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望鵠記はnoteに全面移行しました [etc.]

2010年に前のブログを引き継ぐかたちでSo-netブログを始めてちょうど10年経ちましたが、このたび本ブログ機能を全面的にnoteに移行することにいたしました。
読者の皆様、どうもありがとうございました。今後ともnoteの私の記事をご覧いただけると嬉しいです。今まで以上に力を注いで書いていこうと思います。
移行先[バッド(下向き矢印)]
https://note.com/keikitano
なお、本ブログは閉鎖せず、当面はこのまま公開を続けます。

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パラレルワールドでも解決しない「テセウスの船」の矛盾 [etc.]

今季いちばん面白いドラマ
力作揃いだった前季に比べて引けを取る今季のテレビドラマの中でいちばん面白いのは、何といっても前にも触れた「テセウスの船」だ(「テセウスの船」田村心の努力はすべてムダ骨?-タイムスリップとパラレルワールド)[ちなみに2番目に面白いのは小泉孝太郎主演のテレ東系「病院の治しかた」]。その際に、この物語を単なる「あり得ない話」としてでなく「あり得る話」として見る方法としてパラレルワールドによる解釈をあげた。ところが、その後の展開を見ると、パラレルワールドによる解釈を導入しても取り繕いようのない矛盾点が次々と現われてきた。
例えば、田村心が再び引き戻された31年後の世界は元の世界とは異なる世界であることはパラレルワールであれば当然のことであるが、そこで細かい点でいくつもの矛盾が生じる。前回、私は心がタイムスリップした31年前の世界は元の世界をAとすればそれとは異なる世界Bであり、彼は31年後のAに戻ることは絶対できないし、戻ろうとすれば彼は消滅すると述べたが、ここで描かれている31年後の世界がAともBとも異なるCという世界であると解釈すれば、つまり、過去であれ未来であれタイムスリップするごとにパラレルワールドへと迷い込む設定と解釈すれば、同一の心身・記憶を持った田村心がA→B→Cへと次々タイムスリップしたものと首肯できる。

矛盾点の数々
だが、
①最初にA→Bにタイムスリップした心がそこで母のお腹の中とはいえ既に生命を持っている自分自身と対面したのに対して、Cではその世界で生を享けたもうひとりの田村心が存在せず、A、Bを経てきた心が唯一の田村心として存在している。
②その心を、獄中の父は31年前に出会った心と認識しているにもかかわらず、姉の鈴や木村さつきら他の登場人物は31年前の心を全く覚えておらず、心をCで生を享けて成長してきた心としてしか認識していない。いったいCの世界の心はどこへ消えてしまったのか?
私は原作を読んでいないので結末を知らなかったが、気になってネタバレの記事に目を通してみたら、28年前からタイムスリップしてきた加藤みきおが事件直前のみきおとふたりで陰謀を巡らすと知り、ますます混乱した。タイムトラベラーがふたり存在し、過去へ行ったときは過去の自分と対面し、未来へ戻るとふたりの人格がひとりに統一し、しかもタイムトラベラーの記憶を保持している。ご都合主義極まれりの感を拭えない。
いずれにしろ、結末はどうであれー恐らく当初の予想どおりハッピーエンド(心の父・文吾の冤罪が晴れる)で終わり、心と由紀が再び結ばれるとしても、それはA→B→C→…と遠く離れたパラレルワールドでの話であって、前回述べたように、元々のAでの父の冤罪は晴れぬまま、心と由紀の子どもが両親のいない子として育つ運命に変わりはない。

しょせんエンタメドラマ、上質なSFとはいえない
とまあ、文句ばかり述べてきたが、前回も言ったように、「あり得ない話」でもリアリティーを感じさせ面白ければ、エンタメドラマとしてそれはそれでいい。記憶・人格入れ替わりドラマが科学的に全く説明がつかなくても、また、死んで成仏できない幽霊ドラマが、ある人には見えて他の人には見えなかったり、人と交わることのできない実体のない霊体にもかかわらず、なぜかしっかり地に足をついて歩くことができたり、時には食事をすることができたりと、そういう類いの娯楽ドラマに突っ込みを入れること自体が野暮なのかもしれない。「テセウスの船」もそう割り切ってみれば(割り切らなくても)けっこう面白く見ることができるのだが、一方、少なくとも上質のSFドラマと言い難いことは確かだろう。

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無とは何か? そして絶対不可知のマルチバース [etc.]

無とは何か? この疑問に、普通の人は「何もない真空状態」のようなものを想像するのではないだろうか? だが、真空のエネルギーの存在はさておき、もしこの宇宙のどこかに光の粒子ひとつ、ニュートリノひとつ存在しないような「真の真空空間」があるとして、そこに果たして時間が流れているのかという問題を除いても、少なくとも3次元の空間が存在することは確かだ。絶対的な無とは、次元も物質・質量も何も存在しないものである。そしてそのような「無」は私たちが存在する宇宙-すなわち有の世界にあっては容易に想像することも、アナロジカルに何かに喩えて論ずることも難しい。

