調や疾病による生死に関わる絶対的貧困は解消されるだろうが、代わりに深刻な相対的貧困問題に直面するようになるだろう。
 日本を含む経済先進諸国では、生産活動・経済活動のより多くの部分をロボット・コンピューター・AI等が担うようになり、街には膨大な数の失業者が溢れかえることになるだろう。一方、農漁村部ではそうした経済活動とは断絶し、ごく限られた地域で循環する自給自足型地域経済によって自然と共生する一群の人々が生活することになるかもしれない。
 いずれにしろ資本主義は破綻し、世界は混沌とした時代を迎えることになるだろう。

ロボット社会の到来とベーシックインカム・第2部②ーロボット労働と絶対的過剰人口 [Post capitalism]

労働力商品
 ところで、マルクスは資本主義における賃金労働者の労働力は商品だと述べた。労働力商品論だ。最近この「労働力商品」という言葉は否定的ニュアンスに解釈されることが多いが、マルクスは資本主義経済の下で人間労働は「商品」として物象化される、ないしは疎外される、だからこそ、社会主義革命によってそうした商品としての労働は本来の尊厳を取り戻し、誰もが自分の仕事に誇りとやりがいを見い出すようにならなければならないという理論(労働の資本からの解放)の下、労働力商品という言葉を歴史的に限定された用語として用いたのだ。私たちも資本主義経済の下、賃金奴隷として自らの労働力を商品として売る以外に生きるすべがない大部分の労働者の現状を直視する必要がある。
 そして、労働力が商品である以上、その価値、価格は市場原理によって決定される。好況期に労働力不足に陥れば、あるいは成長分野のある部門の働き手が足りなくなれば、その労賃は当然上昇する。半面、不況期に突入したり、構造的な不況業種の労賃は下降する。また、商品市場においても政治的要因や自然要因等、様々なファクターが価格決定を左右するように、例えば前述した労働組合の存在が賃金決定に一定の影響力を行使する。同一業種でも、労働組合のある企業とない企業では、一般的に前者の方が同一労働・同一職種でも賃金が高くなる。

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労働省『毎月勤労統計調査報告』
伊代田光彦著「戦後日本の分配率変動と実質賃金率」第2表より作成
 図Ⅰ-2は戦後の高度経済成長期の実質賃金上昇率を表したものだが、特に60年代後半から1973年のオイルショックまでの期間、高い上昇率を示している。

イノベーションは絶対的過剰人口を生む
 1989年、ベルリンの壁が壊され、ソ連・東欧社会主義圏が崩壊すると、それまで成長を続けてきた資本主義体制はソ連・東欧諸国をも飲み込み、永遠の繁栄を約束されたかに見えた。
 しかし、皮肉にもまさにこの時期、社会主義に勝利した資本主義の自壊が始まった。折から先進資本主義諸国で始まったIT革命は、それまでの資本主義的生産様式を突き崩し、それを破壊する役割を担っていた。*、**
*たとえば、20世紀末の1992年に、「日本における情報通信サービス・製品の市場規模は、電気通信サービス約七・九兆円、放送サービス約二・八兆円、情報サービス約七・一兆円、放送を除く情報メディア約五・七兆円、電子機器約二一兆円(うち通信機器約二・八兆円)、合わせて総計約四五兆円に達し、自動車産業の市場規模にほぼ並ぶまでになっている。」(伊藤誠・岡本義行編著『情報革命と市場経済システム』富士通経営研修所、1996年)
**ケインズ主義的経済政策に取って代わって新自由主義が登場するのもちょうどその時期で、1980年を前後して、イギリスでマーガレット・サッチャー首相、アメリカでロナルド・レーガン大統領が誕生した。(日本でもそれに続いて中曽根康弘内閣が誕生した。)こうして、ヨーロッパも含めて、社会福祉の見直し、規制緩和、民営化等、新自由主義的経済が浸透していくことになる。日本でも〝中曽根臨調〟のもと3公社5現業の見直しが進められ、1987年には国鉄が民営化されJRグループが誕生した。また、最初の労働者派遣法が制定されたのは、1986年のことである。
 何故か? 資本主義経済において技術革新は、前述したように生産力の高度化をもたらし、それは新たな革新分野に失業者を吸収し、経済成長をもたらしてきたが、IT革命におけるイノベーションはそのような経済の循環構造を逆に断絶する。つまり、IT革命におけるイノベーションによってもたらされた新たなシステムは、基本的に人間労働を吸収するどころか排除する。相対的過剰人口は絶対的過剰人口に転化する。*

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*バブル経済が崩壊するまで、日本は経済先進国のなかで長時間労働と失業率の低さが際立っていた。しかし、バブル崩壊後の1990年代以降、労働時間も失業率も「先進国並み」になった。(上図)
「第4次産業革命」という言葉も用いられているが、現在直面している革命は、資本主義の一段階を画するような「産業革命」ではなく、資本主義そのものを死へと導く文明史的時代の転換を画する「ポスト資本主義革命」の始まりなのだ。

ついに「ほんやくコンニャク」が実現する
 翻訳産業にもたらされた翻訳ソフトや翻訳メモリ*は、翻訳産業に新たな労働力を呼び込むことはなく、反対に多くの翻訳者から仕事を奪う。
*日本語と文法構造の異なる英語等の翻訳に用いられている機械翻訳システム。翻訳データを蓄積することにより、類似構文、類字用語の文章を原文に当てはめて翻訳作業の効率化を図る。インターネットの発達により情報量が増えれば増えるほど、より効率的な翻訳作業を実現し、翻訳者の作業はコンピューターの下請け作業、単純労働化する。
 週刊東洋経済Eビジネス新書『技術革新は仕事を奪うか』のなかの東京大学大学院准教授・松尾豊へのインタビュー「AIが変える仕事の未来」では、2015年12月にカナダ・トロント大学でドラえもんの「ほんやくコンニャク」の実現に向けたAI技術の衝撃的な発表がなされたことが述べられている。
 それによると、例えば英語を入力するとAIがその内容をイメージし、それを日本語に置き換えるという。つまり、「「飛行機が晴れた空を飛んでいる」という文を入力すると、AIが本当に飛行機が飛んでいる絵を描く。「雨の中を飛んでいる」に変えると、雨っぽい背景に変わる。人間が物語を読みながら頭の中でイメージするのと同じだ。」「自動翻訳機能の技術的に難しいとされていたところは、これによってかなり突破されてしまった。」
 10年ほど前、「機械翻訳が翻訳者を駆逐する」という強い危機感をもってある英語翻訳ソフトを出しているIT企業を取材したとき、担当者が「英語←→日本語のこれ以上正訳率の高い翻訳ソフトを実現するには、本格的なAIが開発されないと難しいでしょうね」と言っていたのを思い出す。そのときがついにやってきたのだ。松尾は、実用化は今後10年前後で可能だという。
 そのときには、韓国語はもちろん、英語、中国語等、主要言語の翻訳者は書籍翻訳者も含めて、いよいよ完全に失業することになるだろう。それどころか、人間にとって翻訳と通訳は脳の別の分野を使う異なる作業だが、コンピューターにとって通訳は〈音声認識+翻訳+音声出力〉に過ぎないので、高度な技術と訓練を要する同時通訳者の仕事まで一気に奪うことになる。

