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HPSとADHD-障害か気質か? [Anti-psychotropic drugs]

最近、HSP(Highli Sensitive Person)という言葉に出会った。一般に繊細・神経質・内向的といわれる人たちが持つ「気質」のことで、まさに私自身がそうだ。1996年にエレイン・N・アローンという学者が提唱した概念だというから、比較的最近できた言葉だ。詳しくは「HSP診断テスト」(hsptest.jp)を参照されたい。
私の年になると、自分がHSPに当てはまると分かってもさしたる感動はないが、その自分も、今から15年前に場面緘黙症という言葉に出会った時は大きな感動を受けた。幼い頃から心の片隅にわだかまり続けてきた疑念が一気に解消されたからだ。自身の孤立、孤独、生きづらさの原因が分かり、自分は決して特殊な存在ではなく、その概念で括られる「仲間」がいたことに安心と慰めを得られた。こうした体験は、たとえばある程度成長してから、自身がアスペルガー症候群であることを知った人の口からも聞いたことがある。
人の性格や気質、人格のこうしたカテゴライズそのものがナンセンスだという人もいるかもしれないが、「自分が何者か」を知ることを通して、自己とより正確に向き合い、自己解放の一助とできるなら、それは決して意味のないことではない。
HSPのいいところは、「障害」ではなく「気質」と定義していることだ。「障害」と概念づけることからは、→病気→治療の対象(→向精神薬の投薬)というベクトルが生じ、「障害」の克服こそが自己解放という方向づけが与えられ、自分を回り(社会)に合わせていこうとする発想しか生まれない。だが、「気質」と概念づければ、それは持って生まれた「個性」なのだから、いい面は伸ばし、ネガティブに捉えられがちな面もポジティブに活かす道を模索し、時には回り(社会)に合わせる方法を模索することも必要になるだろうが、もし仮にそのことに「障害」や生きづらさを感じたら、逆に回り(社会)に自分の「個性」を理解してもらい、回り(社会)の意識やシステムを変えていく解決法も探られなければならない。
LGBTもひと昔前までは「病気」「障害」とされ、「矯正」の対象とされていたが、今は持って生まれた「性的指向」や「性自認」と捉えられ、彼らの生きづらさを社会を変えることで解消する方向へ向かいつつあるのが世界の趨勢だ。
ADHD(Attention-deficit hyperactivity disorder)という「障害」がある。注意欠陥多動性障害と訳されており、21世紀に入って日本でも多くの子どもたちがこれに該当するとされ、医療の対象とされてきた。最近では「大人のADHD」が真面目に語られ、「発達障害」というより曖昧な概念とともに一人歩きして社会に認知されている。私はかねがね、ADHDに関しては1980年代以降、アメリカの製薬会社、精神医学界によってつくり出された「障害」であり、子どもたちが向精神薬によって医療の食い物にされていると批判してきたが、残念ながら日本でも、そうした事態はますます深刻なものになっている。昔なら、クラスに一人や二人はいた授業の妨げになる「ちょっと困った子」を、授業の生産性を妨げる因子として排除・矯正すべく、また向精神薬を投与することで製薬会社に巨額のマネーを生み出す「障害」として考え出されたのが、ADHDだ。
私は以前、「大人の発達障害」の会をやっている「広汎性発達障害」を自認する人物に会って話を聞いたことがあるが、その人自身は向精神薬の危険性をある程度認識しながらも薬をやめられずにおり、会のほとんどのメンバーも薬を飲んでいると言っていた。「障害」を克服し、回り(社会)に自分を合わせようとして、みな最も手っ取り早い手段として向精神薬に頼っているのが現状だ。
だが、私は今回、HSPという言葉に出会って思ったことがある。たとえばADHDもADHPと置き換えてみたらどうか? つまり、「注意欠陥多動性障害」ではなく「注意散漫多動性気質」だ。確かに、「診断テスト」で高得点するような「気質」の人々は子どもにも大人にも一定数おり、その「気質」の偏りがときに回りの社会と軋轢を生む。しかし、前述したように、「気質」であって病気でも「障害」でもないのなら、その人は必ずしも回り(社会)に合わせて生きて行く必要はないし、むしろ自分にあった仕事なり場所を見つけたり、それでも逃れられない生きづらさは、回り(社会)に変わってもらうしかない。
このことは、すべての「障害」についても言えることかもしれない。確かに私も罹ったことのあるパニック障害や強迫性障害のような「障害」のように、ある一定の「気質」を持った人が一定の環境下で発症する「病気」もあり、それは薬以外の方法で「治療」可能であり、「治る」ことができる。だが、多くの心身の「障害」は、先天的なものであれ、後天的なものであれ、「治すことのできない」その人の「個性」の一部になっている。生きづらさを人々にもたらす「障害」の多くは、その人自身にあるよりも、むしろ社会にこそあると言えよう。
「障害(者)」という言葉自体が、生産性を基準に社会がつくり出した概念と言ってもいいかもしれない。だったらやたらと人々に「障害(disorder)」というレッテルを貼るのをやめ、「そういう(あるカテゴライズされた)person」と捉えて、回りの意識と社会のシステムを変えることによって、彼らの生きづらさを軽減し、いろいろにカテゴライズされた人々が、一人も生きづらさを感じることなくともに生きていくことのできる世の中を目指したいものだ。

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クスリに生きる? 個性に生きる! [Anti-psychotropic drugs]

自分が飲んでいる向精神薬の薬害に気づいてちょうど6年。一度の断薬失敗経験を踏まえ、現在は最後まで残ったベンゾジアゼピンを数年計画で減薬中だ。この間、多くの薬害被害者や向精神薬服用者に接したり意見交換してきた。私のように向精神薬の薬害に苦しむ人をひとりでも救いたいという思いから、3年前に『のむな、危険!-抗うつ薬・睡眠薬・安定剤・抗精神病薬の罠』という本を出しもした。
ちょうどその頃、偶然知り合った30前後の若者が、パニック障害から向精神薬を服用するようになって間もないことを知り、自著を渡したものの、彼は「クスリが私を救ってくれた」と、私の言うことに聞く耳を持たず、ずいぶんと歯がゆい思いをしたこともあった。その後も、クスリについてツイートすると、反論のリプライをもらうことも少なくない。とくにそんなリプライをする人には、いわゆる「大人の発達障害」という人が少なからずいる。
正直、現在の私としては、自分が大切に思う身近な人でない限り、大人の場合、自分の飲んでいるクスリを含む向精神薬のことを十分勉強し、その危険性を十分認識したうえで服薬を選択するなら、それは自己責任自己決定権の問題であり、それをとやかく言うつもりはない。3年前のくだんの若者についていえば、当時、彼と同年代の薬害被害者の青年が「痛い目に遭えばいい」と突き放した言い方をし、私としては冷たいなと思ったものだが、今思えばそれこそ「知ったこっちゃない」。
ただ、現実には、かつての私のように、自分の飲んでいるクスリについてあまりに無知でその危険性を全く認識せずに、精神科医の言うがままに服薬している人が大多数であるという現実には、引き続き警鐘を鳴らしていかなければならないとは思う。もっとも、私が罠にはまった頃に比べれば、クスリに関する情報は数百倍もネットや書籍に溢れており、アクセスしようと思えばいつでも豊富な情報が得られるのだが……。(それについても、少しでも情報に触れる機会を増やすために、「お薬情報に医薬品添付文書情報の提供を求める運動」を実践し、人にも参加を呼びかけている。)
そして一方で、現在の精神医療のあり方やシステムの変革へ向けて、自分なりに微力を尽くしていかなければならないとも思う。