素朴で無邪気なマルチバース論
私が宇宙に興味を抱くようになったのはもう20年以上昔のことだが、まだ宇宙に関してほとんど知識のなかった頃、よく寝物語に次のような宇宙旅行をしたものだ。そうすると不思議と眠くなり、元来寝つきの悪い私でも数分以内に眠りに就くことができた。以来、私は就寝時に必ず宇宙のことを創造する習慣がついた。
-私は超光速の宇宙船に乗って、地球から任意の方向へひたすらまっすぐ宇宙を移動し続ける。すると、やがて星々の光が途絶えて真っ暗闇の空間に出る。宇宙の果てで、そこから先は宇宙の外だ。私はかまわずそのまま進み、しばらくしてふり返ってみると、われわれの宇宙がどんどん遠ざかっていき、やがて星屑のように小さくなり、それも消え果てる。その真っ暗闇の真空の中をさらに進んで行くと、前方に微かな光が見えてくる。私はその方向に宇宙船を進めると、光はどんどん明るくなり、やがて私が遠ざかってきたわれわれの宇宙のような大きな宇宙が姿を現わす。そこは、われわれの宇宙とは違うもうひとつの宇宙なのだ。
極めて素朴で無邪気なマルチバース論だ。実際に思考実験としてこのようなことがあり得るとしたら、私が「宇宙の果て」と思ったのはせいぜい超銀河団の果てであって、真空のエネルギーないしはダークエネルギーで満ちた闇の空間の果てに見えてきた光は、その先にある超銀河団に過ぎないだろう。
では、宇宙の果てを目指して進む本当の思考実験をした場合、地球を起点に任意の方向にひたすら進んでいくと、やがて宇宙の果てに行きつくかというと、現実にはいつの間にか再び出発点の地球に戻ってきてしまう。宇宙の形を、私たちは膨張する風船かシャボン玉のように考えがちだが、時空は複雑に歪んでおり、この宇宙には中心も周縁もない。あるいは宇宙のあらゆる場所が宇宙の中心だともいえる。だから、私たちはどうあがいても、宇宙の外に出ることはできないのだ。

既存のマルチバース論
では、その宇宙の外には何が「ある」のか? あるいは宇宙の外はどうなっているのか? 宇宙は特異点を通して無から始まり、インフレーション、ビッグバンを経て、今日も膨張を続けているといわれる。そして、およそ10の100乗年後に終わりを迎え無に帰するともいわれる。
そして、今日、いくつかのマルチバース論が提唱されている。例えば、宇宙は洗濯の泡のように無数の泡宇宙からなっており、それぞれの宇宙はワームホールやブラックホールでつながっているとか、特異点の前には別の宇宙の終焉があり、その宇宙が特異点で反転して新たなインフレーションを起こして次の宇宙を誕生させるとか、あるいは時間の流れの瞬間ごとに無数の宇宙に枝分かれしていくというパラレルワールド等々。それらのマルチバース論はどれも未だ仮説の域を出ず、その存在が実証されたわけでもない。
しかし、それらのマルチバースがもし存在するならば、将来その仮説が否定しようもない確かな理論として確立されて、その発生と消滅のメカニズムが解き明かされることだろう。あるいは、ワームホールなり特異点を通して、人間が行き来しないまでも、他の宇宙とのなんらかの情報の交換がなされてその存在が実証的に証明されることだろう。

絶対不可知のマルチバース
だが私は、それらのマルチバース論とは違う、たとえその発生・消滅のメカニズムが解明され、われわれの宇宙は何も特別な存在ではなく、ある条件さえ整えばいくらでも発生しうるものであることが理論的に明らかにされ、無数の宇宙の存在が推測されるとしても、それらの宇宙は純粋に無から生じて無に帰するため、宇宙同士は絶対的無関係にあって他の宇宙の存在を実証的に明らかにすることは絶対不可能な、そんなマルチバースを考えている。私は宇宙論の素人ではあるが、専門家が主張する上述したような様々なマルチバース論のいずれも仮説の域を出ない以上、このようなマルチバースを主張する〝権利〟はあるのではないだろうか?

絶対的無限(開いた無限)と相対的無限(閉じた無限)
宇宙は無から生じて無に帰する。では、宇宙の外側は「無」なのだろうか? 宇宙は無の中に存在しているのだろうか? しかし、無とは何もないのだから、その中に何かが存在することは論理矛盾だ。恐らく、宇宙は特異点を通して無から発生した瞬間、無限の有へと相転移すると考えられる。そして、宇宙がその寿命を終えると、再び特異点を通して無へと相転移する。つまり、宇宙は常に無限なのだ。だが、われわれの宇宙は特異点からインフレーション、ビッグバンを経て常に膨張してきた。つまり一定の大きさを持ってきた。それが無限というのは矛盾する。しかし、無限を絶対的無限(開いた無限)と相対的無限(閉じた無限)に分けて考えれば、その矛盾は解決する。絶対的無限(開いた無限)とは、喩えていえば、最初に述べた素朴な宇宙論ではないが、どこまで進んでも果てのない文字通りの無限だ。それに対して相対的無限(閉じた無限)とは、地球の上空をまっすぐに飛行すると出発点に戻ってきて永遠に回り続けるように、上述したごとくこの宇宙の果てを目指してまっすぐ移動し続けると地球に戻ってきていつまでも飛び続けるような無限のことだ。したがって、宇宙空間は常に無限なので、中心も周縁もなく、ましてや外側など存在しえない。
このような絶対不可知のマルチバースはSF的には最も味気なく、宇宙論の観点からもつまらないかもしれないが、幸いにも他のマルチバースが抱えるアポリアを解決してくれる。そのアポリアとは、ユニバースには最初と終わりがあることが今日、常識となっているものの、では、マルチバースの過去ないし未来をたどると、どこかに始まりや終わりがあるのか、あるいは始まりも終わりもなく永遠に続くのかという問題だ。後者の場合、ではそもそも〝永遠〟とは何なのか?
絶対不可知のマルチバースを前提にすると、それぞれの宇宙は絶対無関係に存在するので、たとえば、われわれの宇宙の前に他の宇宙が存在したのかとか、われわれの宇宙が消滅した後にも他の宇宙が発生するのか、さらにはわれわれの宇宙に最も近い宇宙はどんな宇宙か等々の疑問自体が意味をなさなくなる。なぜなら、「いつ」とか「どこ」という疑問符は時空を前提として初めて意味を持つものだからであり、「無」によって隔てられ相転移した諸宇宙間には前後も遠近もなければいかなる関係性も存在しないからだ。絶対無関係とはそういうことだ。だからこそ、そんな絶対無関係に存在する無数のマルチバースは理論的には証明できても、実証的に存在を証明することは絶対に不可能なのだ。