人間はロボットの「代替可能商品」
 オートレジの普及は、そのうち無人のコンビニや無人スーパーを生み出すだろう。*いや、現在でも無人コンビニや無人スーパーを作ることは十分可能だが、それにかかる設備投資の額よりも、最低賃金ぎりぎりで雇うことのできるアルバイトやパート労働者を使った方が安上がりなので、オートレジが急速に普及しないだけの話だ。現にバブル経済崩壊後に金融業界が再編されたころから、銀行の無人ATM設置ヶ所が急速に増えるとともに、銀行の支店や出張所がどんどん統廃合されていった。
*「コンビニで私たちが店員さんと交わす会話は、せいぜい十秒ぐらいの長さだろう。この程度の内容と長さの会話を実現するだけであれば、おそらくアンドロイドで十分間に合う仕事だと思う。そう考えると、アンドロイドが成り代われる人間の作業は、私たちの暮らしの中にいくらでもある。」(石黒浩・池谷瑠絵著『ロボットは涙を流すか』PHPサイエンス・ワールド新書、2010年)  いわば人間の労働は今やロボットやコンピューターやAIに従属する「代替可能商品」にまで貶められた。

ペッパーが接客業における人の優位性を凌駕する日
「SankeiBiz」2016年6月6日の「AI新時代、奪われるヒトの仕事 執筆・接客代替、弁護士ですら置き換わる?」という記事に、以下のような文章がある。
「ネスレ日本(神戸市)は2014年末からソフトバンクグループの人型ロボット「ペッパー」を家電量販店の売り場などで接客に使っている。ソフトバンクによると、導入店舗の売り上げは15%伸びたという。ペッパーの導入以前は店舗ごとに接客のアルバイトを雇っていたが、人件費がかさむため、対象店舗は立地の良い数十カ所に限られていた。既に約150台を導入したが、数年以内に1000台まで増やす計画だ。
 ソフトバンクによると法人向けリースの場合、ペッパー1台当たりの導入費用は月5万5000円。仮にアルバイトを1カ月(30日)にわたり1日8時間、時給1000円で雇った場合、月24万円の人件費が必要となる。アルバイトを1人雇う代わりに、ペッパーを使えば月18万5000円のコスト削減が可能となる。顧客情報を蓄えたビッグデータを基に、ペッパーが個人の嗜好(しこう)に応じたきめ細やかな対応が可能になれば、接客業における人の優位性も失われかねない。」
 アメリカIBMの創始者トーマス・J・ワトソンの名をとった同社のコンピューター「ワトソン」はAI技術を用いて、「言葉を単なる文字列として把握するのではなく、自然言語処理によってその意味まで理解できる」(前掲『技術革新は仕事を奪うか』中の「ロボットが同僚になる日」)という。そして、近いうちに「ワトソン」を搭載したペッパーが発売されるらしい。そうすると、ペッパーはより「人間的」な接客が可能になり、ただ人間的であるばかりでなく、完全に「接客業における人の優位性」を凌駕することになるだろう。

ロボットが家事労働を代替
 さらにいえば、AI、ロボット等は家事労働も完全に代替するようになるだろう。戦後の家庭用電化製品の普及が大衆消費社会を実現し、主婦を家庭から解放して労働市場に送り出したことはすでに述べたが、近年のお掃除ロボの普及やIoT化は、あらゆる家事労働から人間を解放することになるだろう。イギリスのモーリーロボティクスが開発した全自動調理ロボットは2千食のレシピをこなす優れもで、2018年ころに発売予定だという。
 20世紀後半にはフェミニズムの観点から「家事労働に賃金を」という主張がなされた。私はそれ自体、資本主義的発想に縛られた逆立ちした論理だと思っていたが、今や賃金労働がロボットに奪われる時代を迎えて、「家事労働をロボットに」がフェミニズムの新たなスローガンになるのだろうか。
 しかし、資本主義的イデオロギーの枠内にあったフェミニズムは、女性の社会進出=労働参加を求めるあまり、家事労働のなかに育児労働まで含め、託児施設や保育施設を社会に求めてきたが、人間が真に賃金労働から解放されたとき、逆に育児は労働であることをやめ、男女を問わずひとつの〝自己実現〟、あるいは本来の人間らしい営み=仕事に姿を変え、ロボットに預けるべき対象であることを忌避するのではないかという気もする。子をつくり産み育てる行為は、人間の動物的本性に根ざした最も根源的な存在意義=種の継承に関わることだからだ。そこまでロボットや未来のテクノロジーに委ねることは、労働力の商品化から取り戻した人間性をかえって毀損することになりかねない。

単純労働から高度な専門職までロボットが代替
 私が、翻訳の仕事が急激に減って大打撃を受けたころ、疑問に思ったことがひとつある。それは、コンピューターが本来苦手とするファジーな言語を対象とする翻訳さえ翻訳ソフトが急速に普及し、今や翻訳者を駆逐しつつあるというのに、コンピューターが当初電子計算機と呼ばれたように、本分とする計算作業を基本とする税務申告ソフトがなぜ開発されないのだろうか、という素朴な疑問だった。私も翻訳の仕事がうまくいっていた一時期、事業を法人化して毎年青色申告をしていたことがあるのだが、自由業時代の白色申告とは比較にならないほど申告作業は面倒で、素人には太刀打ちできないものだった。かといって、税理士に依頼する余裕もなかったので、毎年適当に書き税務署で係の人に聞きながら訂正して提出していたのだが、当時会計ソフトはあっても、税務申告ソフトは存在しなかった。
 フリーの翻訳者には組合のような組織は皆無だ。だから、仕事をもらう翻訳会社に仕事量も単価もいいなりになるしかない。また、日本翻訳連盟という業界団体はあるが、各翻訳会社は最大手でも従業員数百人規模で、大部分は従業員数名~数十名の中小零細企業だ。政治的発言力もほとんどない。
 一方、税理士の場合は税理士会という強力な組織を持っている。政治力を利用して、会計ソフト会社に圧力をかけ、税務ソフトの開発に待ったをかけていたとしても不思議ではない。実際、当時ある用件でどうしても税理士の力を借りなければならないことがあり、ある税理士事務所に行ったことがあるのだが、事務所内の事務はすでにIT化されていて、こちらの依頼事務をたちどころに解決してくれた。
 それから10年以上経つが、今では青色申告ソフトが市場に出回るようになっている。個人経営、小規模経営、ベンチャー企業などが多く利用しているようだ。そのうえ、無料ソフトさえネット上で手に入る。
 一方、税理士の方も手をこまねいて見ていたわけではなく、クラウド会計ソフトを導入して企業とオンライン化し、合理化・価格引き下げで生き残りに賭けているようだ。「10年後には税理士などいらなくなる」という話も、業界では人口に膾炙されているらしい。十数年前の韓国語翻訳の世界と似たような状況か? 「使い物にならない」初期の翻訳ソフトも、当初は翻訳者が翻訳支援ツールとして有効に活用していた。しかし、結局は使いこなしていたソフトに、今や翻訳者自身が低賃金で使われ、挙げ句に駆逐されようとしている。(翻訳業にしろ税理士業にしろ、20世紀には「専門職」と呼ばれ一定程度の高収入が保障されていたが、21世紀に入るとコンピューターはそれらの業務から専門性を剥奪し、翻訳者や税理士は単純なパソコン操作によってその業務を補助する「単純労働者」へと変貌させられた。)

Dr.ロボットが診断を下す日
 日本で最大級の圧力団体といえば、日本医師会がそのひとつにあげられよう。医療の現場でも、すでに病院向け電子カルテの普及率は31%に及び、400床以上の大規模病院の場合に限れば約7割に及ぶという(2013年、「日経デジタルヘルス」)。また、先端医療の分野では、手術ロボットの開発も進んでいる。電子カルテの普及も手術ロボットの活用も、病院経営サイドから見れば合理化、病院のステータス強化に役立つものとして積極的に導入されていくのだろうが、こうした医療のIT化、ロボット化がいつか医師そのものの存在を不要にすると気づいたとき、医師や医師会はそれを全力で阻止しようとするだろう。あるいは、静かに進行する革命は、気づいたときにはすでに手遅れになっている、という事態も予想されうる。