社会に自分を合わせて埋没させるか? 個性に合わせて社会との関係を築くか?
私の人生を振り返ってみれば、幼稚園という家族を出て初めて接した「社会」になじむことができず、場面緘黙症になり、学校社会での生きづらさは高校卒業まで続いた。高校のときには重度の強迫性障害にも苦しめられた。そのときには、病院に行って楽になりたいと思いつつも、誰にも打ち明けられずに苦しんだものだが、薬害を経験して、あの頃、もし病院へ行って大事な青春、ひいては人生を棒に振ることにならずによかったとつくづく思う。
私の生きづらさは大学に進学して一時期解消されたのだが、それは大学という「社会」に自分が溶け込めたからではなく、その中にたまたま学生運動という自分の居場所を見つけたことによる。そこで私は解放された自分の個性に出会うことができたのだ。
資本主義社会で生まれた義務教育制度を軸とする教育とは、子どもたちを社会に適合させるために剪定したり選別する過程にほかならないと私は思う。大部分の子どもたちはそれに適応してついていけるのだが、中には選別過程ではじかれたり、剪定が苦痛で悲鳴をあげる子どももいる。そういう子どもたちはやれ発達障害だ、情緒障害だ、知的障害だというレッテルを貼られて「特別支援学級」とかに送られる。そして、偏差値によって選別された子どもたちは、レベル分けされた高校、大学へ進み、イチゴに例えれば、やがて等級付けされたとちおとめとかさがほのかとかのブランドで市場に出され、一方、途中で落ちこぼれた子どもたちは「訳あり商品」としてセールでたたき売りされる。さらに、あらかじめはじかれてしまった子どもたちは、市場に出されることすらない。だから、なんとか少しでも高く売られる商品になろうと、子どもたちとその親は必死になり、レッテル貼りされた子どもたちとその親は、なんとかそのレッテルを剥がしてもらおうと必死になって、時にクスリの力を借りようとする。
私は、クスリの力こそ借りなかったけれど、そうした教育という見えない檻の中でもがき苦しみながら、振り落とされまいと必死に大学まで進んだが、そこで見つけた居場所は、考えてみればすでに半分以上、社会からはみ出した場所だった。それでも、そこで出会った仲間たちはその後、みんなそれなりにいい値段をつけることに成功して社会に出て行ったが、私はそこで、それ以上、社会に自分を合わせることをやめた。
大学を卒業して、私は大きな企業とか役所というような組織=社会に自己を埋没させる生き方ではなく、自分の個性に合った生き場所(小さな出版社や労働運動)を見つけて生きてきた。さらにそうした社会にもある種の違和感を覚えた私は、以降、フリーランスの仕事を選んで社会との距離感を保ちながら生きてきた。
そうした私も、結婚し子どもができ家庭を持ったとき、妻との軋轢が原因で自律神経失調症とパニック障害を発症するに至る。しかし、そこでも私は発症の原因が分かっていたので、対症療法としてクスリに頼ることがあっても、それを根本的に治すことができるのは精神療法・カウンセリングであろうと思ったため、わざわざカウンセラーのいる心療内科を紹介してもらったものの、そこで向精神薬の罠にはまることになってしまったのだった。それだけに、のちにその罠に気づいたときは、とても悔しい思いをした。その悔しさが、今、再度断薬に挑戦している私を支えている。
つまり、私は自分という個性に生きる道を選び、社会に自分を合わせるのではなく、自分に合った社会とのつながり方を模索することによって、自己をかろうじて保ってきた。
しかし、すべての人に私のような生き方が出来るわけでもなかろうし、すべての人がそういう選択をするわけではない。
むしろ、多くの人々が自分の個性を、時にはそれを殺してでも、自分を社会に合わせる生き方を選ぶ。あるいはそうせざるを得ない人生を送っている。そしてその中で生きづらさを覚え、ときにその生きづらさに耐えきれなくなってクスリに頼ることになる。
前述したように、大人の場合、精神医療なり向精神薬の本質を十分知ったうえでなら、そうした生き方も現実には認めざるを得ないだろう。ましてや、それでよしとする人に、私がとやかく言う筋合いは全くない。

放射能と共に生きる? 放射能を拒否して生きる!
こうしたことは、なにもクスリの問題に限ったことではない。例えば、3・11以降に私たちに否応なく降りかかってきた放射能社会とどう向き合うかといった問題も同じだ。本当はあのとき、国民的議論をへて、全国民が納得できる解決策を見つけ出すべきだったのだが、現実はそれとは全く逆に、真実を隠蔽し、「経済合理性」を優先する選択が強行されてきた。その中で、私自身は、自身の放射能への感受性の問題も含めて、自分は放射能と共存できないと結論を出し、放射能から遠ざかり、放射能を避ける生き方を積極的に追求してきたし、これからもそうした生き方をしていく。また、自分が大切と思う身近な人々にも、最大限、放射能から遠ざかるための支援をしている。
しかし、放射能に対する正確な知識を得たうえでなら、放射能と共に生きる生き方を選択した人、放射能と妥協しながら生きる生き方を選択した人に、(大人の場合)とやかく言うつもりは毛頭ない。もっとも、放射能に関する(正しい、正しくないの問題以前に)知識自体をほとんど持たずに日々放射能と共存・妥協した生活を送っている人々が大多数であるという嘆かわしい現実が横たわっているのも事実だが……。
つまるところ、究極的には人それぞれの人生観、生き方の問題にいきつく。その土俵の上に乗って、ああでもないこうでもないの議論を繰り広げることほど不毛なことはない。勝手にしやがれ。私は私の道を行く。あなたはあなたの道をどうぞ。最後はそれしかない。

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「医薬品添付文書情報URL記載」全国の薬剤師会は岡山方式を見習え! [Anti-psychotropic drugs]

今から2年以上前、岡山県に越して来て、初めて処方薬局の「お薬情報」に医薬品添付文書情報のURLが記載されているのを見て以来、「「医療用医薬品の添付文書情報」記載を求める運動」を行ってきた。(詳しくはhttp://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2014-08-18)この運動は多くの方に「いいね!」の共感をいただいたが、その後、実際に私の主張に同意いただき、迅速に対応して薬局の「お薬情報」に新たにURLの記載をしていただいたチェーン店があったことは、先日、本ブログでご報告した通りである。(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2016-10-31
それに力を得た私は、その直後、県の薬剤師会の事務局を訪れ、改めて以下のような会長宛の申入書を提出した。

