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ダグラスの社会信用論(連載2) [Basic income]

攻撃される経済学
これは金融システムに対する強力な攻撃だけでなく、経済学者の根本仮定に対する攻撃でもあった。ダグラスは、経済がその商品の分配に関連して危機に至ったことを指摘した。ダグラスによって一つの主要な経済的論点が提起され、これは単純に学術的な論争だけではなかった。それは当時の政治的討議を支配し、一つの重要な大衆運動を出現させた。
今日でも多くの教科書の最初の部分で発見される古典経済学の中心仮定の一つは、人々が十分な商品を持つことは不可能であり、したがって経済学は希少資源に関する研究―だから本質的に「葛藤」に関する研究であるというものである。ダグラスはこの基礎的な仮定に疑問を呈し、豊かさの中の貧困現象を指摘した。現実には分配されなかった豊富な物資があり、そのうえ失業という形態の不公平に分配された余暇があった。もちろん葛藤が存在しているが、それは希少資源に起因するものではなかった。葛藤は「分配の失敗」に起因するものであって、生産の欠乏に起因するものではなかった。したがって、分配の問題を「雇用」という解決策によってアプローチすることは誤りであった。雇用の追求はピンぼけであり、より多くの生産によって分配問題を解決しようとする試みは、分配問題への回帰を不可避にする。
さらにダグラスは、こうした状況で私たちがより多くの電球や朝食用シリアルを必要とするかどうかという問題は、仕事を提供し所得を分配しなければならない必要性に関して副次的なことになったことを強調した。現在の経済生産能力、そして人々が実際に経済成長を望むのかどうかと、そうした成長の本質が何なのかに関する考慮はますます無視されていった。したがって、ダグラスは戦後不況の打開策として雇用にとらわれることを批判した。不況は雇用の欠如でなく、金融システムによって発生したものであった。ダグラスはさらに進んだ。雇用の追求は誤りであるだけでなく、技術の発展に照らしてみて危険な政策であった。人間は自身がつくり出した経済の奴隷になっていく危険に直面していた。果てしない投資に依存する経済が、発展していく技術と雇用の追求に結合すると、発展が加速化される時代になるであろうし、そこで人々は絶えず余剰的な存在になり、より向上した進歩を追求する過程で絶えず再雇用されなければならない状況が広がるであろう。その結果、過剰生産、輸出余剰、低品質商品、そして誰も実際に望まない商品が必然的にあふれかえるであろう。
こうした意味で、ダグラスは1920年代と1930年代にすでに過去50年間、私たちの時代の特徴であった爆発的な経済成長を予見した。経済成長は多くの恩恵をもたらしたが、同時に途方もない社会的・環境的対価を払わせ、大変な浪費を伴った。事実上「使い捨て社会」は約80年前にダグラスによって予言されていたのである!
希少性という問題に触れることによって、ダグラスは古典経済学の中心的信条に脅威を与えたが、しかし彼は経済崩壊の責任が金融にあると見ることによって、自身の時代の、そして私たちの時代の最も強力な体制に脅威を与えた。彼は精神異常者という非難から経済的反逆者という非難に至るまであらゆる非難を受けたが、自身の主張を曲げず、「システムは人間のためにつくられたものであり、人間がシステムのためにあるのではない」という意見を明確に表明した。
ところが、現代の金融システムは人に奉仕するしもべでなく、人を支配する独裁者であった。しかし最も大きなセンセーションを巻き起こしたのは、経済システムの全般的目的に関するダグラスの鋭利な洞察でなく、経済学者と―特に金融分野で―相対することのできる彼の能力であった。
恐慌は経済学を混沌に陥れた。なぜなら、古典経済学によれば、そうした大不況は起きえないものであった。企業に対する銀行融資が購買力欠乏を発生させたというダグラスの論理は、経済学のあの根本的な命題、すなわち「セイの法則」を完全に罵倒するものであった。「セイの法則」によれば、商品生産の過程は生産されたすべての商品を買うことのできる十分な購買力を自動的に分配するというものであった。ダグラスはそうではないと述べた。
ジョン・ケネス・ガルブレイスは言う。「ただ教育をまともに受けられなかった人々と…変人だけが違うことを信じる。すべての高名な経済学者は生産からいつでも生産されたものを買うに十分な購買力が流れ出てくることを知っている。」そして高名な経済学者はダグラスの購買力欠乏理論と彼のA+B理論を攻撃するために大挙介入した。
一般経済学者がダグラスの分析に対して繰り返しそれが実効性がないと批判したのは、経済全体を通して企業が相異なる発展段階にあるためであるというものであった。ある企業は投資を行い、ある企業は生産を行い、ある企業は幕を閉じる。そうして多様な局面が相互のバランスをとることになる。投資企業が生産活動開始以前に分配した賃金は、他の企業の必要に当然寄与する。すなわち、その企業は過去の投資金を回収するために、生産過程で労働者の所得として分配されるものよりさらに多くの価格を付けなければならない必要に直面する。ダグラスはこれこそが正確に自身の論理の核心であると述べた。すなわち、単にそうしたバランスを維持するためにも、新たな投資と成長が不可欠なものになったということである。一般経済学者が安定した力学を見たものに、ダグラスは不安定な力学を見た。両者の差異は金融システムに関するダグラスの洞察に起因した。今日、金融システムで大部分のお金は負債としてつくられ流通しており、この金融システムの上にすべての経済が構築されているという洞察のことである。
経済が負債を土台にしているために、いったん負債―お金を使う発展が始まると、その発展は瞬く間にダグラスが描写したような投資と「時間間隔」に依存しないわけにはいかない状況をつくり出す。ダグラスの分析は実際に非常に躍動的で正確な分析であるといえる。過去の生産物を買うために現在の賃金が必要であるという「時間間隔」概念は、今日の住宅ローン制度の中に典型的に内包されている。人々は数十年あるいはもしかしたら数世紀前に建築された住宅に対する価値を支払うために、自身の現在の所得を20年間も食いつぶさなければならないのである。
ダグラスが著述活動を行っている時、今私たちが見るような莫大な消費者負債は存在しなかった。貨幣供給に関連する負債の大部分は、企業負債や政府負債であった。消費者が―購買力欠乏のために―耐えることのできない物価に直面しているというダグラスの理論は、今日の経済を支配している数えきれないほど多くの形態の「購買のための借入れ」によって最も確実に証明されている。だが、ダグラスと彼の追従者にはそうした確実な証明がまだ与えられていなかった。しかし、ダグラスの理論を裏付ける多くの他の証拠が存在し、彼と彼の支持者は繰り返しその証拠を示した。
(続く)
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