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手術支援ロボッda Vinci

 例えば、20年後の医療はこんなふうになっているかもしれない。
 日々の健康管理は一家に一台普及している家庭用ロボットがしてくれる。そして、少しでも体に異常があれば、インターネットを通して地域医療センターに情報が送られ、適切に対処される。もし検査が必要と判断されれば、医療センターに行って必要な検査を受ける。もちろん、医療センターはほとんど無人で、検査もロボットの案内に導かれるままスピーディーになされていく。検査結果もたちどころに出て、その結果は、もしかしたらDr.ロボットかアンドロイドのスーパードクターの口から聞かされることになるのかもしれない。万一、手術が必要なときには、当然のことながら手術ロボットが活躍することになる。
 このように、工場内の流れ作業や、スーパーのレジ打ちといった単純労働から、医療といった高度な専門職の分野まで、あらゆる人間労働がロボット、コンピューター、AI等に代替されるようになるだろう。そしてそれらロボットやコンピューター自体、やがてロボットやコンピューターが生産するようになるだろう。

ロボット社会の到来とベーシックインカム・第2部①ー資本主義を終わらせるロボット・AI [Post capitalism]

人間労働が価値を生むとする労働価値説
 私が学生だったころは、まだマルクス主義経済学が全盛時代で、友人たちと、「将来ロボットが人間労働に置き換わることがありうるか?」というような議論を冗談半分でよくしたものだ。答えは当然「否」だった。当時発展のめざましかった工業用ロボットがどんなに発達・普及したところで、マルクスによれば商品の価値を生み出すのは人間労働以外にないのだから、その「ロボットを作るのもしょせん人間労働」という単純素朴な論理だった。
 アダム・スミスやリカードの古典派経済学の労働価値説を基礎にしたマルクスの剰余価値論によれば、生産過程で労働者が自らの労働力の再生産に必要な価値=賃金を超えて生み出される価値が剰余価値である。したがって、生産力が高度化すれば、労働者は相対的にも絶対的にもより多くの剰余価値を生み出すことになる。*
*例えば、「剰余価値の率は、ほかの事情がすべて同じだとすれば、労働日のうち労働力の価値を再生産するのに必要な部分と、資本家のために遂行される剰余時間つまり剰余労働との比によって決まるであろう。したがってそれは、労働者が働いて、たんに自分の労働力の価値を再生産する、つまり自分の賃金を補填(ほてん)するにすぎないような程度を超過して労働がひきのばされる割合によって決まるであろう。」(カール・マルクス著『賃金、価格、利潤』八 剰余価値の生産、1865年、『マルクス・エンゲルス全集16』大内兵衛、細川嘉六監訳、大月書店、1966年、傍線引用書)
 一方マルクスは、生み出された剰余価値が再び生産過程に投入される際、生産手段(不変資本)に投ぜられる部分が労働力商品=賃金(可変資本)に投ぜられる部分より増大し、資本の有機的構成が高度化するとした。そうすると、相対的過剰人口=失業者が生じ、労働者の賃金も低下する。
 このふたつの理論はどう関係するのか、そして、そもそも剰余価値説や労働価値説は正しいのだろうか?

資本主義の歴史と労働
 資本主義の歴史をざっと振り返ってみよう。
 産業革命によって確立した近代資本主義社会は、新たな機械の発明(=技術革新)によって限りなき経済成長を保障された。しかし、ある工場で新しい機械が導入され生産性が向上すると、同時にそれによって必要なくなった労働者が解雇されることになる。一方、合理化によって生産性向上をなしとげた企業は他企業との競争で優位に立ち、生産規模を拡大することができる。そうして、ひとまわり大きくなった企業は、生産を維持するために新たに労働者を雇う必要に迫られ、労働力を吸収する。同じことが、ひとつの社会レベルでも起きる。技術革新によって生み出された失業者は、生産力を増した社会によって再び吸収され、ひとたび増加した失業率は再び減少する。また、資本主義社会はほぼ10年周期で景気循環を繰り返してきたが、不況によって解雇された労働者は、景気が好況へと向かえば、再び雇用されることになる。
 この景気循環は、当初は恐慌というドラスティックなかたちをとって現れたが、経済がグローバル化し始めると、ついに世界恐慌という深刻な事態を招いたため、ニューディール政策によって修正が図られた。
 その間、労働者階級の生活はどう変化したか? 資本主義の成立期、農村から都市へ流入して工場労働者となった人々の暮らしは、若き日のエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で描いたように、悲惨きわまりないものであった。しかし、19世紀後半に国際共産主義運動と労働組合運動が高揚し、労働者の賃上げ闘争や権利獲得闘争が盛んに行われるようになると、資本の側も一定の譲歩をせざるを得なくなる。*またこの時期、欧米列強による植民地争奪戦が激しさを増し、植民地からの安価な原材料の流入が、欧米諸国の労働者の生活改善を後押しすることにもなった。
*例えば、合衆国カナダ職能労働組合連盟が1886年5月1日に8時間労働制を要求してストライキを行い、第二インターナショナルの決議を経て、1990年5月1日に最初のメーデーが敢行された。
 そして、第二次世界大戦後は、ケインズ主義と社会民主主義の結合による社会福祉政策が労働者階級の生活をよりいっそう向上させることになる。そして、それを可能にしたのは、戦争によって破壊された経済が急速な成長を遂げたことだった。その象徴的な例が、国土全体が焼け野原と化し、ゼロからの復興を成し遂げた日本の戦後の高度経済成長だった。
 こうして恐慌なき経済の緩やかな循環による成長過程を通して、生産活動を担ってきた労働者階級(ブルーカラー)が大量に第三次産業(ホワイトカラー)へと流入し、彼らを中心に分厚い中流階級が形成されることになった。
 自らの生存と子どもを産み育てること(=労働力の再生産)に精一杯であった労働者の生活は、「より豊かな生活」を求めて消費する大量生産=大量消費の消費社会の到来によって大きく変化した。*
*消費社会の到来は、家電製品によって家族の成員(妻)を家族労働から解放し、彼らを新たな労働力として社会的生産に参加させるとともに、彼らを支えるための様々なサービス業――保育園、ファストフードをはじめとする外食産業、スーパーマーケット等を生み出し、それがまた新たな労働需要を生み出すという循環を成立させた。そうして消費社会が発展していくと、生活に余裕の生じた中産階級は、旅行や趣味等、レジャーで余暇を過ごすようになり、レジャー産業が発達した。

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菊本義治・西山博幸・本田豊・山口雅生著『グローバル時代の日本経済』(桜井書店、2014年)の表5-2をもとに作成

 図Ⅰ-1は1960年代から70年代にかけてのテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫、乗用車の販売台数の推移を表しているが、特に60年代後半から70年代初めにかけての増加が著しい。
 こうして見てくると、経済が成長し生産力が高度化すると、不変資本への投資が増加して、労働者階級はますます窮乏化していくというマルクスの理論は、マルクス以降の資本主義の歴史によって完全に否定されたように思われる。

ロボット労働の自立化
 また、生産力が高度化すれば、労働者は相対的にも絶対的にもより多くの剰余価値を生み出すとする剰余価値説に関しても、ひとつの例として、あるスーパーマーケットで10人のレジ係が月給10万円で雇われていたが、レジの半数をオートレジ*にしたため、雇い主は半数の5人を解雇したとしよう。店の経営が厳しくなって半数の従業員が解雇されたのなら、残りの5人の労働が強化され、売上げが維持された場合、5人の従業員が10人分の労働をこなし、2倍に搾取されたことになるが、例にあげたようにオートレジを導入したのなら、オートレジはやめた5人がこれまでこなしていた労働を代わりに行った、つまり人間労働が機械に置き換えられたに過ぎないということになる。これは工場における産業用ロボットのケースを考えても全く同じである。
*人間労働を補助する単なる機械でなく、人間労働に代わってある工程を人間労働抜きに自律的にこなす機械をロボットと定義すれば、オートレジもATMも自動改札機もロボットと考えることができる。
 つまり、オートレジの導入は労働者の生産性を上げ、より多くの価値を生み出すようになったのではなく、オートレジが人間労働に置き換わったのだと考えなければならない。つまりこれは、剰余価値に関するマルクスの学説を否定するだけでなく、人間の労働のみが商品価値を生むという労働価値説自体も、ロボットの自立化とでも呼ぶべき現象によって破綻したように見える。
もはや時代は、「ロボットが人間の労働に取って代わる」現実を、覆い隠しようもなく私たちの前に突きつけている。
(続く)