申入書

一般社団法人岡山県薬剤師会
会長 赤澤昌樹殿

私は2000年に自律神経失調症から心療内科に通院するようになり、以来16年間、向精神薬と手が切れずにおります。現在はベンゾジアゼピンのリボトリール0.5mgを1日1剤まで減らしましたが、ご存知のようにベンゾジアゼピンは覚せい剤やコカインなどの麻薬並みの依存性があり、やめようとしても離脱症状が苦しくて止められません。
インターネットが発達した現在は、ネット上の情報を通して、自分が飲んでいる薬の成分や効能、副作用について容易にアクセスすることができます。もし今なら、私は向精神薬依存症になる前に、正しい情報と知識を得て、医師に言われるまま漫然と薬を飲み続けることなく、早々に通院をやめていたことでしょう。
なかでも、数年前に知った独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)の医薬品添付文書情報のページは有益です。このページを知ってから、私は処方薬を飲む前に、必ずその薬の成分、効能、副作用等を確認してから服用するようにしています。少しでも不安のある薬はできるだけ服用を避けるか、連用しないようにしています。
今から2年半ほど前、処方薬を受け取った○○薬局の「お薬情報」を見て、私はハッとさせられました。通り一遍の薬の効能や副作用の欄が極端に少ない代わりに、下段に独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)のホームページのURLが掲載され、「医薬品についての副作用等に関する情報はここで調べることができる」旨の記述がありました。
私は「これだ!」と思いました。もし私が最初に心療内科に行った時にこれを受け取っていたら、きっとこのURLにアクセスし、その結果、薬の服用をためらい、他の医療機関なり代替療法を探していたでしょう。薬剤師は本来、薬の重篤な副作用など、包み隠さず患者に告知する義務があると思いますが、薬局は薬を売るのが商売ですから、いたずらに患者の不安を煽るようなことばかりも言えません。それに、現在の日本の医療体制は、病医院・医師に薬局・薬剤師が従属するヒエラルキーになっていますから、薬剤師の権限も制約的にならざるを得ないことも理解できます。ですから、この医薬品の添付文書情報のURLの提供は、薬局として最低限、患者に対して果たすべき、情報公開義務だと私は考えます。
それ以来、私は新しい処方薬局へ行くたびに、医薬品添付文書情報の提供をお願いしてまいりましたが、話は聞いてもらえるものの、なかなか実行に移してもらえません。現在までのところ、◎◎薬局が私が行った時点ですでに情報提供を行なっており、△△薬局のみ、私の申し入れを真剣に受け止め、迅速に対応して、2、3週以内に情報提供を始めていただきました。これが唯一の成果です。
以前、岡山県薬剤師会を訪問して、口頭で事務局の方に申し入れたことはあるのですが、その後、何か変わったとは認められません。また、◎◎薬局の店長の話では「岡山県内の薬局では皆載せているのでは」とのことでしたが、そうでない薬局が多数あることは事実です。
そこで私は、県下のすべての処方薬局で、独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)のホームページのURLを「お薬情報」に掲載し、医薬品添付文書情報の提供を行うよう、県薬剤師会として申し合わせていただくよう要請するものであります。
さらに、私の申し入れに対する検討結果をお知らせいただくようお願い致します。
2016年11月○日
向精神薬被害情報
北野慶

その結果、後日電話にて、事務局より以下のような解答をいただいた。
安全管理委員会という部署で検討した結果、県下のすべての薬局に強制力をもって記載を求めることはできないが、従来もやってきたように研修などの機会を通して、今後も引き続き記載の意義を説明し、教育を強化していきたい。なお、県薬剤師会では、会で制作した「お薬手帳」にも、同様の記載を行っている。

お薬手帳.jpg

○○薬局発行の「お薬手帳」の副作用についてのページ。県発行の手帳に準拠しているとのこと。


私としては十分納得できる回答ではなかったが、薬剤師会としての誠意を感じられる内容であり、「お薬手帳」への記載をはじめ、いくつかの事実を知ることもできたので、今回の申し入れ行動は一定の成果があったと判断した。新たに判明した点は、数年前から県薬剤師会独自の取り組みとして、研修等を通して添付文書情報のURL告知の意義を教育してきており、私が最初にそれを見た○○薬局もそうした流れの中で取り組みをしていたと思われること。また、2年前の私の口頭での薬剤師会への申し入れに関しても、今回同様、内部で検討がなされたらしいこと。上述の◎◎薬局の取り組みは、もしかするとその成果かもしれないということ、等々である。
私は、今後もこの運動を続けていくつもりだが、他の地域にお住まいの皆さんも、この運動の趣旨に賛同いただければ、ぜひ、自分の通っている処方薬局へのはたらきかけを行っていただくと同時に、都道府県薬剤師会のお近くにお住まいの方には、一度、薬剤師会への申し入れも行ってほしいと思う。その際には、私の実践の成果や、岡山県薬剤師会の取り組みを実例として示されると、より効果的かと思われる。(すでに同様の取り組みを行っている薬剤師会はほかにもあるかもしれないが、少なくとも私が4年近く前まで住んでいた埼玉県では、全く行われていなかった。)
そして、もし本文を読まれた薬剤師の方がいらっしゃれば、あなたの薬局、所属薬剤師会へも、ぜひはたらきかけていただきたい。お願いします!


「「医療用医薬品の添付文書情報」記載を求める運動」の成果が出ました! [Anti-psychotropic drugs]

今から2年以上前にこのブログで「処方薬局の「お薬情報」に「医療用医薬品の添付文書情報」記載を求める運動を!」という記事を書き、多くの方から共感や賛同をいただきました。(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2014-08-18)私はその後も、新しい処方薬局へ行くたびに、この「ひとり運動」を実践してきましたが、どこも話は丁重に聞いてくれるものの、その後、私の意見を取り入れ、「お薬情報」に「医療用医薬品の添付文書情報」について記載してくれる薬局はありませんでした。唯一嬉しかったのは、ある薬局で薬をもらうとき、いつものように「お薬情報」の紙を見ながら要望を述べようとしたところ、すでに「医療用医薬品の添付文書情報」についての記載がURLとともに載っていたことがあったことです。薬局の主人に尋ねると、「岡山県の薬局では、どこでも載せていると思いますけど」と言うので、「いや、私の知る限り、ここで2件目です」という話になり、主人は「明日、用があって県の薬剤師会に行く予定なので、確かめてみましょう」ということになりました。
その薬局へはその後行っていないので、薬剤師会の方がどうなったかは分かりませんが、私の知る限り、状況は変わっていません。
そんな中、事情があって、いつも向精神薬をもらっていた薬局を別の薬局に変えたので、新しく行った薬局でいつものように申し入れをしようとしました。その薬局はチェーン店なので、薬剤師に、できれば本社の責任部署に話をしたいと言ったところ、薬局長という人が出てきて、「私から申し伝えましょう」と言うので、自分が薬害被害者で、現在も薬を完全に止められずにいること、もし16年前にこのような情報が提供されていれば、私は薬害に遭わずに済んだだろうこと、「医療用医薬品の添付文書情報」を提供することは処方薬局としての最低限の情報提供義務だというようなことを述べると、いたく納得した様子で、「さっそく担当部署に伝えましょう。その結果は必ずお伝えします。」という回答を得ました。
そして、その翌日さっそく薬局長から電話があり、「確かに本社の方に要望を伝え、自分からも善処を求めました。また連絡します」と言うので、「いえ、来月もまた薬局へうかがいますから、その時に聞かせていただければ結構です」と答えた次第でした。
そして今日、4週間ぶりに処方箋を持ってその薬局を訪ねると、薬局長は不在だったものの、別の薬剤師が新しい「お薬情報」を示したのでした。私は感激し、「薬局長さんにもぜひお礼を言っておいてください」と言って店を後にしました。