身の程知らずな宇宙創造の試み
IMG_3359.JPG最近読んだ本『ユニバース2.0-実験室で宇宙を創造する』(ジーヤ・メラリ著、青木薫訳、文藝春秋、2019年)は、上述した泡宇宙をはじめとする一般的なマルチバースを前提に、われわれ人類が宇宙を創造することを本気で論じている。ただ単に論じるだけでなく、実際にスイスのSERNのLHCでミニ宇宙がつくられるかもしれないというのだ。そして、この本では理論的な実現可能性を論じるとともに、人類が宇宙の創造者になることに関する倫理的あるいは神学的意味や妥当性が論じられている。
私は、上述したような昔の寝物語の中で、われわれの宇宙が外部の超高度な文明を持つ知的生命体(それを「神」と呼んでもいい)によってつくり出された存在であることを想像してみたことがある。「神」は実験室で実験装置の中のわれわれの宇宙を観察しているのである。また、それとは逆に、将来、われわれが宇宙の創造主になることも想像したことがある。なんと、そんな素人考えと同じことを、本気で考え、考えるのみならず実行しようとしている宇宙物理学者らが存在するのだ。
だがしかし、この本の読後感は、私にとってあまり後味のいいものではなかった。私自身が上述したようにそのようなマルチバースでなく、絶対不可知のマルチバース(何者かによる創造が不可能な)を考えていることもあるが、それ以前に、もしそんな簡単に宇宙をつくることが可能なら、人類の文明とは比較にならないほどの超文明社会を築いているだろうこの宇宙にあまた存在するに違いない宇宙人たちが、とっくの昔にいくつもの宇宙をつくっているだろうし、そんな超文明社会には足許にも及ばない猿に毛が生えた(抜けた?)程度の愚かで野蛮な人類に、そんな大それたことをする資格も能力もないだろうという気持ちが先立ったからだ。核分裂も核融合も満足に制御できないような人類が、間違ってもそんな大それたことに手を出すべきではないという倫理観もある。
まあ、それも私のマルチバース論が正しければ、そんな努力はすべて徒労に終わるだろうから放っておけばいいのだが、LHCでの実験でミニ宇宙をつくる構想は、ミニブラックホールをつくる実験の延長上にあるということなので、10年前に危惧されたような破滅的な事故の心配は否定できない。そういう意味で、愚かで野蛮な人類は、「神の領域」を犯すような振る舞いには徹底して禁欲的であるべきだと、私は考える。

とまれ、無とは何か?そして絶対不可知のマルチバースとは……などと寝床の中であれこれ思い巡らせていると、私はいつもじきに夢の世界へと誘われていくのだ。


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[社説]「最高賃金」法制化、実践的検討をする時がきた(京郷新聞) [etc.]

社会最大の懸案である不平等解消のために、最高賃金の一部を最低賃金と連動して制限しようという総選挙の公約が出てきた。正義党が出した「最高賃金制」公約がそれであり、賃金最高額を国会議員は最低賃金の5倍、公共機関は7倍、民間企業は30倍までに制限する内容である。地方自治体レベルですでに関連条例をつくって実施するところもあるだけに、社会全体が真剣に議論する時期にきていると思う。
正義党は去る29日、「常識外の賃金不平等が固定化している社会では、国民経済のバランスの取れた成長も社会統合も保障できない。最高賃金制を導入してますます深刻化する所得不平等を改善すべきであるという国民の要求に答える」と、最高賃金制導入の趣旨を明らかにした。併せて外部の人間で構成される国会議員報酬算定委員会を構成することも明らかにした。
最高賃金法は別名「太った猫法」とも呼ばれる。本来、腹いっぱいの資本家を指していた「太った猫」は、2008年の金融危機を経て貪欲な資本家と企業家を批判する言葉として使われた。以後、フランスは公共企業の年俸最高額が最低年俸の20倍を越えることができないようにする法案を、スイスは企業経営陣の報酬を株主が決定するようにする住民発議案を可決する等、各国は両極化にブレーキをかける策を整備している。国内ではシム・サンジョン正義党常任代表が2016年の国会で初期最高賃金法を提出した。法人等が所属役員や労働者に最低賃金額の30倍以上を支払えないようにし、課徴金等によって社会連帯基金をつくって、最低賃金者、非正規労働者支援等に使おうという内容である。この法案は国会での議論には上らなかった。しかし、釜山市が昨年、傘下の公共機関の役員の最高賃金を最低賃金の6~7倍に制限する条例案を通過させたのを筆頭に、計11の地方自治体で議案提出および制定(制定6、議案提出5)され議論に火がついている。
韓国の上下位10%の賃金格差は4.3倍(2018年)で、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちアメリカに次いで2番目に高い。世界的な経済学者らは韓国の労働市場両極化が政治、社会の信頼を損ねて経済活力を低下しうると警告している。シム・サンジョン代表は法案提出時に、「国会で最初の交渉団体代表演説で3党代表がともに不平等解消を第1の課題に選んだ。それにもかかわらず、実践はいつも言葉に及び得なかった」と述べた。今や実践する時がきた。

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「テセウスの船」田村心の努力はすべてムダ骨?-タイムスリップとパラレルワールド [etc.]

