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「取り戻すべき日本」とは何か?-『逝きし世の面影』を読んで [Post capitalism]

私は1980年代から「日本の伝統」「古きよき時代」という時の「伝統」や「時代」に対してずっと疑問を抱いてきた。それを声高に主張する人々の多くは、漠然と「戦前」をイメージして語っているようなのだが、ではそれはいつまで遡ってのことなのか? そして、杉浦日向子田中優子ら江戸時代の研究家によると、江戸時代の日本や首都・江戸の人々の有り様は明治以降の日本人とは大きく異なることを仄聞するにつけ、その疑問は深まっていった。
だとしたら、明治維新以降、敗戦までの「伝統」とは、敗戦後の今日までのタームとほとんど変わらぬ、日本の長い歴史に比べればほんの一時期に過ぎない、とても「伝統」とは呼べぬしろものではないのか。それをもし「伝統」と称すならば、戦後社会にもすでに誇るべき「伝統」が形成されているはずだ。
そう思うと、「日本を取り戻す」と威勢よく叫んでいる人々が恐らく取り戻そうと望んでいるだろう戦前の「伝統」など、彼らが否定しようと躍起になっている戦後の「伝統」に比べて、果たしてどれだけ理想化するに値するのか? そんな思いがますます強まってくる。

1年以上前にKindleで購入しながら、単行本で600ページという大著なため、多忙を言い訳についつい後回しにしてきた渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)をようやく読了した。
幕末、明治初期に日本を訪れ、そして短からぬ期間当地に滞在した外国人の遺した書物を通して描き出されたその時期の日本及び日本人は、著者が「滅びた文明」と呼ぶに値する、確かに今日の日本はもちろん、戦前の日本と比べても極めて異質さの際立つものだった。以下、著者自身の記述も含めて、彼らの記した幕末から明治初期の日本と日本人を垣間見てみよう。

幸福の国
十九世紀中葉 、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。
西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。
豊かな国
日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは 、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。
日本には 貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。
日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。
このようなゆたかで美しい農村を支えたものが、発達した農業生産であったのはいうまでもあるまい。
160743.jpg平等社会
金持は高ぶらず、貧乏人は卑下しない。 ……ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。
障害者は施設に収容されたり、専門家のケアの対象とならずに自力で生きてゆくことができた。
当時の文明は「精神障害者 」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人びとと混りあって生きてゆくことができたのである。
勤勉さと遊び心
日本の民衆はたしかに勤勉であったに相違ないが、そのことは、彼らが、アンベールのいうように働きたいときに働き休みたいときに休み、オールコックやブラックのいうように時間の価値を知らず、モースのいうように労働のうちに嬉戯することを、一向に妨げなかったのである。
自治と自由
民衆の共同団体に自治の領域が存在したということで、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されぬ性質を保有していた。
今日のわれわれが理解するような近代の市民的自由ではない。それは村や町の共同体の一員であることによって、あるいは身分ないし職業による社会的共同団体に所属することによって得られる自由なのだ。
職人気質
家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやりかたで行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
性と家
性について現実的でありすぎ享楽的でありすぎたといえぬこともない古き日本は、同時にまた、性についてことさらに意識的である必要のない、のどかな開放感のみち溢れる日本でもあったのだ 。
家制度とは女たちが、前半は辛苦をしのび後半は楽をするという生活サイクルを世代ごとに繰り返すシステムではなかったか。
子ども
私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。
江戸という都市
つまり江戸は、彼らの基準からすればあまりに自然に浸透されていて、都市であると同時に田園であるような不思議な存在だった。
自然との調和
日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう。
動物愛とヒューマニズム
彼らは馬に人間のため役立ってほしいと思っていたに違いないが、さりとて、そのために馬に何をしてもいいとは考えていなかた。彼らは馬にも幸せであってほしかったのだ。
徳川期の日本人にとって、馬、牛、鶏といった家畜は、たしかに人間のために役立つからこそ飼うに値したのだが、彼らが野性を捨てて人間と苦楽をともにしてくれることを思えば、あだやおろそかに扱ってはならぬ大事な人間の仲間だったのだ。
ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった 。
宗教観
この時代の日本人は死や災害を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった。
私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市である
ロシア正教日本大主教のニコライは、欧米のプロテスタント宣教師とは違って、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出していた。
なによりも痛切に覚知されているのは、現世を超えつつしかもそれと浸透しあう霊の世界の存在である。それとの年一度の接触は、宗教の枢軸ともいうべき救済をもたらす。
井の中の蛙
自国を世界の中に置けば粟粒のように小さいということは、劣等感を誘うことでも、逆にそれがどうしたと肩をそびやかすことでもなかった。それはひたすらおかしみを誘う事実だった。ここにはまぎれもなく、自己客観視にもとづくユーモアが香っている。

ここには私たちが学校で習った厳格な身分制度によって自由が束縛され、鎖国によって世界から取り残されたあの暗黒の封建時代のイメージはどこにもない。むしろ、当時日本を訪れた外国人は日本を「地上の楽園」とすら感じていたのだ。
私たちはそれらを読んで、意外に感じると同時に、どこかしら懐かしさを感じ、あるいはそれと同質なものを、例えば今のブータンなどに見出すことができるかもしれない。著者も述べているように、それらは日本固有の「文明」であったと同時に、その多くは近代化以前のヨーロッパ社会にも共通する社会と人々のありようでもあったのだ。
上述したような幕末・明治初期までの日本の「文明」は、すべて滅び去ったわけではなく、今日の私たちに受け継がれている面もあるにはあるが、明治政府はそうした「文明」を全否定し、脱亜入欧することで近代国家=資本主義社会を成立させていった。それはひと言で、欧米の模倣とその文化の移植によって成り立った社会だといってもいいだろう。そしてそうした近代化された社会は敗戦によって焼尽される日まで続いた。
それに対して、戦後社会=現代社会は徹底してアメリカナイズされた社会、民主主義の移植によって成立した社会だった。両者は一見相異なり、対立するかに見えるが、西洋文化の模倣・移植という点で相似形をなしている。つまり、借り物の文化なのた。
そうした近代・現代社会=資本主義社会がどん詰まりに至り、終焉を迎えんとしている現在、弁証法の正・反・合の法則に則り、私たちはここで描き出されている明治以前の前近代の日本社会にこそ、来たるべきポスト資本主義社会をイメージするのに多くのヒントを見出すことができるのではなかろうか? もちろん時代の針を逆回りさせることはできない。しかし、誤解を恐れずあえていえば、「取り戻すべき日本」とは、戦前期の近代社会にあるのではなく、そのひとつ前の江戸時代にこそあるのだといえよう。
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