お薬情報.jpg

近いうちに、私は、今度は要望書を携えて、岡山市と岡山県の薬剤師会の責任者に面会を求め、正式な申し入れをしようと思っています。皆さんも、ぜひこの「ひとり運動」の輪を広げましょう!
ちなみに、この薬局は、岡山県に21店舗、広島県に2店舗、香川県に4店舗、兵庫県に1店舗、あわせて28店舗(うち4店舗は調剤専門)で調剤部門を開設しているザグザグ(ZAG ZAG)です。[http://www.zagzag.co.jp/



精神科、心療内科という言葉自体のいかがわしさ [Anti-psychotropic drugs]

病医院には看板に掲げる標榜科というものがある。以前は内科、外科、眼科、皮膚科など比較的単純だったが、2008年に法律が改正され、少し複雑になった。それによると、①上記のように単独で標榜できるもの、②内科、外科、歯科に以下の4つの属性を組み合わせて標榜するもの(1.臓器や身体の部位、2.対象とする患者の特性、3.診療方法、4.症状、疾患)、③ ①、②のいずれも可能なもの(精神科、アレルギー科、リウマチ科、小児科等々の場合)
②の1.は例えば胃腸外科、心臓内科等であり、2.は小児外科、女性内科等、3.は漢方内科、臓器移植外科等、4.は感染症内科、糖尿病内科等、といった具合だ。
いずれにしろ、②の「内科」「外科」という大きな括りの下の4つの属性はある程度合理的であり、大部分の標榜科はその名を見れば何を治療する医療機関かがおおよそ見当がつくだろう。
しかし、してみると、精神科心療内科だけは、②の4つの属性のいずれにも当てはまらないように思われる。そもそも精神とは何か? 心療とは何か? 精神という言葉は辞書に載っているが、心療という言葉は「心療内科」という複合語以外に、単独では意味さえなさない。そして、どちらも臓器でも身体の部位でもなければ、診療方法でも、症状でも疾患でもなく、ましてや患者の特性ではありえない。
「精神」とは「肉体」とか「物質」の反対語であり、「心療」の「心」も精神と同様で、実体のないものである。つまり、現代医療の対象ではないのではないか、という根本的疑念がわき起こる

精神分析学派と生物学的精神医学
ここで、精神医学あるいは精神医療の歴史を簡単に振り返ってみよう。
近代西洋医学が成立して以降も、「心の病」は一般的に理解不能なもの、治療困難なものとして、医療の対象というよりも、社会防衛治安維持の対象-つまり、何を考えているか、何をするか分からない危険な対象なので、社会から隔離して施設に収容する対象と捉えられてきた。明治時代の瘋癲病院、精神病院も、まさにそのようなものとして存在し、欧米先進国を中心に、第二次世界大戦後、患者の人権擁護の観点から精神科病棟の開放化が図られて以降も、日本だけは異常に多い精神科病床と異常に長い在院日数が今日に至るまで継続している。そして、その多くを占める統合失調症患者は、未だ「一生直らない病気」という神話のもとに、治す対象としてではなく、管理しやすいように拘束したり、おとなしくしておく目的のために薬を投与されている。医療従事者のみならず、社会一般の「精神障がい者」への差別と偏見がそうした人権侵害を許しているのだ。例えば、今年7月に起きた相模原事件では、容疑者が「精神障がい者」かどうかの検証もなしに、措置入院制度の強化が、あたかも事件の再発防止策であるかのように語られ、検討されている。あんな凶悪で異常な犯罪を起こすのは「精神障がい者」に違いないから、隔離・収容を強化しなければならないという偏見・差別が、アプリオリの前提となっているのだ。
一方、精神医学、精神医療の歴史には、これとは異なる流れ、つまりフロイトによって創始された精神分析に始まる精神療法、心理療法というアプローチが存在する。つまり、精神や心理、心のあり方を分析し、患者の傷ついたり偏ったり弱ったりした心の有り様を改善して、治していこうという方法論である。しかしこれは、病気の原因を特定し、対症療法であれ根本療法であれ、物理的にそれを治していこうという西洋医学の方法論とは根本的に異なり、むしろ文系の心理学の系譜に属する方法論だ。
アメリカを中心に、20世紀末まで、精神分析派の精神医学が一定の勢力を占め、日本でも戦前から精神分析以外にも、森田療法の神経症治療など、独自の精神療法も編み出され、影響力を持ってきた。
ところが、第二次大戦後、アメリカを起源として、精神疾患を「脳の病気」と捉え、身体疾患と同様に薬物療法中心にアプローチする生物学的精神医学が勢いを増し、今日、日本の精神医療も完全にこの生物学的精神医学が席巻している。
もちろん、精神疾患が脳の病気として病気の原因が特定され、その病因に対する、対症療法であれ根本療法であれ、有効な治療法が確立され、患者が完治するなら、なんら問題はない。ところが実際には、いかなる精神疾患も、未だその原因が特定されず、推定の域を出ていないにもかかわらず、何故か結論部分の薬物療法だけが絶対的治療手段を装って患者に施されている。その結果は、一時的な改善は見られても、中長期的にはむしろ症状が悪化し、様々な副作用を招来している。
もし精神医療が本当に「脳の病気」と確信を持って断定できるなら、精神科とか心療内科などという胡散臭い名称を捨て、はっきり脳内科を標榜すればいいだろうが、彼らにその自信は微塵もない。
一方の精神療法、心理療法はといえば、精神科に通院すると「精神療法費」が点数にカウントされるが、それは精神分析とか認知行動療法とか呼べるようなしろものでは全くなく、「どうでしたか?」と問い、「変わりありません」と答えれば、「じゃあ、今のお薬を続けましょう」、「ちょっと具合が悪いです」と言えば、「じゃあ、お薬を増やして様子を見ましょう」と、オウムでも答えられそうな「療法」で何千円も稼ぐという、医者にのみおいしい話に過ぎない。精神科医、心療内科医の大半は、きちんと精神療法を学んでもいないので、まともなカウンセリングができるはずもない。なかには、医師自ら、あるいは臨床心理士等を使ってカウンセリングを併用している医院もあるが、あくまで薬物療法が主であることに変わりはない。
精神医療を否定する人の中には、精神療法まで完全否定する人も少なくないが、私は自身の経験からも、精神療法の効果は認める。昨年、公認心理師法が成立し、「公認心理師」が国家資格となり、今後、公認心理師が心理検査、カウンセリング、心理療法などを行うようになる。理系の医学とは異なり、文系の心理学の系譜に属する。
公認心理師は、臨床心理士等の民間資格に代わるものだ。しかし、公認心理師法第42条2項には「公認心理師は、その業務を行うに当たって心理に関する支援を要する者に当該支援に係る主治の医師があるときは、その指示を受けなければならない。」とある。これは、精神科や心療内科に通院中の患者が、独立した公認心理師の機関を訪れた場合にも、精神科医や心療内科医の治療方針に背くことができないというとんでもない条項だ。また、現状では、精神科、心療内科に雇われて行う「医療行為」には保険が適用されるが、独立機関の場合は保険適用外となる可能性が高い。私はこの42条2項を撤廃すると同時に、鍼灸治療への保険適用のように、独立した機関でも保険適用が受けられるようにすべきだと思う。ただし、同意書を受ける医療機関は精神科、心療内科に限らず、内科等、広く認められるべきだ。
私は、「心の病」はこれから、(精神)医療から独立した公認心理師が支援していくべきだと思う。確かに、私の経験からいって、向精神薬の中にはパニック状態の患者に対症療法的に即効性を持って効く薬もあるので、頓服的に、例えばパニック状態の患者の沈静化、統合失調症の患者の急性期の症状の緩和などに用いることを全面的に否定しようとは思わない。あるいは、重篤な統合失調症患者や大うつ病患者などの診断に長けた小数の「精神科医」の存在は当面必要かもしれない。(大多数の精神科医や心療内科医は的確な診断が下せず、誤診が日常茶飯だ。)そうした医師も、全国の総合病院にひとりふたりずつは必要だろう。
だが、大部分の「心の病」を抱えた患者は、国家資格を持つ公認心理師法の心理検査、カウンセリング、心理療法などで十分回復が可能なはずだ。あるいは、不十分な面は漢方医や漢方薬局、栄養士などとの連携で解決していけばいい。
そして、医療の分野からは、精神科、心療内科といういかがわし名称の標榜科をなくすべきだ。精神医療の根本的解決法、最終目標は、精神医療という概念を医療の分野からなくすことだ。