祖父殺しのパラドックスとワームホール
1月の新ドラマで竹内涼真主演のTBS日曜劇場「テセウスの船」が始まった。父の冤罪を晴らそうと事件現場の小学校を訪れた主人公・田村心が、事件のあった31年前にタイムスリップし、真犯人を突き止め惨劇を止めようと奮闘する物語だ。あまり期待をせずに初回を見たら、思っていたよりずっと面白かったので、2回目以降も見ることにした。
実は、私はこういう現実にあり得ない設定のドラマはあまり好きでない。その典型例が、ふたりの記憶が入れ替わるというやつだ。解離性同一性障害などで何人もの人格を持つ人物などはありうるが、他人になりきり、かつその相手と人格が互いに入れ替わるなどということは絶対にあり得ない。まあ、それでも物語としてリアリティーを感じさせ、面白ければそれでいいのだが、どうも嘘くささが先立ってしまってドラマに入り込めない。
同様に、過去へのタイムスリップとかタイムトラベルも、一般にあり得ないこととされている。よくその証明として語られるのは、「テセウスのパラドックス」ならぬ「祖父殺しのパラドックス」だ。別に祖父でなくてもよく、要するに、自分が生まれる以前にタイムスリップして自分の親を殺してしまったら、自分は生まれてこないことになる。その生まれなかった自分が親を殺すことはできない-という理屈だ。また、もし未来にタイムマシンが発明され過去へのタイムトラベルが可能になったら、未来から現代に来た人がたくさんいるはずなのに、そのような人はひとりもいない、ということも過去へのタイムスリップが不可能な論拠としてよくいわれる。例えば、世間から脚光を浴びたいと思う人が未来からやって来て百発百中の予言者になることができるだろうが、現実に予言者と称する人の予言的中率は全くたいしたことがない。さらに、競馬好きの人間が過去に行って大金持ちになることも可能なはずだが、そんな人も見たことがない。
しかし、一方でアインシュタインはワームホールを利用して過去に行ける可能性を示した。現在まで、ワームホール自体が発見されていないので、これはあくまで仮定の仮定の話に過ぎないのだが、もしそれが可能ならば、上述したパラドックスはどう解決されるのか?

パラレルワールドが矛盾を解決する
私はこの矛盾を解くひとつの仮説を提示することができる。それは、過去へのタイムトラベルないしタイムスリップは可能だが、ある特定の過去に辿り着いた瞬間、パラレルワールド(平行宇宙)へ移行してしまうということだ。そう仮定すれば、上述した問題はすべて解決することができる。
まず、親殺しのパラドックスについては、私が行った過去は私の来た世界とは微妙にずれた異世界なので、たとえ私が親を殺し、私が生まれなくても、その世界では私が生まれない宇宙であるだけだ。そして、親を殺した私はその世界の私ではなく、異世界からの闖入者、正体不明の不審者に過ぎない。また、未来から来た「予言者」が、ことごとく重大事件を予言することができないのも、その世界は元いた世界とは微妙に異なるので、当然のこと。それでもたまに予言を的中させて世間を驚かせることはできるだろう。同様に、競馬好きのギャンブラーも、もし元の世界でギャンブルに金を注ぎ込み借金まみれの生活をしていたのなら、この世界では大穴を当てて家を一軒くらい建てられるかもしれない。ただし、それも時間が経過してもと来た時間に達するまでのことで、それ以降も競馬を続ければたちまち負けが込むことになるので、その時点できっぱり競馬をやめるのが賢明だ。
あるいは、なかには幼少期の自分と対面したくて過去に行く人もいるかもしれない。例えば私が14歳の私に会いに行ったとする。そうすると、私の記憶には、14歳の時に未来から自分を訪ねてきた数十年後の私と対面した記憶があるはずなのに、私にはそんな記憶がない。もしそうした記憶があれば、私が14歳の私に会いに行く目的は、純粋に14歳の私に会いたいからではなく、私が14歳の時に未来から訪ねてきた私に会ったので、私も14歳の私に会いに行かねばならないという義務感からということになってしまうだろう。だが、この矛盾も平行宇宙の概念を導入すれば、一気に解決する。
では、平行宇宙へ迷い込んだ私は、元の宇宙に戻ることができるかといえば、時間が枝分かれして以降、ふたつの宇宙はけっして行き来することができなくなるので、もしタイムマシーンで元来た時代に戻ろうとすると、戻った瞬間、私は消失してしまうだろう。そうなりたくなかったら、遡った過去で、正体不明の不審者としてその後の人生を送る以外にない。一方、元来た世界で私はどうなっているかといえば、突如失踪して二度と現われることのない行方不明者になるのだ。

「テセウスの船」の結末は?
話を「テセウスの船」に当てはめてみるとどうなるか? 田村心が31年前の音臼村の小学校にタイムスリップした瞬間、彼は平行宇宙に迷い込んでしまった。だから、その後、相次いで起きる事件も、死んだ妻が残したスクラップブックの新聞記事とは微妙に異なって起きることになる。それは単に、田村心がそこに介在したからというだけの理由ではないわけだ。そして、彼がその後、どんなに一生懸命真犯人を突き止めようとして、時には危険を冒してまで行動し、その結果、最後の小学校での大量殺人事件を阻止したとしても、それはそこの世界での出来事にすぎず、彼が本来果たそうとした元来た世界での父の冤罪を晴らすことにはならないのだ。元来た世界では、凶悪犯罪は敢行され、彼の父は逮捕され、依然拘置所に収監されて死刑を待つ身のままだ。そのうえ、田村心自身も、二度と元来た世界には戻れず失踪者扱いされることになるので、生まれたばかりの子どもは両親のいない子どもとして育つことになってしまう。
そして、田村心自身は、めでたく凶悪犯罪が起こらず、父親も冤罪の汚名を着せられずにすんだ異世界で、正体不明の闖入者として年を重ねていく以外にない。
私はこの原作を読んでいないので、ラストがどのように描かれるのか知らないが、もし31年後に幸せな日常を送る家族として描かれるとしたら、そこに登場する30歳の田村心ならぬ佐野○○は、一歩間違えれば父が冤罪で逮捕されて死刑を待つ身になっていたという記憶など保持してはいない。彼は31年前に母親のお腹の中にいた子どもにほかならず、一方、異世界から来た田村心は61歳の初老の人物として、上述したようにその世界のどこかでひっそりと生きていることだろう。

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2020東京五輪ー近代オリンピック廃止の契機に [etc.]