資本主義を革命する市民新党 [Post capitalism]

革命という言葉が死語になって久しい。いや、それは政治の世界に限ったことで、今や革命という言葉は産業界の専売特許のように使用されている。やれIT革命だ、やれロボット革命だ、はたまた美肌革命だと…。政治の世界では、1970年代に革命的を名乗る集団によるテロや内ゲバが横行するようになって、それは禁句となってしまったのだが…。
実際、政治の世界では左翼、リベラル派は、やれ「憲法守れ」、やれ「民主主義を守ろう」と、もっぱら社会を保守することに余念がない。そして一方、保守を僭称する極右派は、「戦後レジームからの脱却」をめざし、既存政治体制の「変革」=破壊活動の急先鋒を担っている。
アメリカでは大統領予備選挙の民主党候補に社会主義者を名乗るバーニー・サンダース氏が政治革命を訴えて善戦している。今こそ日本のリベラル市民派は、後ろ向きの保守主義を脱却し、真の革命を目指さない限り、自らも、そして何より日本社会の未来もないことを自覚すべきだ。

21世紀の2段階革命論
第1段階:国債をチャラにし、特別会計を廃止
ではいかにして今の社会を革命していくのか? それは現体制の暴力的転覆でもなく、立憲体制=日本国憲法の否定でもない。生半可な「改革」では不可能になった諸問題を、より本質的に「革命」していくだけのことだ。
例えば、ついに1千兆円を超えた財政赤字。これは少々の痛みを伴った「改革」で解消できる問題ではない。私は3・11後に提唱した「脱原発市民自治政府」構想の中で「積極的デフォルト」を唱えたが、当時でさえ「日本の財政赤字は大部分対外債務ではないから、いくら増えても全然問題ない」などと脳天気なことをうそぶく「政府批判派」とおぼしき人々が少なからずいた。

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昨日衆議院を通過した今年度予算案を見ると、国債費は歳出の24%を占める23兆4,507億円だ。実に予算の4分の1を借金返済に充てている。歳入に至っては38%と4割近くを国債発行=借金でまかなうことになる。これを称して、「国の借金を国民ひとり当たりに換算すると830万円」などとよくいわれるが、冗談ではない。われわれはその恩恵をほとんど受けることなく、毎年搾り取られた税金で、国債を買った人や機関への償還費や利息を払ってきただけだ。一般会計には現れないが、特別会計から年間100兆円近くが国債償還費として支払われている。つまり、国にとって赤字財政の根源となっている国債発行も、それを買った人や機関は、これまで巨万の利益をそこから得てきているのだ。

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そして、日本の財政赤字の9割近くを占める国債の過半は、銀行・保険会社等の金融機関が占めている。「赤字財政、問題ない、問題ない」と楽観論を振りまいていた人々は、結局金融資本の回し者だったというわけだ。

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ここらで借金をチャラにしても、バブル崩壊後の金融破綻の危機を公的資金の投入、つまり国民の税金によって救ってもらった金融機関に文句を言われる筋合いはない。その代わり、二度と赤字国債を発行しないという縛りをかける必要はあるだろうが。たしかに、「日本の財政赤字は大部分対外債務ではないから」、そのことによって日本が、EUに厳しく責め立てられているギリシャや、貪欲なウォール街に身ぐるみはぎ取られかねないアルゼンチンのようになる心配はない。ただ、金融機関に少々の急性の痛みにしばらく耐えてもらえば済むだけのことであり、大部分の金融機関はそれに耐えうる体力を持っているだろう。ただ、なけなしの財産を国債につぎ込んだ個人投資家の一部の人々には、それなりの保証が必要になるだろうが…。
第2に、民主党政権も手をつけようとして果たさなかった特別会計の全廃だ。こちらは200兆と一般会計の倍以上の規模で、不透明な処理が問題にされてきた。もちろん、様々な有事に備えてあらかじめ予算を確保しておくことは必要だろう。だったら予備費として予算を毎年一定額確保しておき、収支決算をすべて透明化すればいいだけの話だ。
これだけで、赤字国債をこれ以上発行することなく、さらには消費税を再引き上げすることもなく、社会保障制度に今までより手厚く予算を使うことができる。そして、財政の健全化が図られるだろう。

第2段階:税制の抜本改革によってベーシックインカムを導入
そうした上で、税制の抜本改革を図るべきだ。アベノミクスの根本思想といってもいいトリクルダウン理論は、いってみれば乾燥しきった森林に上空からヘリコプターで散水すれば、梢を潤した水がそのうち根元にもしたたり落ちていくだろうというばかげた理屈だが、森の自然を知る者は、乾いた土壌を水と養分で満たしてやれば、樹木はそれを木の梢まで吸い上げて再生し、森林全体が緑を取り戻すことを熟知している。税制も同じだ。
今、日本のGDPは1970年代の水準にまで低下している。とりあえず、税制もその頃程度の累進課税に戻すのが格差是正に不可欠だ。そして、格差を再生産する相続税に関しては、一定額以上を100%課税するのが妥当だろう。
その上で、憲法25条で保障された生存権を全うするために、すべての国民に無条件に最低限度の生活を保障するベーシックインカムを導入する。保障程度は現在の生活保護水準が妥当だろう。つまり、すべての国民に保障される基本給付に家族単位に保障される住宅給付、そして医療費と教育費の無料化などだ。住宅給付は今問題になっている空き家を最大限活用して供給すれば一石二鳥だ。医療費問題については、薬漬け・検査漬けの現行医療制度を抜本改革し、免疫療法や漢方療法、栄養療法など、現在代替療法とされている療法を積極的に取り入れ、国民の健康増進を図って薬剤費や検査費を減らせば、高齢者の健康も増進し、医療費の劇的減少をもたらすだろう。
さらに、産業構造をポスト資本主義を見すえて抜本改革する。私は2005年に自身が直面した経済状況から資本主義の終焉を悟ったのだが、当時は誰も相手にされなかった資本主義終焉論を、今では多くの学者が唱え始めている。私はIT革命による人間労働のロボットやコンピューターへの置き換えが、資本主義の景気循環と失業者の技術革新による再吸収というサイクルを不可能にするという観点から資本主義の終焉を予想したのだが、例えば経済学者の水野和夫氏は資本主義中心部の周辺部への収奪構造の行き詰まりという側面から資本主義の終焉を予測する。また、最近になってようやく、ロボットが将来、人々の労働を奪うということがリアリティーをもって語られ始めた。
だが、資本主義がこれ以上収奪する場所を失い成長をやめ、ロボットが人間労働を奪うことは、何も悲観すべきことではなく、むしろ喜ぶべきことである。これにより、人々は自転車をこぎ続けない限り倒れてしまうという資本主義の成長神話=過剰生産・過剰消費という強迫観念から解放され、意に沿わない生きるための、金稼ぎのための賃金労働からも解放され、ベーシックインカムによって基本的な生存権が保障される。日々必要な衣食住はロボットが生産してくれるので、人々は生きがいを見いだし、やりがいのある「仕事」を探し、それを行うチャンスを誰もが得ることができるのだから。
そういう方向に社会を持っていくには、産業構造を第一次産業(農林漁業)と第四次産業(IT等先端産業)中心へと変えていく必要がある。そして、前者はもちろん、後者も産業の地方分散化を図ることで、都市と地方の格差解消を図ることも必要だ。
ベーシックインカムなど夢物語だろうか? 今年6月には、スイスでBI実施の可否を問う国民投票が行われる。その結果の如何を問わず、BIは単なる理想ではなく、今や資本主義が直面する困難な状況を解決する有力なオルタナティブとして浮上しているのだ。
日本では、政治とは現実に直面している問題を「現実的に」解決していくことだと矮小化されてきた。政治家が理想や哲学を語り、一見非現実的な政策を口にすると、青臭いとか、非現実的な理想論と一蹴されてしまう。しかし、そうした誤った政治への認識と態度が、今日の政治の混迷と劣化を生み出したのだ。このような状況だからこそ、政治は理想と哲学を語り、高邁な政策を掲げるべきなのだ。そして、政治家に必要なのは、揺るぎない確かな意志と何者にも屈しない決断力・実行力だ。