誰のための医薬分業か? [Anti-psychotropic drugs]

厚労省や政府の規制改革会議で医薬分業のあり方が議論され、一方で「かかりつけ薬局」推進の方向性が打ち出されるかと思えば、他方で門前薬局の「門内薬局」への規制緩和が提言されるなど、不透明感を増している。
そもそも医薬分業とは何か? 日本では明治以来、病医院が薬も処方・調剤する習慣が長らく続き、戦後、法律的には医薬分業になったが、実質的にそれが実現したのは1990年代以降のことである。
医薬分業の起源は、中世ヨーロッパで王侯貴族がお抱え医者によって薬殺されるのを防ぐために考え出されたシステムだという。したがって、欧米では今日も医薬分業が一般的だ。
では、なぜ日本で医薬分業が本格的に推進されたかというと、病医院が薬も処方・調剤すると、利益を上げるために多剤大量処方に走りがちなので、それをなくすためだと説明された。しかし、処方薬局で薬をもらうような習慣ができて以来、多剤大量処方が減ったというデータはない。それどころか、国民の医療費支出は増すばかりだ。
原因のひとつは、厚労省(当時の厚生省)が医薬分業を推進する際に、医師会と薬剤師会双方を納得させるために、医師には処方せん料、薬剤師には調剤料のほかに加算料・管理料・調剤基本料などの報酬をつけたことだ。典型的な利益誘導で、その結果、利用者たる患者の側のメリットはといえば、総合病院などでの薬の待ち時間が減ったくらいで、その代わり病院の窓口で診察費等を支払った後、近くの薬局まで行ってそこでまた薬代を払うという面倒のみならず、あまり意識しないかもしれないが、患者負担額が確実に増えることになった。薬代は院外処方の方が院内処方よりも2.5倍もかかるのだ。目的とされた多剤大量処方が一向に減っていない以上、これでは医師・病医院と薬剤師・薬局にメリットがあるだけで、患者には百害あって一利なしだ。
そうはいっても、患者は薬局で、処方された薬の効能や副作用等の詳しい説明が聞けるし、処方に疑問や問題があれば医師に問い合わせてくれる等のメリットがあるではないかといわれるかもしれない。しかし、個人経営の小さな医院で医師が直接調剤までやっている所を除けば、院内処方でも薬剤師はおり、こうしたことはなにも院外処方でなくともできることであるばかりか、本来、薬剤師なら当然なさねばならない仕事のはずだ。また、門前薬局が常態化している現実では、経営主体こそ分離されているとはいえ、処方薬局は病医院から完全に独立しているわけではなく、持ちつ持たれつの関係で、実際には病医院に従属している。だから、よほどのことがない限り、ふつう薬剤師が医師にクレームをつけることは考えにくいのだ。
さらに、お薬手帳やお薬情報のようなシステムも、向精神薬の薬害被害に遭った私が10年以上も向精神薬の深刻な副作用についてだたの一度も薬剤師から説明を受けたことがなく知らずに過ごしたことからも明らかなように、お薬情報に書かれていることは薬効とそれほど深刻でない副次的な副作用にすぎないことが多く、薬剤師もそれ以上のことを患者に説明してはくれないのだ。