輝いていた1964東京五輪
 当時小学生だった私には、1964年の東京オリンピックに関して、今も多くの記憶が残っている。日本は高度経済成長真っ盛りの時代で、その年の4月にOECDに加盟して先進国の仲間入りを果たしている。そして、開会直前に「夢の超特急」=東海道新幹線が開通した。オリンピック景気は経済に好循環をもたらし、池田内閣の「所得倍増計画」とも相まって、順調にGDPを伸ばしていった。
 私の住んでいた町も東京のベッドタウンとして急速に人口が増え、五輪翌年には市初のデパートが駅前にオープンした。それまで東京に行くと見かけた募金を求める傷痍軍人の姿はいつしか消え、高速道路があちこちに出現した。
 五輪見物自体は、姉が手に入れたウエイトリフティングの予選を母を含めて3人で代々木体育館に見に行っただけだったが、開会式からマラソン競技・閉会式に至るまで、家の白黒テレビで毎日観戦した。参加国は過去最多の94ヵ国で、独立間もないアフリカ諸国が大挙参加した。当時、私は社会科が大好きで世界中の国や首都や国旗をほとんどすべて暗記していたので、その面でも五輪への興味が尽きなかった。

近代五輪の矛盾が凝集された2020東京五輪
 1896年に始まった近代オリンピックは、「平和の祭典」と謳われるが、実際には常にその時々の国際政治に翻弄され、また、1936年のベルリン五輪のように政治利用されてきた。そうした中でも、1964年の東京五輪は、上述したようにかなり成功した例ということができるだろう。
 その後の1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナの武装勢力「黒い九月」によってイスラエル選手11人が殺害された。また、1980年のモスクワ五輪ではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国がボイコットし、次のロサンゼルス五輪ではその報復として東側諸国がボイコットした。
一方、その1984年のロス五輪当たりからオリンピックの商業主義化が進み、かつて「アマチュアスポーツの祭典」と呼ばれたオリンピックも1974年にプロ選手の参加が容認されて以降、この頃からプロ選手の参加が顕著になっていった。
 1964年の東京五輪もそうであったが、五輪を招致すると競技施設や選手村の建設を中心にゼネコンをはじめとした建設資本が潤い、さらにテレビの普及につれて莫大な放映権料をめぐる金の動きが活発化していった。さらに、選手にスポーツウエアや競技道具を提供するスポーツ関連産業、各国のマスコミ、観光産業等々、五輪を巡る莫大な金が動くようになった。
 一方、冷戦時代は東側諸国の選手らはメダルを取ると生涯年金が保障されるなどの優遇が受けられ、国家ぐるみでメダル獲得競争に邁進した。また、冷戦崩壊後はプロ選手の参加とも相まって、メダル争いが熾烈化し、そのためのドーピング問題も深刻化した。
 そうした近代五輪の矛盾が集約されたのが2020東京五輪といっても過言ではないだろう。招致を巡る電通を主体とした贈収賄疑惑、フクシマ・アンダーコントロールに「温暖で最適な気候」といった真っ赤な嘘のプレゼン、国立競技場デザイン問題やエンブレム問題、「安価でコンパクト」の謳い文句を反故にする3兆円とも言われる予算にマラソン・競歩札幌開催を含む広域化、ブラックボランティアに猛暑への無策、なにより「復興五輪」といいながら復興がなおざりにされ、原発事故や放射能汚染がこれを機になかったことにされかねない危惧等々、問題点をあげれば切りがない。

「平和の祭典」がはらむ矛盾の数々
 確かに五輪は、古代オリンピック以来、戦争を休戦してスポーツを競う「平和の祭典」としての意義はあったろうが、それは裏を返せばほんものの戦争をスポーツで代替するものに過ぎず、血は流されず殺人はなされないものの、スポーツ競技の本質は人間の闘争本能に根ざし、優劣を競い、勝者が賞賛されるものであった。そういった意味ではオリンピックは「平和」とはほど遠い、「疑似戦争」による戦争の代償行為といってもよい。
そして、近代五輪はそれを国家単位で競うため、ナショナリズムを必然的に伴う。「スポーツの祭典」は「スポーツによるナショナリズムの鼓舞」であり、「スポーツによるメダル獲得を競う国家競争」にほかならない。
それは、ソ連・東欧圏の社会主義体制の崩壊によって、いったん弱められたかに思われたが、西側資本主義一強体制のもと、商業主義とプロスポーツ化が一体化して、より過酷でグロテスクな競争を生むことになった。
少なくとも1964年東京五輪の頃までは、学校の部活の延長線上のはるか先に五輪出場やメダル獲得を夢見て、その夢を叶えることも不可能ではなかったが、今ではそれは夢の夢に過ぎない。アクロバット化した各競技は、子どもの頃から英才教育を施された一握りのエリートアスリートのみが挑戦権をうることのできる世界になっている。そのためにはすべてを犠牲にしたトレーニングと、ときには不正なドーピングが行われ、それが選手生命はおろか、選手の生命そのものも縮め、奪うことにもなりかねない。1988年ソウルオリンピックで陸上競技100m、200m、400mリレーの金メダリスト、フローレンス・ジョイナー選手が38歳で夭逝したのも、薬物の副作用が疑われた。
 現在では、4年に1度のオリンピック以外に、サッカーやラグビーのワールドカップ、世界陸上はじめ各競技のW杯にフィギアスケートのグランプリシリーズ……と、各競技ごとの国際大会が目白押しで、それは各国で放送されて高い視聴率をたたき出している。そうした娯楽が少なかった昔と違い、それらすべての競技を一堂に集めて「スポーツのデパート」を開催する必要性はもうないのではないのか?
 上でも触れたように、「平和の祭典」にメダル競争、国家競争はふさわしくない。特にそれは、オリンピックとともに開かれるパラリンピックについて特にいえるのではなかろうか? 「ナンバーワンよりオンリーワン」。それが障害者の真に輝ける姿なのではないのだろうか? ナンバーワン至上主義のメダル競争は、パラリンピックにかぎらず、「オリンピック精神」そのものに反するものだと思う。
 また、オリンピックは男女別に分かれて競われるが、LGBTの権利が叫ばれる現在、そうした男女区分は時代にそぐわないものになってきている。また、以前にも何度か性別確認検査によって失格とされメダルを剥奪された選手がいた。トランスセクシュアルやインターセックスの人にとって、これは残酷なシステムだ。