今日本の政治に求められているのは、このような21世紀の現実に即応しうる理想と哲学と代替策を持った全く新しい政党の登場だ。私のような素人でもこの程度の未来像は描けるのだから、各専門家が参画する市民新党を結成すれば、国民への訴求力は抜群だ。今こそ政治を市民の手に獲得すべき秋なのだ。

ロボット考-労働の剥奪と労働からの解放 [Post capitalism]

ロボットは人から仕事を奪う
Pepperが発売されたのにともない、ここのところロボットに関する話題が多いが、その議論のひつとつに「ロボットに仕事が奪われるか?」というのがある。
何をいまさら感がある。私など、翻訳という仕事柄、広い意味のロボット(人型ロボットだけでなく、人工知能(AI)やプログラミングされた精密な機械なども含む)である(韓国語)翻訳ソフトが市販された20年以上も昔に、「今から10年後に翻訳者は駆逐されるだろう」と直感し、実際、私自身は何とか生き残ったものの、10年後に韓国語翻訳者の多くが淘汰され、さらに10年経った今、いよいよ翻訳者サバイバル戦争も最終段階を迎えているのだ。恐らく、今からさらに10年経てば、英語や中国語も含めて、この国から翻訳者や通訳者はひとりもいなくなるだろう。
一方で、10年もすれば「翻訳コンニャク」が実現されるのだから、語学を学ぶ必要などないという極論もあるが、それはどうだろうか? 10年後だったら、せいぜい国際会議場の同時通訳が完全自動化され、あるいはビジネスで訪れた外国人を迎える会社や役所で、人型ロボットやアンドロイドが手際よく通訳をこなす段階ではないだろうか?
その次の段階として、ウェアラブルな、例えば装着感を感じさせないイヤフォンを着けると、互いに言語の違う相手と自由に会話できる通訳端末が開発されるだろう。それが何年後のことになるのか分からないが、そうなってこそ初めて、人は外国語を学ぶ必要がなくなるが、一方で、その頃には国際結婚が今よりも桁違いに増え、自然と2ヵ国語以上話せる人も増えていることだろう。



ロボットは人を労働から解放する
20年前に私が翻訳ソフトに仕事を奪われると言った時に、「いや、言語はファジーなものなので、2進法のコンピューターには最も馴染みにくいものだ」という反論もあった。しかし、実際には上述したような状況である。今後10~20年以内に人間の仕事の半分はロボットに取って代わられるというのが大方の見方のようだ。しかし、いつ、どれだけの仕事がロボットに代替されるかは、政治的判断、政策によって大きく変わりうる。人間を労働の苦役から解放しようという哲学に基づいた政策を推進すれば、より早く大半の賃金労働がロボットに代替されるだろうし、逆に雇用を守ろうという立場に立てば、社会のロボット化は抑制的になるだろう。
いずれにしろ、ロボットが人間労働に代替されれば、アダム・スミスリカードマルクスへと受け継がれてきた労働価値説は根本から覆され、ロボットが社会の価値を生む社会が訪れる。すると、仕事を失った労働者の扱いが喫緊の政策的課題として浮上する。
さしあたって、方法はふたつある。ひとつは残った労働を皆で分け合うワークシェアリング。もうひとつは、一部の人間による労働と富の独占。
しかし、そのいずれの方法をとったにせよ、今までの賃金体系を受け継いだのでは経済は成長するどころか右肩下がりに下がり続ける。ワークシェアリングをしてもすべての人の受け取る賃金が半額になったのでは、人々はせいぜい生活必需品を買うのが精いっぱいな状況に追い込まれる。一方、労働と富が一部の人間に独占されれば、大多数の人が飢餓に直面し、富を独占した人々の消費力も限定されたものにならざるを得ない。
一方で、ロボットによって生産された価値の総体は今までと同じかそれ以上なのだから、社会は供給過剰状態に陥る。それを解決する手段は、ベーシックインカム以外にないだろう。ワークシェアリングをとるか、労働の不均衡を続けるかにかかわらず、ベーシックインカムを実施すれば、人々は生存に必要な最低限の物を手に入れることができる。それ以上あまり働く必要を感じない人は仕事をセーブすればいいし、反対にもっと稼ぎたい人は仕事を手放した人から労働を受け継げばいい。
そうして更に、ロボットがほぼすべての労働を担う社会に到達すれば、人々は働かずして衣食住に必要な物をロボットから得ることができるようになるだろう。かくして人類は「働かざる者食うべからず」の社会と完全に訣別する。
しかし、勘違いしてはいけない。人々が働く必要がなくなったからといって、人々は怠け癖がついて遊びほうけ、欲望の赴くままに自堕落な生活に耽るというわけではない。そうではなく、人々はこの時初めて、若きマルクスの言った疎外された労働から解放されるのだ。それは、単に資本主義システムにおける賃金労働のレベルにとどまらず、また、階級社会が始まったときから人々に不可避的について回った強制労働にすらとどまらず、ヒトがヒトになる遙か昔、動物としてこの世に生を受けたときから、生きるために食べ、食べるために活動=労働し、そして子孫を残す、といった営々として受け継がれてきた営みから解放され、人類が初めて、全き意味で知的存在になる瞬間なのだ。
人間が生きるため=食うための労働から解放されるということは、人々が自己実現のために人生を生きられるようになるということである。つまり、人生とは生きることそれ自体であり、生きるために食べ、食べるために働くという動物の宿命から解放され、自己実現=よりよく生きることこそが人生の目的になるのだ。人々は持って生まれた個性を全面開花させるために切磋琢磨する。そうした社会は、すべての人のそれぞれの命と個性を他の何ものにも代えがたいものとして尊重するだろう。
ロボットは人間を真の知的存在として、他の動物たちと峻別された存在となるために生み出された最高の手段なのである。



ロボットは人間から労働を奪うのか、人間を労働から解放するのか? [Post capitalism]