患者のための医薬分業の実現のためには
以上のような問題点を根本的に解決するには、医薬分業を前提にするなら、以下のような改革が欠かせない。
まず、医師、薬剤師双方に与えられたインセンティブ、すなわち処方せん料とか調剤基本料とかのムダな報酬をなくし、院内処方なみの薬剤費に戻すことである。そうすると、アリのごとく群がっていた門前薬局も自然と淘汰されるだろうが、それは町の薬局=今日ではチェーン店化されたドラッグストアが大部分だろうが=が「かかりつけ薬局」の役割を担うことになる。実際、ドイツなどは、ドラッグストアが処方薬を扱う体制になっているようだ。薬局も営利企業だから薬が売れなければ経営が成り立たない。そのことが処方専門薬局をして多剤大量処方のブレーキ役を果たさせない要因であっただろうが、ドラッグストアの一角に処方薬コーナーがあるような経営形態なら、処方薬はあくまで売上げの一部門に過ぎないから、より適正な服薬指導なり処方内容のチェックが可能になるだろう。
さらにより本質的には、病医院はスウェーデンのように公営化し、医師はみな公務員にすべきだと私は考えている。新自由主義は「民にできることは民に」を合い言葉に、本来公共性の強い部門までも民営化してきたが、民営化とは即ち営利追求第一主義である。しかし本来、医療こそもっとも営利から無縁なものでなければならない。なぜなら、人の命と健康を扱う仕事なのだから、営利企業ではそれがお金と天秤にかけられてしまう危険性が常につきまとうからだ。そのリスクをなくすためには、医師や病院が経営問題を考える必要のない立場に置かれなければならない。
病院を受診した人なら誰しも、待合室で待っている間に、製薬会社のセールスマンが患者の受診の合間に診察室に出入りする姿を見たことがあるだろう。製薬会社は他社との競合上、絶えず医師、病医院に自社の薬を売り込む使命がある。ましてや新薬が開発されれば、取引のある病医院に真っ先に使ってもらわなければならない。そのためには、様々な接待も行う。学会へのサポートどころか、製薬会社主催の「研究会」さえ日常的に行われている。大学病院を舞台にして新薬等の臨床試験が行われ、そこで医師に様々な手心を加えてもらう。こうして製薬会社と医師との癒着が起きる。
こうした悪弊を絶ちきるためにも、医師には国や自治体がそれ相応の身分と経済的地位を保障し、治療や研究に専念できるような体制にしなければならない。
また、医学部と薬学部の西洋医学中心主義を改め、漢方医学栄養医学など総合医学的なカリキュラムに再編することも急務だ。薬漬け医療を根本的に改めるには、まさにこの道しかない。

こうしたことは、国が常に弱者の方を向いた政策を立案・実行していれば自ずととりうる道であろうが、悲しいことにこの国が向いているのは常に強者=大企業であり絶大な権力や金力を持った者のほうである。医療についていえば、国・厚労省が真っ先に配慮するのは製薬業界、医師会、薬剤師会等であり、患者は最後に配慮されればまだましな方で、実際はないがしろにされている。これがこの国が近代国家成立以来、戦後も一貫してとってきた国民への態度であり、国民の側もそれに異議申し立てをするどころか、長いものには巻かれろとばかりに、黙々と服従してきた。とても民主国家とは呼べない。今の政権の極端なまでの国民蔑視、弱者切り捨ての問答無用ぶりは、なにも突然降って湧いた災難なのではなく、こうした歴史的経緯の必然的結末である。
医薬分業という欧米で普通に行われていることが、日本では似て非なるものに変質する原因もそこにある。それを反転させて患者の医療、ひいては国民のための政治にしていくためには、私たちひとり一人が現実と向き合い、おかしいことをおかしいとはっきりと口に出して言い、それを正すためにたたかう自立した市民になっていかなければならないのだ。
※関連項目:処方薬局の「お薬情報」に「医療用医薬品の添付文書情報」記載を求める運動を!



自律神経失調症に柴胡桂枝乾姜湯 [Anti-psychotropic drugs]

自律神経の弱い私は、元々夏が苦手だった。そのうえ、向精神薬、とくにベンゾジアゼピンを常用するようになって自律神経系を撹乱されて以来、夏はもちろん冬の寒さもしんどくなった。その上、私が精神医療ムラの罠にはまって以来、日本の夏はそれまで考えられなかったような猛暑に襲われることが多く、ますますしんどい思いをするようになった。
『のむな、危険!』でも述べたように、私は3年前の秋から半年ほど減断薬を試み失敗したが、その時通った漢方系の心療内科で処方されたのが柴胡桂枝乾姜湯だった。減断薬の離脱症状を緩和する目的で出されたのだ。秋といえば私の体調は春と並んで好調な時期なので、減断薬期間中は、後に離脱症状が顕著になる時期も含めて、柴胡桂枝乾姜湯が果たして効いているのかどうかを実感することはなかった。
また、断薬を諦め、再びSSRIとベンゾジアゼピンの服用を開始した後も、半年ほどは体調が元に戻らず辛い時期が続いた。とりわけその年の夏は希にみる猛暑となり、文字どおり青息吐息の状態だったので、かかりつけの心療内科で柴胡桂枝乾姜湯を処方してもらった。しかし、私の体調が減断薬前の状態に戻ったのは本格的な秋になってからだったので、その時も柴胡桂枝乾姜湯がどれほど効いているのか、正直実感はなかった。

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昨年は冷夏で天候不順が続いたお陰で、私は何とか夏を乗り切ることができた。しかし今年は、エルニーニョ現象で昨年同様の冷夏が予想されたにもかかわらず、梅雨明け以来のこの猛暑だ。私はたちまち体調を崩してしまった。2年前ほどのしんどさではないが、私は早朝にウォーキングを済ますと、日中は家に籠もって何とか暑さをやり過ごす毎日だ。
それでも当初、手に力が入らない、鈍い耳鳴りがする、頭が締め付けられるような感覚がある、胸に圧迫感がある等々、しんどい状態が続いた。そんな時、柴胡桂枝乾姜湯の飲み残しがあることを思い出し、少しでも症状が和らげばとの思いで飲んでみた。
驚いたことに、その日のうちに効果が現れた。翌日からは、猛暑以前の体調に戻った。私は正直、今まで神経に効くとされる漢方薬の効果をどこか侮っているところがあったのだが、今回、身をもってその認識の誤りを悟ることになった。
こんなことなら、今から15年前に心臓に異常を覚えて検査を受けたことをきっかけに、精神医療ムラの罠にかかることになる2、3年前から、毎年夏に限って自律神経失調気味になっていた時に、漢方薬局でも訪ねて柴胡桂枝乾姜湯を処方してもらっていれば、そもそも精神医療ムラの罠にはまることにはならなかっただろうにと、今さらながら悔やまれる。(実際、慢性的な胃腸炎になり、その頃漢方薬局を訪れ漢方薬を処方してもらったことはあったのだ。)
漢方薬に限らず、薬の効き方は人それぞれだ。私に効いたからといって、柴胡桂枝乾姜湯がすべての自律神経失調症の人に効くとは限らない。特に漢方薬の場合、同じ症状でも、その人の体質によって処方される薬が違ってくる。自己流に調べてネットで購入などという安直な方法は慎むべきだ。薬局、できれば漢方薬局に行って、詳しい症状や自身の体質を話し、自分に最も適した薬を出してもらうことをお勧めする。
そして、その薬が自分に合い、症状が緩和されることが実証されたら、薬局で買うのは高くつくので、できれば医者に行ってその薬の処方せんを書いてもらうのがいい。保険適用されるので格段に安く入手できるし、薬によっては市販薬より1包当たりの量も多く効き目が違う。
今現在、精神科や心療内科に通っている人の場合は、そこで処方せんを書いてもらえばいい。そして、症状が改善すれば、いっしょに服用している向精神薬を徐々に減らすことを考えるべきだ。
しかし、そうでない人は、かかりつけの内科医その他の医師に処方せんを書いてもらうこと。漢方医院があればベストだ。だが、間違っても精神科や心療内科へ行ってはいけない。それから、内科医等では、医師に症状を話すと、いっしょに安定剤睡眠薬、あるいは抗うつ薬などを処方しようとする医師がいるかもしれないが、それは断固として断ること医者はあくまで保険適用される処方薬を出させるために利用するにすぎない存在であることを忘れてはいけない。