悪評のうちに幕を閉じるだろう2020東京五輪を五輪廃止の契機に
近代オリンピックは、良きにつけ悪しきにつけ、近現代資本主義の世界化と歩を合わせて進んできた。その資本主義自体が終焉期に突入しつつある今、近代オリンピックもその歴史的使命を終えようとしているのだ。これ以上、無理矢理それを続けようとすれば、利権まみれの汚職の温床となり、選手たちが各国のゼネコン、スポーツ産業、放送業界、観光業界、その他世界的独占企業スポンサーの食い物にされ、アクロバティックな超絶技巧に大衆が感動を強いられる「感動ポルノ」化さえ危惧される。娯楽としてのスポーツは、各種スポーツ単体で、そのスポーツのファンがいくらでも好きなだけ楽しめばいい。オリンピックだからといって、ふだん見向きもしない種目のにわかファンになっても、その選手らは本当に嬉しいだろうか? ルールさえろくに知らないファンらの声援が……。
 さらに2020東京五輪は、1936ベルリン五輪のように、ナショナリズムの鼓舞に政治利用される危惧さえある。組織委の旭日旗容認問題は、国家間、民族間の対立・紛争を惹起しかねない。
 そうでなくとも、2020東京五輪はすでに数々のケチがつき、マラソン・競歩は札幌へ避難したが、聖火リレーや合宿地での福島原発事故由来の高濃度放射能の検出、東京湾のトイレレベルの汚水の中で行われるトライアスロン、そしてなにより大会期間を通しての酷暑・猛暑による選手、観客、ボランティアらの熱中症の恐れ……と、場合によっては「史上最悪の五輪」の悪評とともに幕を閉じることになりかねない。
 だが、もしそうなれば、それを機に、「五輪不要論」「五輪廃止論」の国際世論が一気に吹き出すこともありうるだろう。それでもIOCが五輪を継続するなら、そのうち選手の方がそっぽを向くようになり、参加国もどんどん減っていくのではないだろうか?


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死後の世界はないが、「永遠の天国」はある? [etc.]

昨年、βエンドルフィンという言葉に出会って臨死体験に興味を覚え、立花隆『臨死体験』(文春文庫)を読んでみたりもした。この本の元となったNHKスペシャルが放送された1991年当時、私は韓国に在住していたので知らず、その後、本にまとめられたときもそれを知らずにいた。
立花隆はこの本で、取材で会った多くの臨死体験者の話を通して臨死体験そのものは疑っていないが、死後の世界があるのかどうかについては明確な考えを述べていない。
私自身は、元来が無神論者で唯物論者なので、臨死体験もβエンドルフィンをはじめとした脳内の鎮痛・多幸感をもたらす神経伝達物質の作用によるものと考えている。ただ、そうすると、立花も述べているように説明のつかない現象-例えば「幽体離脱」とか、何百キロ、何千キロも離れた場所に住む人の様子を見た(しかもその情景が客観的な状況と一致する)、というような-に説明がつかない。
だが、その点に関しては、私は「テレパシー」の存在を信じる。といっても、オカルト的な意味でのそれでなく、脳波(電磁波)の強力な作用が「テレパシー」だと思うのだ。いわゆる第六感というものも、恐らくそれに近いだろう。
私は子どもの頃、予知能力があった。年に1度くらいしか来ない親戚のおばさんが、ある朝突然「○○おばさんが来る」と予言すると本当に来たりした。また、学生時代に深刻な挫折体験をして引きこもり、死と向き合う毎日を送っていた頃、ある晩、800キロも離れた実家の姉から珍しく電話があり、「私とお母さんが昨夜、あなたの不吉な夢を見たのだが大丈夫か?」と心配してきたことがある。その時私は、無意識にテレパシーを発し、誰かに助けを求めていたのかもしれない。
もしかすると、言語を持たない動物同士は、テレパシーによって私たちが想像するよりはるかに豊富な情報交換や感情のやり取りをしているのかもしれない。私たち人類は、言語能力を獲得することによって、本来持っていた能力を失ってしまったのかもしれない。しかし、純粋無垢な子どもや、死に臨んだ人、精神的危機に直面した人などに、わずかに残されたその能力が一時的に強化されるとも考えられる。
それはさておき、昨年、いろいろ臨死体験について調べてみた結果、私も臨死体験の普遍性を疑わなくなった。実は、私の身近にも、昔、一酸化炭素中毒で死にかけたとき、臨死体験をした人がいる。人間は、どんな形にせよ、死を悟ったとき、その苦痛から逃れようとする本能に根ざして、鎮痛や多幸感を呼び起こす脳内神経伝達物質を通常の何十倍も一気にニューロンからシナプス間隙に放出する。その結果、眩しくはないが強烈な白い光の中を漂って得も言われぬ幸福感に浸ったり、真っ白な石が敷きつめられた清流のほとりに出たり、色とりどりの花が咲き乱れる坂道をひたすら登っていったりする光景に出会う。
しかし、臨死体験者はいうまでもなく死者ではなく、死直前からの生還者だ。だから、その先に何があるのかは、誰も知らない。ある人は死後の世界-天国や極楽-を信じ、そこから恐らく、その昔、宗教や信仰心も生まれたのだろう。一方、私がこの問題に対して出した結論は、「死後の世界はないが、永遠の天国はある」だ。
アインシュタインの一般相対性理論によると、例えばブラックホールに落ちていく宇宙船と、それを観察している人がいるとすると、宇宙船の中の人にとっては普通の感覚で時間が流れ、ブラックホールが近づくとどんどん速度を増して宇宙船は吸い寄せられていき、あっという間にブラックホールに飲み込まれてしまう。しかし、それを観測している人からすると、最初のうちどんどんブラックホールに向かって落ちていった宇宙船は途中からだんだん速度が遅くなり、ブラックホールに飲み込まれる直前になると、とうとう止まったように見え、いつまで経っても中に吸い込まれない。
人間の死に当たっては、喩えていえばこれと逆のことが起きているのではないだろうか? つまり、死を看取る家族や医者や看護師などにとっては、時間は時計通りに流れ、患者の死は一瞬の出来事、一通過点に過ぎない。しかし、死にゆく人にとっては、臨死体験の最終局面を経て、ついに「天国」へと至るのだ。それは、もしかすると、上述したような多幸感に包まれた情景の延長かもしれないし、その先の何かかもしれない。とにかく、死の直前、人は多幸感の頂点で「永遠の天国」に到達する。エクスタシーの絶頂で時間は止まり永遠と化す。死とともに時は止まるのだ。したがって、永遠は時間の停止と同義だ。(その「永遠」を「死後の世界」と思うかどうかは自由だが)
最近、量子重力論の第一人者であるカルロ・ロヴェリの著書『時間は存在しない』(NHK出版)を読んだ。それによると、私たちの世界にとって絶対的な存在条件と感じられる時間は、実はエントロピーの増大の結果に過ぎない。また、近代になって時計が時間の尺度として定着するようになるまでは、時間の流れは時と場所によって大きく異なっていた(日時計のように)。また、人は何かに熱中しているときはあっという間に時間が流れるが、苦痛に耐えているときは時間はゆっくりと流れる。要するに、この世、この宇宙に、「絶対的な時間」など存在しないのだ。
そうだとすれば、上述した人の死の瞬間における「永遠の天国」=時間の停止説も、あながち的外れな推論ではないような気がする。