ここのところ、20年後にロボットが人間の労働の6割を奪うとかいう議論が世間を賑わしているが、私には「何を今さら…」感が否めない。今から20年前に韓日翻訳ソフトが登場した時、私は「10年後に翻訳者が駆逐される!」と直感した。そして実際、10年後に、(幸い私は職を失いはしなかったものの、)猛烈な合理化の波にもまれ、収入の何割かを減らしてかろうじて翻訳者として生き残った。そしてその時、「そう遠くない将来、ロボットやコンピュータ(つまりAI=以下象徴的にロボットと称する)が人間労働にとって代わり、資本主義が終焉を迎えるだろう」と悟った。
昨今話題のトマ・ピケティは、21世紀になって20世紀後半の大衆消費社会によって中産層が増加したものの、IT革命によって再び貧富の格差が広がっている現状を膨大な資料の裏づけによって説明してみせたたに過ぎない。1世紀半も前にK・マルクスが述べた窮乏化説を形を変えて説いているだけだ。
アダム・スミスからリカード、マルクスへと受け継がれた労働価値説は、生産力が向上すると資本は多くの労働力を吸収して彼らが生み出した剰余価値によって資本家階級が富む一方労働者階級は窮乏化し、さらに恐慌によって大量の失業者を生み出すが、新たな技術革新によってより高度化した生産力がいっそう多くの労働力を再び吸収するという景気の循環を繰り返して経済が成長していく社会を分析した。
ケインズはこうした資本主義の極端な景気循環と富の集中を緩和する政策を打ち出したが、正統マルクス主義はこうした福祉主義的政策を修正主義と断じた。しかし、実際に第2次大戦後の世界経済は、このケインズ主義を発展させて、先進国に福祉社会と大衆消費社会を実現したのだ。
ところが、最初に述べたように、20世紀末から始まったIT革命は、ロボットが完全に人間労働を代替し、技術革新=イノベーションが雇用の促進=失業者の吸収をもたらさなくなった。つまり、(人間)労働価値説の破綻である。そこを見ずに無理に20世紀型の高度成長を続けようとすれば、アベノミクスのように湯水のように財政出動したり増税して企業を富ませることになるが、それはますます富の集中をもたらし、決してトリクルダウンなど実現されはしない。
ピケティが主張する税制改革はこうした現状の当座しのぎにはなるだろうが、ワークフェアを原則とする北欧福祉社会が壁に直面しているのを見ても分かるように、根本的な解決策とはほど遠い。
確かに短期的に見れば、ロボットは人間から労働を奪う。20年後にどれほどの人間を失業に追い込むかは、技術開発の進展以外にも、労働政策や失業者の増加による社会不安の強化など、複数の要因によって複雑に決定づけられるであろう。実は、今現在の技術力でも、ロボットが労働者から奪おうとすれば奪える職種は決して少なくないのだ。例えば、スーパーやコンビニのレジ、アマゾンのようなネット通販の倉庫の出荷作業をはじめとして、税理士業務、会計士業務など、単純労働に留まらず、比較的社会的ステータスの高いとされる労働も、技術的には簡単にロボットへの代替が可能なのだ。ただ、単純労働に関していえば、ロボット化するための設備投資や好不況の影響によるムダを考えれば、非正規雇用の低賃金労働者を雇い、景気が悪くなれば使い捨てるほうが効率的であり、税理士業務や会計士業務に関していえば、業界団体の既得権益確保のための社会的発言力の強さがそれを阻んでいるに過ぎない。


しかし、ロボットの人間労働への代替は確実に進んでいくだろう。だが私たちは、長期的に見れば、そのことを恐れる必要はないし、むしろ大歓迎すべきなのだ。
社会の価値=富の大半をロボットが生み出すようになれば、今の経済システムを維持することが困難になる。世界中に失業者が溢れ、住む家も失い、飢えに苦しめられる。それは大変な社会不安と混乱を生む。一方、ロボットの生み出した富をその所有者=資本家が独占したら、その生産物が社会に流通しなくなる。ロボットが血液を生産して心臓から全身へ送り出しても、末端の血管が詰まっていたら生命体は維持できないだろう。つまり、1%の富の独占者はその富をロボットによって仕事を失った者たちに還元しない限り、経済社会を維持できなくなる。
こうした極限状態に至る前に、多くの国では現実的な解決策としてベーシックインカムを採用するだろう。ロボットによって社会には十分な富が供給される。しかし、大多数の国民は衣食住を賄うための賃金を得るための仕事が不足している。そのアンバランスを最も合理的に解決する手段は、恐らくどんな税制改革よりも、税制改革を伴うベーシックインカムこそにあるだろう。
そうして何十年かの後、大部分の労働をロボットが担うようになった時、人間は初期マルクスの言った「疎外された労働」つまり、機械の一部に組み込まれた無味乾燥な労働であるとともに、資本に搾取された労働でもあるという二重の意味で疎外された労働から解放されるだろう。
そしてその時、ベーシックインカムは基本所得であることをやめ、必要所得になるだろう。つまり、人々は必要な時、必要なだけ物をタダで手に入れることができるようになる。そうすると、世の中に交換手段としての貨幣も必要なくなる。
そしてその時、人間は初めて他の動物たちと袂を分かち、真に知性的生物に生まれ変わるだろう。つまり、人間は食べるために働くという他の動物たちと同じ営為の繰り返しによって生まれ死んでいく循環から解放され、真に自己実現のための仕事のために、よりよく生きることができるようになるのだ。
そのような社会には、金をめぐる争いごとはもちろん、あらゆる争いごともなくなり、戦争がなくなるだけでなく、国境も消失するだろう。
しかし、その時、人間にとっていちばんの敵は、自ら作り出し、もはや人間の知能を超えたロボットという存在にならないという保証はない。

「取り戻すべき日本」とは何か?-『逝きし世の面影』を読んで [Post capitalism]

私は1980年代から「日本の伝統」「古きよき時代」という時の「伝統」や「時代」に対してずっと疑問を抱いてきた。それを声高に主張する人々の多くは、漠然と「戦前」をイメージして語っているようなのだが、ではそれはいつまで遡ってのことなのか? そして、杉浦日向子田中優子ら江戸時代の研究家によると、江戸時代の日本や首都・江戸の人々の有り様は明治以降の日本人とは大きく異なることを仄聞するにつけ、その疑問は深まっていった。
だとしたら、明治維新以降、敗戦までの「伝統」とは、敗戦後の今日までのタームとほとんど変わらぬ、日本の長い歴史に比べればほんの一時期に過ぎない、とても「伝統」とは呼べぬしろものではないのか。それをもし「伝統」と称すならば、戦後社会にもすでに誇るべき「伝統」が形成されているはずだ。
そう思うと、「日本を取り戻す」と威勢よく叫んでいる人々が恐らく取り戻そうと望んでいるだろう戦前の「伝統」など、彼らが否定しようと躍起になっている戦後の「伝統」に比べて、果たしてどれだけ理想化するに値するのか? そんな思いがますます強まってくる。

1年以上前にKindleで購入しながら、単行本で600ページという大著なため、多忙を言い訳についつい後回しにしてきた渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)をようやく読了した。
幕末、明治初期に日本を訪れ、そして短からぬ期間当地に滞在した外国人の遺した書物を通して描き出されたその時期の日本及び日本人は、著者が「滅びた文明」と呼ぶに値する、確かに今日の日本はもちろん、戦前の日本と比べても極めて異質さの際立つものだった。以下、著者自身の記述も含めて、彼らの記した幕末から明治初期の日本と日本人を垣間見てみよう。