*付言すると、私は断薬失敗後、それ以前に服用していたSSRIとベンゾジアゼピン系の薬剤の服用を再開したのだが、SSRIは断薬しても特に問題がなかったことから、体調が戻ってしばらくしてから、再び減断薬を試み、難なく完全断薬に成功した。だから、今飲んでいるのは、ベンゾジアゼピン系のリボトリール0.5mgだけだが、強力な依存性があり、激しい離脱症状を伴うこの薬をやめるのは容易ではない。特に私の場合、自律神経が元々弱い上にベンゾによりそれがいっそう撹乱されてしまったことに加え、季節の変化に敏感に反応し、体調がいいのは春と秋だけで、冬も厳寒になると厳しい。だから、こうした激烈な日本の気候の下で断薬するのは正直不可能に近いと思っている。将来的に、例えば同じ温帯にありながらも寒暖の差が少なく、日本でいえば年中春と秋しかないようなニュージーランドのような場所へ移住する機会を得たら、そこで2~3年の歳月をかけてゆっくり減断薬に挑戦してみようと思っている。もちろん、漢方やサプリ等、それをいっそう確実にサポートしてくれるあらゆる方法も併用しつつ。



Dr.倫太郎、陳腐な二重(多重)人格ドラマに堕して視聴率低迷 [Anti-psychotropic drugs]

このブログで何度も取り上げてきたDr.倫太郎の視聴率が低迷している。第4話まで13%台をキープしていたが、第5話以降10~12%台を行ったり来たり、この分では10%割れも考えられる。
先日、書店に行った折に、Dr.倫太郎の原案とされる『セラピューティック・ラブ』を探して目を通してみた。著者の清心海は元雑誌記者の精神科医ということで、文体は小説と言うよりも完全にルポルタージュ風、完成度は野暮な素人小説レベル。600ページ近くの大著なのでとても読む気になれず、パラパラとページをめくってすぐ閉じた。ベストセラー小説のドラマ化でも、ドラマのノベライズでもなく、「原案」というのが胡散臭い。恐らく企画段階で脚本の材料として提供されたものなのだろう。
目を通して最初に飛び込んできたのは、アメリカ帰りの日野倫太郎は薬物療法だけでなくカウンセリングも得意とする精神科医、という記述だった。ドラマとは設定が全く異なる。
ところでそのドラマ、当初の薬物療法を否定する精神分析学的(自己心理学)精神科医=倫太郎vs.生物学的精神医学の宮川主任教授の構図が、第4回に宮川教授が自分の患者を倫太郎に押しつけるあたりから変化し始め、最近は倫太郎と宮川の対立はほとんど描かれず、円能寺理事長や蓮見外科主任教授と倫太郎の関係が軸になっている。こうなると精神科の問題は脇に逸れ、ありふれた医療ものドラマと変わらない。
そして、前半たびたび登場した生物学的精神医学の実態描写が影を潜めると、物語の縦軸である倫太郎と夢乃の関係も、これまた陳腐な二重人格(多重人格)ドラマという馬脚が顕わになってきた。『ジキル博士とハイド氏』の昔から使い古されてきた題材で、私の記憶では20年ほど前にNHKで放送された「存在の深き眠り」が真っ先に思い出される。私はそのドラマを全部見たのではなく、確か再放送をしているのを1回だけ偶然見ただけなのだが、二重人格者の役を演じる大竹しのぶの迫真の演技が脳裡に深く焼き付いている。
前回、このブログでDr.倫太郎を論じた時、脚本の中園ミホについて「生物学的精神医学の代表として宮川教授を引き立てることで暗に薬物療法中心の現在の日本の精神医療を批判的に扱い、このドラマを「社会派ドラマ」仕立てにすることに成功した」と述べたが、それが成功したのはせいぜい第4回までで、次第に「社会派ドラマ」のメッキは剥がれ、上述したように二重人格(多重人格)ドラマという馬脚が顕わになった。そして、皮肉にもそれとともに視聴率も低下した。恐らく、日本の精神医療の実態を知らない一般視聴者にも、この手のドラマならもう見飽きた感が強いのだろう。反対に、生物学的精神医学vs.精神分析学的精神医学という対立軸に、視聴者が新鮮みを見出したからこそ、最初の頃の高視聴率につながったものとも思われる。
そうであるならば、制作陣は、残り2、3回のストーリーで視聴率を挽回させようと思ったら、それこそ医療ものドラマで見飽きた病院内の金と権力を巡る下らない争いは大幅にカットし、せめて倫太郎に「宮川先生! 薬で心の病気を治すことはできません。一時的に症状が改善することはあっても、長期服用を続けさせれば、患者さんは知らず知らずのうちにむしろ症状が悪化し、一生薬漬けの生活を送るか、薬の副作用で自殺に追い込まれるか、麻薬中毒患者のように廃人同様の生活を強いられることになるのですよ!」くらいの台詞をどこかに割り込ませることだ。できれば、そうさせられた患者の様子をワンカットでも挿入して。



「Dr.倫太郎」の診察を受けられるのはセレブな人だけ、という現実 [Anti-psychotropic drugs]