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新元号不使用宣言ー新元号を書かない、言わない、使わない! [etc.]

今日、4月1日昼前に「新元号」が発表され、正午からアベシンゾウがそれに関して、得意のテレビジャックで記者会見を行うのだとか。この国以外で全く用をなさない前時代的な代物を巡って、(私はテレビがないからよく分からないが、)テレビではこの間、「平成最後のホニャララ」みたいな話で盛り上がっていたようだし、今日は恐らく、一日中「新元号フォーバー」でドンチャン騒ぎをやらかすのだろう。
私は天皇制否定の立場から、学生時代である1970年代から、原則的に元号を使用せず、西暦を用いてきた。しかし、役所や店頭で生年月日やその日の年月日の記入を求められるときなど、特に、何かの特典的なものを得ようとするときなど、ムダに相手との間に波風を立てまいとして、「明治・大正・昭和・平成」と印刷された箇所に○をして、受動的ではあれ元号を使用してきたことがあることを、正直に告白しなければならない。
しかし、今回の天皇の交代に伴う改元を機に、新元号の漢字が何になろうと、今後、生涯にわたって元号を、とりわけ新元号を一切、書かない、言わない、使わないことをここに宣言したいと思う。
元号はいうまでもなく天皇制の付随物だ。戦前は憲法に元号の規定があったが、戦後、法的根拠がなくなったものを、今日の日本会議につながる草の根極右勢力の運動の成果として、1979年に元号法が制定され法制化された。明治以来、天皇制が果たしてきた否定的役割はいうに及ばず、天皇=国王の存在は民主主義そのものに反すると私は思っている。戦前は現人神と神格化された天皇は、戦後、「人間宣言」でニンゲンに格下げされたが、マスコミは常に天皇や皇族に敬語を用いることでも分かるように、天皇・皇族は一般人より上の存在として、つまり「日本国民統合の象徴」として存在している。普通の人より上の人がいれば普通の人より下の人がいる。即ち、天皇制は差別構造に根ざした制度なのだ。そして、その天皇の在位期間に合わせて用いられるのが、不便なだけの元号というわけだ。
現天皇や次期天皇の人柄や思想がどうあれ、そのことは全く関係ない。アベやアベを支える極右ヘイト差別者集団が天皇制を熱狂的に支持し、元号にこだわるのも、現天皇や次期天皇個人への尊敬の念や崇拝ではなく、差別に根ざした天皇制という制度そのものへの執着にほかならない。
であればなおのこと、アベ「政権」によって決定される新元号など、の字が入ろうが入るまいが、使うことはできない。
新元号を書かない、言わない、使わない!

新元号不使用宣言

2019年4月1日


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広河隆一事件を考える―日本版#MeToo、ボスザル社会克服の契機に [etc.]

