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『極北のレクイエム』電子書籍版刊行に寄せて [Novel]

私の処女作『極北のレクイエム』が絶版状態になって久しいため、このたび電子書籍化することにした。
職業作家でない私は、小説を書くということは、常に〈自己総括〉作業であり、書くという作業(時に苦行でもある)を通してそれまでの自分を乗り越えてきた。とりわけこの作品は、学生時代の活動とその挫折から10年をかけて完成しえただけに、本の刊行によってようやく私は、それまで引きずってきた学生時代の負の遺産を清算して、未来へ向けての一歩を踏み出すことができたのであった。
それだけに、刊行当時はもちろん、その後数年間は、自著を読み返すたびに、私の関心はもっぱら主人公の島浩一郎をはじめとする登場人物の人間模様に向けられ、私がこの小説で扱った70年代の学生運動-内ゲバに象徴される60年代学生運動のネガティブな側面が全面開花した時代-そのものに向けられることは少なかった。
しかし、今回十数年ぶりにこの本を読み返してみて、さすがに四半世紀もたてば、作品は作者から独り立ちし、作者は全く客観的立場から作品を眺めることができることに気づかされた。そして、執筆当時にはあまり意識化できなかった作品の別の側面を強く認識させられることになった。
それは端的にいえば、島浩一郎が属したノンセクトラジカル(NR)の学生運動が、実は革マル派(作品では「マルクス派」)や中核派(同「中央派」)といったセクト主義から決して自由たり得なかったという強い認識であり、作品は一見、そうした時代背景のもと、それに翻弄される友情物語の体裁をとりつつも、当時私が思っていたように、島や山根や松浦、そして水野芙美らの人間的な真摯さとそれと裏返しの弱さ…といったところに物語を主導的に動かしていく力がはたらいていたのではなく、実は革マル派-中核派の党派政治の非和解的な殺人ゲームの大きなるつぼの中に彼らの全存在が投じられていたのだという、圧倒的な歴史認識であった。
であるが故に、今となっては私の手を離れた客体として存在するこの作品の読後感は、救いようのない絶望感であるとともに、70年代学生運動を規定づけて学生運動自体をなきものにしてしまった党派政治(革マル・中核に限らず)の内ゲバにいきつくセクト主義への憤怒の感情であった。
とまれ、『極北のレクイエム』は、60年代後半の(全共闘)運動に比べて圧倒的に語られることの少ない(無い)70年代学生運動のネガティブな面を、セクト主義から自由たり得なかったノンセクトラジカルの学生運動の側から描いた作品として、その文学史的価値が決して少なくないと、われながら思う次第である。

極北のレクイエム.jpg
http://p.booklog.jp/book/43151
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