Dr.倫太郎について過去4回言及してきたが、大事なことをひとつ見落としていた。
それは、このドラマの原作(といっても放送開始の前月に無名作家による小説として出版されたので、このドラマのために書かれたオリジナルシナリオのようなもの)では、倫太郎が「アメリカ帰りでセレブ専門、メディアでも活躍の精神科医」という設定である点だ。確かに現役閣僚の主治医であったり、第1回ではテレビ出演、ベストセラーの著者といった側面も描かれていたが、脚本の中園ミホはこの「セレブ専門」というところを曖昧にして、逆に生物学的精神医学の代表として宮川教授を引き立てることで暗に薬物療法中心の現在の日本の精神医療を批判的に扱い、このドラマを「社会派ドラマ」仕立てにすることに成功したのだと思う。
seisinaki.jpgしかし、原作の「アメリカ帰りのセレブ専門」という設定は極めて重要だ。何故なら、倫太郎のような精神分析(自己心理学)による治療を行おうとしたら、日本では保険適用を受けられない。2010年の診療報酬改定でうつ病等への認知療法・認知行動療法が適用になったが、それも精神保健指定医による場合500点、それ以外の医師の場合420点を30分を超える診療を行った時にのみ与えられるに過ぎない。前回述べたように、「調子はどうですか?」「よく眠れていますか?」「気分の落ち込みはありませんか?」等の「診療」を行い、「では、お薬を出しておきましょうね」で5分以上診れば、「通院精神療法」として診療報酬が30分未満で330点、30分以上で400点稼げるのだから(しかも認知療法・認知行動療法を行った場合、「通院精神療法」の報酬もその中に含まれる)、30分以上かけて認知療法・認知行動療法を行うより(だいたい1万人以上いる日本の精神科医の中で、薬を出すこと以外に何かできる医者はどれだけいるのか?)、30分に5、6人の患者を診て薬を適当に出したほうがよっぽど稼げる(薬を出せば処方料、処方せん料で更に100点以上稼げる)。
したがって、認知療法でも認知行動療法でもない精神分析(自己心理学)で1人50分の診察を行おうとしたら、当然自費診療とならざるを得ない。そして、原作者の清心海(せいしんかい・ペンネーム)氏は「雑誌記者を経て精神科医(せいしんかい)に。現在は都内で自費診療のカウンセリング・オフィスを開業」とある。
私はさいたま市内の心療内科に通い始めた時、カウンセリングを希望したが、臨床心理士の資格があるのかどうかも疑わしいカウンセラーの名ばかりカウンセリングを4回ほど受けた後、薬のみの診療となった。しかし、全くよくならないので3年ほど後にネットで見つけた「精神分析」を謳う都内の精神科へ転院したが、「ちゃんとした精神分析を行うには10万円以上かかる」と言われて断念したことがある。その医師は、その時点で私が薬物依存・中毒になっていることを知っていただろうが、私が当時飲んでいた3種類の薬(抗うつ薬・抗不安薬・抗精神病薬)をやめるとしたらどの順番かと尋ねると、「抗精神病薬→抗不安薬→抗うつ薬」と答えただけで、その後も漫然と薬を出し続け、「では徐々にお薬を減らしていきましょう」などとはついに言わなかった。
私はそんな自身の服薬体験も述べた『のむな、危険-抗うつ薬・睡眠薬・安定剤・抗精神病薬の罠』で、向精神薬に頼らずに心の病の治療を行っている医療機関をいくつか紹介したが、心理療法であれ、栄養療法であれ、漢方療法であれ、基本的に保険は適用されないので、経済的に余裕のある人でないとなかなか行きづらい。中には、初診で6万円とかそれ以上かかるところもあると聞いた。
かくして、保険で間に合わそうという庶民は、薬を出すことしか知らない街中の精神科・心療内科クリニックへ今日も列をなして入っていくというわけだ。そして、その罠に気づいて薬をやめようとしても、上述したような代替医療を行う機関で高額な医療費を負担して比較的楽にやめるか、でなければ死ぬ苦しみを味わいながら自己流で断薬するしかない。
また、自費診療で精神療法を受けようとしても、上から目線で患者の心をコントロールするのでなく、倫太郎のように患者の心と向き合って患者と共感しながら治療していく精神科医に出会える確率が、果たしてどれだけあるだろうか? というか、そんな精神科医、この日本にいるだろうか?



Dr.倫太郎#4―宮川医師が演じた日本の精神科医の典型的“治療”の実態 [Anti-psychotropic drugs]

昨夜のDr.倫太郎も興味を惹く展開があった。
まず、冒頭直後の場面で、画像診断・薬物療法を得意とする宮川教授の患者(2年前に夫が亡くなってからうつ状態で、表舞台には出ていない元プリマドンナ)と以下のような会話がある。
三浦牧子 お薬きちんと飲んでるのに、めまいと吐き気がおさまりません。それに時々、膝が震えて止まらなくなるんです。
宮川 そうですか。(ディスプレイを見ている)
三浦 先生、ほら、今も膝震えてて。
宮川 分かりました。お薬増やしましょう。それでしばらく様子をみてください。はい、もうけっこうですよ。
その間、宮川が患者に背を向けて見つめているパソコン画面(電子カルテ)には次の2つの処方薬が映し出され、さらにもう1種の薬が追加される。
エスシタロプラムシュウ酸塩、デュロキセチン塩酸塩
前者は比較的新しい(日本では2011年承認)SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬・商品名レクサプロ)で、後者はSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬、日本で2010年承認・商品名サインバルタ)。ともに新型の抗うつ薬だ。同一系統の薬であり、2剤を併用するエビデンスはなく、むしろ医薬品添付文書には併用に注意が喚起されている。三浦が訴えためまいも吐き気(嘔吐)、膝の震え(振戦)もそれらの薬の副作用だ。

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なお、宮川が「お薬増やしましょう。」と言って追加したドンペリドンはドーパミン受容体拮抗薬で、制吐薬、消化管機能改善薬として処方される。宮川は吐き気止めとして出したのだろう。
ここでも意味がないばかりか副作用を引き起こす多剤処方が行われている。三浦の訴えた症状はセロトニン症候群として、本来なら医師は減剤・減量すべき症例のはずだ。なのに宮川はそうせず、単に副作用を薬で抑えるべく新たな薬剤を処方している。典型的な日本の精神科医のやり口だ。
しかし、抗うつ薬2剤しか出していないのは日本では大いにましなことで、たいていはこれに安定剤睡眠薬(ともに依存・中毒、離脱症状・禁断症状を引き起こすベンゾジアゼピン系薬剤)や抗精神病薬(本来統合失調症患者に用いる薬)がブレンドされる。こうなったら、早期治癒どころか症状はますます悪化し、下手をすれば一生薬漬けの生活を余儀なくされる。
ところで、ドラマで宮川は、三浦を扱いかねて、彼女を倫太郎に預けてしまう。ところが、彼のように患者に薬を出すことしか知らず、患者の心と向き合えない医者でも、冒頭の場面のような診察を行っただけで「通院精神療法」を行ったとして診療報酬が3,300円も支払われるのだ。

もうひとつ注目を惹いたのは、倫太郎が夢乃の「病気」を「解離性同一性障害」と推定したことだ。これは一般に多重人格と呼ばれる症状で、倫太郎が専門とする精神分析(自己心理学)の得意とする症例だろう。
内海聡医師によれば、解離性同一性障害も人格障害も障害ではなく単なる個性ということになるのかもしれないが、身近に解離性同一性障害と似た面をもつ境界性パーソナリティー障害の人を持ち、本人も周囲の人間も大いに苦しんだ経験のある私としては、そう簡単に割り切れる問題ではない。
私は「障害」を自身の経験を踏まえて次のように定義している。
障害とは、自身がそれによって苦しみ、それを克服することを望む状態である。
例えば、性同一性障害とは、自身の身体的な性と精神的な性が一致しないことによって苦しみ、何らかの解決を本人が望む状態のことであり、外科的手術を行うか否かにかかわらず、本人が自身の性のあり方に納得し、それを受け入れた瞬間、それは障害ではなくなり個性に転化する
そうである以上、障害(病気)の治療とは自身の強い希望と意志によって主体的に関わる医師との共同作業のようなものだ。心の病だけでなく、子どもやお年寄りの障害・病気も同様だ。本人の意志・意思に反して行われる治療は治療の名に値せず、時に拷問に等しい人権侵害になる。



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