幸福の国
十九世紀中葉 、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。
西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。
豊かな国
日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは 、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。
日本には 貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。
日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。
このようなゆたかで美しい農村を支えたものが、発達した農業生産であったのはいうまでもあるまい。
160743.jpg平等社会
金持は高ぶらず、貧乏人は卑下しない。 ……ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。
障害者は施設に収容されたり、専門家のケアの対象とならずに自力で生きてゆくことができた。
当時の文明は「精神障害者 」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人びとと混りあって生きてゆくことができたのである。
勤勉さと遊び心
日本の民衆はたしかに勤勉であったに相違ないが、そのことは、彼らが、アンベールのいうように働きたいときに働き休みたいときに休み、オールコックやブラックのいうように時間の価値を知らず、モースのいうように労働のうちに嬉戯することを、一向に妨げなかったのである。
自治と自由
民衆の共同団体に自治の領域が存在したということで、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されぬ性質を保有していた。
今日のわれわれが理解するような近代の市民的自由ではない。それは村や町の共同体の一員であることによって、あるいは身分ないし職業による社会的共同団体に所属することによって得られる自由なのだ。
職人気質
家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやりかたで行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
性と家
性について現実的でありすぎ享楽的でありすぎたといえぬこともない古き日本は、同時にまた、性についてことさらに意識的である必要のない、のどかな開放感のみち溢れる日本でもあったのだ 。
家制度とは女たちが、前半は辛苦をしのび後半は楽をするという生活サイクルを世代ごとに繰り返すシステムではなかったか。
子ども
私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。
江戸という都市
つまり江戸は、彼らの基準からすればあまりに自然に浸透されていて、都市であると同時に田園であるような不思議な存在だった。
自然との調和
日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう。
動物愛とヒューマニズム
彼らは馬に人間のため役立ってほしいと思っていたに違いないが、さりとて、そのために馬に何をしてもいいとは考えていなかた。彼らは馬にも幸せであってほしかったのだ。
徳川期の日本人にとって、馬、牛、鶏といった家畜は、たしかに人間のために役立つからこそ飼うに値したのだが、彼らが野性を捨てて人間と苦楽をともにしてくれることを思えば、あだやおろそかに扱ってはならぬ大事な人間の仲間だったのだ。
ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった 。
宗教観
この時代の日本人は死や災害を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった。
私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市である
ロシア正教日本大主教のニコライは、欧米のプロテスタント宣教師とは違って、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出していた。
なによりも痛切に覚知されているのは、現世を超えつつしかもそれと浸透しあう霊の世界の存在である。それとの年一度の接触は、宗教の枢軸ともいうべき救済をもたらす。
井の中の蛙
自国を世界の中に置けば粟粒のように小さいということは、劣等感を誘うことでも、逆にそれがどうしたと肩をそびやかすことでもなかった。それはひたすらおかしみを誘う事実だった。ここにはまぎれもなく、自己客観視にもとづくユーモアが香っている。

ここには私たちが学校で習った厳格な身分制度によって自由が束縛され、鎖国によって世界から取り残されたあの暗黒の封建時代のイメージはどこにもない。むしろ、当時日本を訪れた外国人は日本を「地上の楽園」とすら感じていたのだ。
私たちはそれらを読んで、意外に感じると同時に、どこかしら懐かしさを感じ、あるいはそれと同質なものを、例えば今のブータンなどに見出すことができるかもしれない。著者も述べているように、それらは日本固有の「文明」であったと同時に、その多くは近代化以前のヨーロッパ社会にも共通する社会と人々のありようでもあったのだ。
上述したような幕末・明治初期までの日本の「文明」は、すべて滅び去ったわけではなく、今日の私たちに受け継がれている面もあるにはあるが、明治政府はそうした「文明」を全否定し、脱亜入欧することで近代国家=資本主義社会を成立させていった。それはひと言で、欧米の模倣とその文化の移植によって成り立った社会だといってもいいだろう。そしてそうした近代化された社会は敗戦によって焼尽される日まで続いた。
それに対して、戦後社会=現代社会は徹底してアメリカナイズされた社会、民主主義の移植によって成立した社会だった。両者は一見相異なり、対立するかに見えるが、西洋文化の模倣・移植という点で相似形をなしている。つまり、借り物の文化なのた。
そうした近代・現代社会=資本主義社会がどん詰まりに至り、終焉を迎えんとしている現在、弁証法の正・反・合の法則に則り、私たちはここで描き出されている明治以前の前近代の日本社会にこそ、来たるべきポスト資本主義社会をイメージするのに多くのヒントを見出すことができるのではなかろうか? もちろん時代の針を逆回りさせることはできない。しかし、誤解を恐れずあえていえば、「取り戻すべき日本」とは、戦前期の近代社会にあるのではなく、そのひとつ前の江戸時代にこそあるのだといえよう。

資本主義の終焉と歴史の危機 [Post capitalism]

私が資本主義が終焉へ向かい始めていると思うようになって10年近くがたつ。その後、私はベーシックインカムの思想に出会い、2010年に『希望のベーシックインカム革命-ポスト資本主義社会への架け橋-』(Kindle版)でその根拠をIT革命とグローバリゼーションに求めた。
mizuno.jpg水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を遅まきながら読んだ。経済学が専門の水野氏は、資本主義終焉のサインを「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ」に見出し、絶えず中心が周辺をつくりだすことによって達成してきた経済成長がもはや地理的に周辺を生み出し得ず、国家を超えた1%が99%の先進国の国民を貧困層に突き落とすことでかろうじて延命している現実をあぶり出して見せ、示唆に富む。私が10年近く前に直感した資本主義終焉論に理論的根拠を多く与えてくれる。私が拙著で言及したイマニュエル・ウォーラーステインに氏も何度か言及しているので、知識のレベルに差はあるとしても、同じような思考経路を辿って資本主義終焉という結論に至ったのだろう。
2008年の9.15(リーマン・ショック)と2011年3.11を経て、理性的判断力を持って現実を認識しようとすれば、もはや資本主義の終焉を認めることはそれほど困難なことではなかろう。だが、「アベノミクス」の「3本の矢」をはじめ、世界各国の支配層はそれを頑として認めず、未だ成長神話の見果てぬ夢にしがみついている。安倍の異常なまでの戦争への執着も、遠くない将来に必ず破綻し尽くす「アベノミクス」と日本経済の危機を戦争によってチャラにしようとする破壊的衝動の表現と理解すると分かりやすい。
水野氏は資本主義終焉へのハードランニングとソフトランニングのふたつのシナリオを提示しながら、ソフトランニングの先の具体的な社会像を提示していないが、私は拙著の中でソフトランニングの最上の手段としてベーシックインカムを提示した。
なりふり構わず延命を図る資本主義がその政治的表現であった民主主義と齟齬を来しつつ、99%への収奪を強化している現実にあって、1%の支配層に集中した富を再分配する手段として、ベーシックインカムは最も合理的な方法である。そうして、ポスト資本主義へのソフトランディングを果たした先の社会は、恐らく貨幣経済そのものの死をも意味するであろうというのが、私のポスト資本主義社会の素描であった。
水野氏は「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ」にいち早くたどり着いた日本こそが、先陣を切って資本主義終焉への賢明なソフトランディングを模索する条件を備えていると希望的観測を述べているが、3.11を経た今、私はそのような楽観論を抱くことはどうしてもできない。経済的条件が揃っても、それを革命していくのは市民の政治的行動だからである。だが、残念ながら、日本にはそのような革命を担いうる市民層が存在しない。
もしかしたら、水野氏の思いとは逆に、日本はアメリカと並んでハードランニングの道を選択し、しかもその先には、もっとも凄惨な戦争や狂気の原発推進の果ての自滅が待っているかもしれない。その時、資本主義のある意味最も成功した優等生であった日本は、資本主義とともに滅びる運命にあるのかもしれない。

壊れかけた家は政治に修復できない。ひとり一人が自力で造り替えるしかない [Post capitalism]

