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金のない社会を想像(創造)してみよう! [Post capitalism]

「地獄の沙汰も金次第」「時は金なり」「いつまでもあると思うな親と金」――金にまつわる諺や格言は古今東西少なくない。確かに、人類が人間になった時から、貨幣はモノを得る交換手段として社会に定着してきた。しかし、金なしには誰でも生活していけないようになったのは、資本主義社会になってからのことで、たかだかこの二百数十年間のことに過ぎない。それまでは、大多数の人々にとって、貨幣は補助的な役割しか果たさず、日々の生活は半自給自足的に営まれ、月に何度か立つ市では物々交換も普通に行われていた。また、国家権力が人民を収奪する手段としての税制も、日本では1873年の地租改正によって、初めて物納から税金への転換が図られた。
マルクスは、人と人との関係が物と物との関係として現れることを物象化といったが、資本主義社会でそれはもっぱら貨幣物神という形で現れる。つまり、本来人間は、自分たちが生き、健康に暮らし、幸福を追求するために物を生産してきたはずだが、金が自己目的化された倒錯した資本主義社会では、お金を生むことを目的に生産活動が営まれるようになった。そして、本来生産の目的であった人々の生活、健康、幸福は、生産ための手段に貶められてしまったのだ。
本来自動車は、人や物を速く、大量に、遠くまで運ぶ便利な乗り物として発明されたものだが、自動車産業は自動車の大量生産(フォードシステム)のために、自動車社会がもたらす負の側面――交通事故、大気汚染など――を犠牲にして発展してきた。自動車事故によって死亡した人の数は、第一次世界大戦の戦死者を優に上回っている。
よく、国際原子力マフィアの代弁人たちが原発の正当化のために、自動車や飛行機の利便性と事故という副産物の対比を持ち出すが、もちろん、原発事故がもたらす影響の範囲が自動車や飛行機のそれと比較にならないことは論を待たないとしても、より本質的にとらえた時、彼らの論理にも一理あるといわざるを得ない。原発が事故の危険性を孕む以上、許されてはならないのと同様に、自動車や飛行機も、人々の生活、健康、幸福を犠牲にしては、本来あってはならないはずのものなのだ。
3.11によって暴かれた「原子力ムラ」の実態は、私たちに金によって歪んだ日本社会の隠れた構造をまざまざと見せつけてくれた。なるほど資本主義は、正常的には経済整合性経済合理主義によって動かされるものではあるが、それは(日本に限らず)時として、特に政治と結びついた時、経済整合性、経済合理主義から外れた利権主義に侵され、金のためなら人々の生活、健康、幸福を犠牲にしてでも、一部の利権に群がる者たちの利己的利益を実現する不健全な構造へと容易に転化する。
こうした合理主義からの逸脱は、生産活動のあらゆる分野に普遍的に現れる。
人々の健康といえば、本来それを守るための医学でさえ、資本主義社会では金儲けが目的とされ、人々の健康はないがしろにされ、時として医学は人々の健康を損ねさえしている。どんどん新しい病名をつくりだして人々を病人に仕立てて一生薬漬けにし、あるいは生産活動に役立たないからといって本人の意思を無視して強制的に閉鎖病棟に閉じ込めて自由を奪うような精神医療はいうに及ばず、「早期発見、早期治療」「予防医療」のかけ声の下、国を挙げて人々に疾病への恐怖心を煽り立て、病院を受診させ、病人に仕立て、薬を大量に押しつけ、あるいは効果の疑わしい予防接種を受けさせるのが今日の医療の実態だ。その背後にあるものといえば、医師・病院、製薬会社、厚労省官僚からなる「医療ムラ」だ。
資本主義の発展と医学の進歩ともに、確かに人間の平均寿命は右肩上がりに伸びてきたが、実際はそれと引き換えに、平均して晩年の10年前後は「要介護」状態で送ることを余儀なくされている。そこに介護ビジネスが生まれ、老人の生活や健康、幸福とは無関係に金儲け主義がまかり通る。そしていざ臨終の間際になっても、「延命治療」によって本人の生前の意思とは関わりなく、強制的に生きさせられたうえに殺される。
私の子どもが小さい頃、テレビでカネボウ化粧品のCMを見て、「金儲け商品」と長いこと思い込んでいたが、カネボウ化粧品の商品だけでなく、この世のすべての商品は「金儲け商品」である。
かくのごとく、金というものが、社会にどれだけの害悪を与え、人々の心を歪ませ、倒錯させていることか? 殺人を筆頭とする犯罪のかなりの部分が、金をめぐって、あるいは金を目的になされている。日本だけで、毎日何十人という人々が、金のために自ら命を絶っている。金があるとないとでは、すべてにおいてスタート地点から異なる。「法の下の平等」はあっても、人々は金によって全き不平等を強いられている。
挙げ句の果てに資本主義は、人類が本来持っていた闘争本能や縄張り意識から発展した戦争をも金儲けの手段とした。アメリカをはじめとした巨大軍事産業は、金儲けのために不必要なばかりでなく、必然性のない戦争をも引き起こし、たくさんの人々の命を奪ってきた。
日本の場合、「ムラ社会」が人々から理性的、合理的、主体的に物事を考える力を奪っているため、人々の多くはこうした現実を不条理と疑うこともなく、アプリオリな現実として肯定的に受け入れている。3.11はごく一部の人々を覚醒させ、不条理に気づかせたが、むしろ大勢としては現状肯定派を増大させる結果をもたらしている。
お金第一主義の社会からはじかれたたくさんの人々が、路頭に迷い、ホームレスになり、ネットカフェ難民になり、マック難民になり、運よく生活保護を受けられても、今度はそのことでムラ社会からバッシングを受けた挙げ句に、貧困ビジネスの食い物にされる……
私は言いたい。若者よ、農村に行こう! そして、田を耕し、畑を起こし、自らの食を自ら得よ、と。幸いこの国には、農村部にはいくらでも耕す田畑が有り余っており、空き家もたくさんあるから、住む家も都会の十分の1くらいで買うなり借りることができる。考えてもみよう。暑さ寒さを防げぬ路上、窮屈なネットカフェ空間、マックの固い椅子、やっとありつけるコンビニ弁当や100円マックと、農村の澄んだ空気に広い土地、広すぎる居住空間、新鮮な野菜とご飯……のどちらが自然で人間的な生活を保障してくれるかを。
資本主義がその昔、農村の自給自足経済を破壊して、生活できなくなった農民を都市へと追いやって賃金労働者に仕立て賃金奴隷にしたのと逆の過程を、今こそ都市生活者たちは自ら主体的に行うべき時がきたのだ。
都会にいるから食えないのであって、田舎へ行けば仕事(農業)はいくらでもできる。そうすれば、自分たちが半自給自足生活ができるだけでなく、日本の食糧自給率を高めることにも貢献できる。それで困るのは、一部大資本とアメリカだけだ。
もちろん、そうすることによっても、完全自給自足生活はなかなか難しいだろう。私が3.11以前から支持しているベーシックインカムは、その溝を埋めるためにはうってつけのものだろう。ベーシックインカムが保障されれば、若者ならずとも、多くの人々が都市から農村への移住が容易になり、この国はポスト資本主義社会へ向けて再生が可能になるであろう。
しかし、その時を待っていることはできない。目覚めた志あるものたちが、先遣隊となって事をなせばいい。本当に金の呪縛から自由になるために。
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