「週刊文春」が報じたフォトジャーナリストの広河隆一氏(以下敬称略)の性暴行、セクハラ事件に少なからぬショックを受けた。私は彼が30代後半にパレスチナに関わっていた頃から知っており、チェルノブイリを経て、福島にも積極的に関わってきた彼の主宰する「DAYS JAPAN」も、福島特集号を何度か購読してきた。今回被害が報じられたのはこの10年の7人ということだが、幼少期に形成された人格はそうたやすく変わるものではないので、彼も若い頃から同様の犯罪的行為に手を染めてきたことは容易に想像できる。被害女性の数は元祖#MeTooのハーヴェイ・ワインスタインを凌ぐかもしれないとすら考えてしまう。報道によると、被害女性が「DAYS JAPAN」編集部に辞める旨電話で伝えると、相手は事情を察した様子だったといい、また彼は、ささいなことで激高し、理不尽にスタッフを怒鳴りつけたり罵倒することがしばしばだったというから、編集部も広河のセクハラや性犯罪を知りつつ黙認していたことが窺われ、「DAYS JAPAN」全体の責任も問われよう。単に広河を社長から解任すれば済むという問題でもなかろう。
女性たちは広河を「神」のごとく崇めていたというが、この言葉ほどこの種の男を端的に示すものはない。神といえば慈悲深い全能の存在と肯定的に考えがちだが、それは神の一面であって、裏面では、逆鱗に触れれば天罰を下す無慈悲な絶対権力者が「神」だ。広河のような男は、どの世界ー政治的に右とか左とかも関係なくー一定数存在する。私はかつて労働運動に関わり、それも最左派の部分に関係を持ったことがあるが、その世界にも札付きの「女たらし」がいたし、私が所属した組合の委員長は酒の席で隣に女性組合員を侍らせてそのお尻を触るのが「趣味」だった。また、痴漢常習の組合員もいた。
広河のようにどんなに優れた写真家であり、立派な社会活動を行い、数々の賞を受賞してきてた存在でも、決してそれをもって免罪させるものではないし、むしろセクハラ・性暴行の一事をもって、それらの功績は無に帰するといっても過言ではない。その輝かしい功績も、被害女性らが彼によって陵辱され蹂躙された人生の重み・貴さに決して勝るものではない。このようなセクハラ・性暴行常習者は決して許される存在ではなく、社会的に抹殺されてしかるべき存在だと私は考える。
今から2年前にアベ同様に政治を私物化した朴槿恵大統領を退陣・逮捕に追いやった韓国では、今年初めに女性検察官の告発を機に#MeToo運動が各界で爆発的に広がったが、対する日本では#MeTooといえば伊藤詩織さんが突出した存在なのが実情だ。この広河事件を機に、遅ればせながら日本でも、各界に#MeTooの波が広がることを願わずにはいられない。
韓国は日本以上に儒教社会で男尊女卑の国だったが、昔から女性は「大和撫子」のように恭順な存在だったわけではない。しっかり自己主張し、自分の居場所をそれなりに確保してきた。私は、日本で#MeToo運動が広がるかどうかが、断崖絶壁にある今の日本を救えるかどうかの最後の鍵だと思っており、それが広がれば、今の政治に典型的なボスザル社会を真に民主的な社会へと再生していく可能性がまだ残されている、と微かな希望を抱いている。
生物学的に男であり、男性と性自認する私は、かつてもそのような性被害を受けた女性には単に寄り添う以上のことはできなかったし、今後も自ら積極的に何かをしていくことはできないが、マッチョな男性中心社会、ボスザル支配社会の終焉を望む気持ちは、他のどの男性よりも強いと自認している。

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テレビのない豊かな生活 [etc.]

昨年、テレビを捨てて(正確にはあるNPOに寄付して)から、生活が大きく変わった。
テレビを捨てたといっても、テレビ番組を全く見ないわけではない。ドラマを中心に、TVer等ネット媒体で後日大型モニターを通して試聴している。私の場合、ミステリーを中心に、ドラマは息抜き以外にも小説を書くためのヒントを得る手段でもあるので、それだけはやめられない。でも、それにしても、以前のように時間に縛られることなく、自分の見たい時間に見たい番組を見ることができるようになった。それも、録画などよけいなことをする必要もない。
そして、1日の視聴時間が半分近くに確実に減った。以前は、昼食時にながらで再放送のドラマを、ときには2時間も見ていた(数年前まではワイドショーを見たりもしていたが、アベ様ヨイショが横行するようになって以来、ばからしくなってとうにやめた)。また、食事の時間も、テレビの時間にいつのまにか合わせてするようになっていたのが、そうしたことに縛られることもなくなった。
さらに、夕食時も、早めのドラマがあればそれを見ていたのだが、たいていドラマは9時以降なので、食事をしながら、特に見たいわけでもないBSの旅番組とか、時には「世界の果てまでいってQ」とか「歌うま」みたいなバラエティーで時間を潰すこともあった。
そうしたムダな時間のつぶし方がすべてなくなった。だから、今ではワイドショーはもちろん、バラエティーのたぐいも全く見ない。報道番組も、テレ朝系のニュースを数時間遅れでたまに目にする程度だ。
おかげで、不愉快なアベシンゾウの顔を見せられ、声を聞かされる回数もめっきり減った。精神衛生上、とても好ましいことだ。
こうしてテレビと切れてみると、以前から見てはいなかったものの、弱者いじめをネタにしていじめを助長するような面白くもなんともないお笑いバラエティーや、スシ友コメンテーターが出てアベ様ヨイショしたり、芸能人の不倫や凶悪事件をあれこれ推測してほじくり返すワイドショー、さらには奥歯にものの挟まったようなじれったい報道番組等が、まるで別世界の出来事のように感じられ、それらから自由になった今の生活が豊かなものに感じられるのである。
さりとて、現実逃避をしているわけでない。必要な情報はリテラシーをもってネットから十分に得ている。
テレビは、古くから指摘されてきたように、一方向の媒体であるが故に、視聴者は100%受け身にさせられ、思考力を奪われる。そして、知らぬ間に、それによってすり込まれる世界観に染められていく。
昨年末の最高裁のNHK受信料合憲判決以来、受信料徴収率が上昇しているそうだ。これを機に、あなたもテレビのない生活に移行してみてはどうだろうか。
〈関連記事〉NHK受信料合憲判決ーテレビを捨てよう(途上国へ送ろう)!
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