日本の今の社会や政治の関係を家に喩えれば、あちこちがたがきて壊れかけた家を修繕して何とかしようとしているようなものだ。とっくに耐久年限が切れて、雨漏りはする、水道の水漏れはする、あちこちからすきま風が吹き込み、シロアリが発生してさらに家はぼろぼろ。そこへきて、先頃の大地震でガス管に亀裂が入って爆発し、その部屋は住むのが危険な状態。とても人が安心して暮らせる場所ではなくなっている。
大工の民主屋さんが、改修の青写真を持ってやってきたが、ろくに工事もできないまま、かえって状態を悪化させ、そこへもって上述の地震ときた。やっぱり俺に任せろと、長年この家を見てきた自民屋さんが復帰し、今度は思い切って予算を投入してあちこち手を入れ始め、この家を20年前の人がまともに住める状態に取り戻すのだという。一方、例えばみんな屋さんは、20年前に戻すことはできない、この家をアメリカンスタイルの見栄えのいい家に改修しようと提案すれば、共産屋さんは、必要な金は別のスポンサーに出させて、住む人がより住み心地のいい家に改修しようと言う。
しかし、客観的に見れば築70年近くもたつ耐久性に優れないこの家は、どう考えたって一度すべてぶっ壊し、更地に戻して立て替えるしかない。しかし、その後新築する家はテレビCMに出てくるような、新建材を使った見栄えのいいオール電化とかエネファームとかの家では意味はない。従来の家の概念を根本から覆すような斬新なアイデアに満ちあふれた家でなければ、真の再生は果たせない。
例えば、地下熱を利用した換気システム、ソーラーパネルや太陽熱温水器、蓄電設備などはもちろん、バイオガス、近くの山から採れる木の枝を燃料に使ったボイラーなどによるエネルギーの完全自給、井戸水や雨水による上下水道の完全自給、そして、肝心の家本体は、これまた近場の山林から切り出した木材を用いた木造建築。庭では無農薬家庭菜園で野菜を栽培し食料の一定部分を賄う。――例えばそんな政策を提案する政党がない。あっても、選挙で支持を得て国会に議席を獲得できない。
実は、こうした家の建て替えは、決して政治が果たす役割ではないのだ。このままじゃ家が潰れてしまうと気づいたひとり一人が、自力で行うべきことなのだ。上述した家は一例で、各自がオリジナリティにあふれた、世界でたったひとつだけの家を造ればいい。
もはやここでいう家は比喩ではない。文字通りの家、人々の生活する家、家族の生活する家、そしてそれらが結びついた地域のコミュニティーを意味する。
かくしてそうした家々が全国に広がっていった時、中央政治はほとんど意味をなさなくなる。経済の果たす役割も格段に減っていく。政治に残された役割は、そうして無用の長物と化して残された原発をはじめとした廃棄物を、責任をもって後始末していくことくらいだろう。

ポスト資本主義革命は静かに始まっている!-『里山資本主義』 [Post capitalism]

私はこのブログに「Post capitalism」というカテゴリーを設けて、たびたび以下のようなことを述べてきた。

奴隷のように働いてわずかばかり稼いだ金をせっせせっせと消費する生活から降りることだ。ほどほどに働いて、少なく稼いだお金を効率的に消費して、満足のいく豊かな生活を送れるよう、ひとり一人が知恵を絞って生きることだ。そうした生き方が多くの人々に支持されるようになれば、困るのは奴らだ。モノが売れなければ景気が悪くなり経済はマイナス成長だ。それでもこの国には、すべての国民が健康で文化的に生きていける十分なモノがある。その分配の仕方をお上に頼んで変えてもらうのではなく、私たち自身で分配し、使い回し、長持ちさせるよう工夫していくのだ。

私は言いたい。若者よ、農村に行こう! そして、田を耕し、畑を起こし、自らの食を自ら得よ、と。幸いこの国には、農村部にはいくらでも耕す田畑が有り余っており、空き家もたくさんあるから、住む家も都会の十分の1くらいで買うなり借りることができる。考えてもみよう。暑さ寒さを防げぬ路上、窮屈なネットカフェ空間、マックの固い椅子、やっとありつけるコンビニ弁当や100円マックと、農村の澄んだ空気に広い土地、広すぎる居住空間、新鮮な野菜とご飯……のどちらが自然で人間的な生活を保障してくれるかを。
資本主義がその昔、農村の自給自足経済を破壊して、生活できなくなった農民を都市へと追いやって賃金労働者に仕立て賃金奴隷にしたのと逆の過程を、今こそ都市生活者たちは自ら主体的に行うべき時がきたのだ。

そして、そうした発想の延長上に、次のようなユートピアないしは桃源郷を夢想してみたこともある。

その村の人口が3千人くらいになるまで、移住を続けましょう。最初のうちは空き家も農地(休耕地)を含む土地もあり余っているでしょうから、移住はスムーズに進むでしょう。…実は移住した時から、クニづくりは始まっています。移住民の多くは、新天地で農地を買ったり借りたりして農業を始めなければならないでしょう。他にめぼしい産業も仕事もないでしょうから。…クニの最初の事業はエネルギーの100%自給です。…エネルギー自給の次に目指すのは、食料自給です。村は元々第一次産業でなりたっています。移住者の多くも、農業(沿岸地方なら漁業も)に従事します。そうして、加工品を除く食料の100%自給を早期に達成し、さらに200%、300%、つまり、外部への移出を目指しましょう。…村にはきっと、貴重な観光資源があることでしょう。しかし、おそらくそれを十分に活用していない可能性があります。さらに、今や村は革新的な実験に取り組む自治体として、国内のみならず世界的にも注目される地域になっているでしょうから、それを付加価値として観光資源化し、国内外にアピールしていくといいでしょう。そうして、村の財政を健全化し、豊かなものにしましょう。

satoyama.jpgところが、こうしたことは私の夢想ではなく、実はすでにこの国の目につきにくいところで、密かに、しかし確実に、深く始まっていたのだ! しかも、私のすぐ身近な場所で。
『里山資本主義-日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷浩介、NHKヒロシマ取材班著、角川oneテーマ21)という本は、NHKヒロシマ放送局が中国地方限定で放送したドキュメンタリー番組をもとにまとめた本だ。
本書では岡山県真庭市で製材業を営む中島さんのバイオマス発電ペレットの生産、新しい木材集成材CLT建築への取り組み、広島県庄原市の和田さんの木の枝を原料にしたエコストーブ、同じく庄原市の熊原さんの空き家活用と捨てられていた野菜の活用と地域通貨の流通、山口県周防大島の松嶋さんの「瀬戸内ジャムズガーデン」などを紹介しつつ、そうした個々の取り組みが「外に出て行くお金を減らし、地元で回すことができる経済モデル」であるとして、「マネー資本主義」に対抗してそれを補完する「里山資本主義」と命名している。また、こうした取り組みを国家レベルで行っている例としてオーストリアを取り上げ、その森林活用政策が脱原発とエネルギー自給へとつながっていることを示している。
上述した真庭市のバイオマス発電では、今年の2月に「真庭バイオマス発電株式会社」が設立され、2015年に稼働すれば真庭市の半分の電力をまかなえるようになるという。
本書では「里山資本主義」はあくまで「マネー資本主義」のサブシステムという位置づけだが、私に言わせればポスト資本主義社会へ向かうオルタナティブなシステムにほかならない。
TPPが発効すれば日本経済はアメリカを中心とした多国籍企業に食い荒らされ、第一次産業は崩壊、労働力はますます価値を下げ、雇用も縮小していくだろう。しかし、99%の人々はそんな日本の経済システムと心中する必要はないし、心中しないで生きる道がある。それが本書でいうところの「里山資本主義」であり、要するに都会で暮らしていけなくなった人々は地方へ、農村へ、山林へ行けばいいだけの話だ。そこには、住むための空き家と食べるために耕す農地(耕作放棄地)と、おいしくて安全な水と、燃料にするための木と、無縁社会とは無縁な地域のコミュニティーがある。そうして地域内のモノやエネルギーの循環ができあがれば、足りないのは工業生産物だけだが、それも都会で暮らしていたときよりはるかに少ない量で済むようになるだろう。さらにサービス業に至っては、ほとんど不要になるか、インターネットさえあれば用が足りるであろう。そして、それらに必要なお金は、地域内で生産されたモノに付加価値をつけて都会へ売ることによって得られる決して多くない貨幣で、十分にまかなっていけるのだ。
こうして真に地方分権的な国の姿ができていく。そうなれば、原発などが必要でなくなるのはもちろんのこと、官僚と無能な政治屋の支配する中央集権的な国家自体が無用の長物と化すだろし、多国籍企業に人々の生活が支配されることもない。
今年、首都圏から岡山市に移ってきた私は、里山への入口に立っている。私が20代、30代の若者だったら、迷わずその先へすぐにでも一歩を踏み出すだろう。都会でマネー資本主義の下、人間性も人権も、夢も健康も奪われて、日々の命をかろうじてつないでいる若者たちに、本書は理屈でなく、具体策として、今までと全く違う生き方があることを示してくれるだろう。
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