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原発なき明日は集団自殺への道か、ポスト資本主義の未来か? [Post capitalism]

経団連の研究機関、「21世紀政策研究所」が2050年までの日本と世界50か国・地域の長期経済予測を発表、「四つのシナリオに基づいて日本経済の成長率や規模を試算したが、少子高齢化の本格化で日本は30年代以降にマイナス成長に転じ、効果的な成長戦略を実施しなければ先進国から脱落しかねないとの見通しを示した。」(読売)
世界的な資本主義の崩壊過程の中で、その最先端を行く日本資本主義の危機意識に裏付けられた彼らの本能的直感とでもいおうか。イノベーションが雇用を生み出さない資本主義の機能不全の中で、もはや資本主義世界システムそのものが立ちゆかないことは、多くの人々に自明の理となりつつある現在、それでも経団連の旧来型資本主義勢力は、完全に破綻した原子力エネルギーを強権的に維持し、そのことによって「成長」への見果てぬ夢を追い求めているが、反対に私たち脱原発の自立した市民は、「成長なき発展」のポスト資本主義システムを見据えた新しい社会システムを具体的に着手すべき段階に入りつつある
3.11は、多くの日本人に資本主義社会の本質的矛盾に気づかせてくれた一方で、資本主義システムに強く組み込まれている男性を中心とする正規雇用労働者層は、最も資本主義イデオロギーの洗脳から自由たりえない存在である。彼ら曰く、「将来的には脱原発だろうが、経済活動のためには当面原発は必要だ」云々。そうしている間にも、第2のフクシマが不幸にして発生すれば、経済どころか、、日本の社会生活そのものが破壊されし尽くしてしまうだろうに、だ。既成政治勢力が時代から2歩も3歩も取り残されてしまっているのも、彼らの多くが労使一体となったそうした旧勢力の利害を代表する男性たちであるからにほかならない。
資本主義の本質を3.11の目に見えぬ放射能の恐怖の中に感じ取った私たち脱原発の自立した市民は、「原発安全神話」はおろか、「経済成長神話」、さらには「労働絶対価値」神話からも自由になりつつある。その先に、おのずとポスト資本主義へと至る未来社会のあり方が見えてくるだろう。
反対に、「労働絶対価値観」に囚われ、未だ「経済成長神話」に呪縛され、そのためには「原発再稼働」が必要だと信じ込んでいる人々は、それを失えば「真っ暗な未来」しか見えず、待ち受けているのは「集団自殺」への道だけだろう。
(参考:『脱原発市民自治政府をつくろう!』

成長なきイノベーション [Post capitalism]

私の旧友が10年ほど前、自分はパソコンも携帯も持たないと粋がっていた。その実、彼は新しい時代の流れについていけないことを告白していたにすぎない。実際彼は、半世紀前には一家に一台も普及していなかった家電(いえでん)や、たかが四半世紀前には会社でさえリースで使っていたFAXは、何の疑問も持たずにちゃっかり所有していたのだから。
うちで3、4年前に買い換えた子機電話付FAXの子機が、2台とも壊れてしまったので、子機付き電話機を買うことにした。10年前には家で翻訳の仕事をするには欠かせないツールであったFAXも、ここ数年はほとんど使うことがなくなっていた。原稿はもちろん、仕事の依頼書や支払明細書のたぐいも、今ではほとんどPDFやWord添付のメールで送られてくる。ましてや、こちらからFAXを送る用件は全くといっていいほどない。家電は半世紀以上、一家に一台活躍してきたが、家FAXの寿命はわずか四半世紀であった。その家電もそろそろお役ご免の時代を迎えると読んでいる私は、とりあえず今は必要な新しい家電は、子機2台付きのものではいちばん安い品物をamazonに注文した。
たぶん数年以内には、携帯の料金がさらに下がり、スマートフォンの普及によりWi-Fi等の通信料金も下がって(反対に通信速度は光並みに上がり)、家電と家庭内LANはほとんど不要になり、一家に一台の家電は一人一台の携帯(スマートフォン)に置き換わるだろう。家だけでなく、企業内でも固定電話から携帯電話への代替がかなり進むと思う。
また、パソコンも、ノート主流からタブレット端末に代替されるのは、時間の問題だろう。私のように翻訳の仕事でたくさんのアプリケーションとデータの保存が必要な場合、現在は大容量のハードディスクとメモリを備えたノートパソコンが必需品だが、クラウドコンピューティングシステムが普及すれば、使い勝手のいい数百グラムのタブレット端末1台あれば、外出先はもちろん、家での作業もそれ1台で事足りることになるだろう。
ここ20年、日本経済はマイナス成長であったが、かくのごとくイノベーションはめまぐるしく進んできた。古くさい資本主義経済観念を捨てて現実の姿をありのままに見れば、これがポスト資本主義へ向けた社会進歩の有様である。
例えば、目先を転じて電力事情を見てみれば、古い経済成長神話にしがみついて考えると、「原発も当面は必要」などというもっともらしい理屈にとらわれることになるかもしれないが、成長なき脱資本主義のイノベーションの観点に立ってみれば、これまで電力資本を守るためにのみ存在してきた規制をいっさい廃止し、スマートグリッドを推進すれば、これから10年の間にも、この日本で想像を絶するような電力革命を実現することは可能だろう。そして、その延長上には、究極の自給自足エネルギーシステム、つまり、地産地消から自家産自家消の自己完結エネルギー体系の構築だって、そう遠くない未来に実現されると、私は確信している。
今から10年以上前に、あるテレビCMで、公園のベンチで一枚の下敷きのような透明な「パソコン」を操作している未来社会の描写があったが、当時SF的未来の情景として見たものが、今iPadの出現により半ば実現された。人間が想像するものは、現実には予想以上に早く実現するものである。脱原発だってそうに違いない。問題は、それを妨害している古い政治をいかに一掃できるか、その一点にかかっているといっても過言でない。

さようなら、自殺社会! [Post capitalism]

今年も自殺者が3万人を超え、1998年以来14年連続で3万人台を記録することになる。また、今年は3.11があったので、過去、チェルノブイリ事故以降、ベラルーシの自殺率が一時期世界一であったことを考えると、さらに増加する懸念がある。これは、人口30数万のちょっとした中都市が10年間で無人地帯になるに等しい数だ。また、WHOによれば、自殺未遂者は既遂者の20倍以上いるといわれているので、10年で千葉県の人口くらいの人が自殺を図ったことになる。
清水康之氏によれば、自殺の原因で多いのは「病気の悩み・影響(鬱病)」など「健康問題」と「多重債務」など「経済・生活問題」となっているが、経済的要因(失業・経営難・多重債務等)、精神的要因(うつ病、統合失調等)、人間関係(離婚、職場や学校のいじめ等)が複雑にからまりあって自殺へと追いやられるようだ。
うち続く不況、失業、貧困など経済的問題に加え、放射能汚染により今後健康問題を抱える人の増大も予想されるなか、今の日本に自殺を減らす要素は残念ながら見あたらない
この腐りきった世の中を根本的に変えない限り、日本の自殺者はいっこうに減ることはないだろう。
処方箋は2つだ。一つはすべての人に最低限の生活を保障するベーシックインカムの導入と、もう一つは脱原発の実現である。
複合的問題から自殺や自殺未遂に追いやられるような人に、もしベーシックインカムがあったなら、彼らはとりあえず経済的問題から解き放たれるだけでなく、そのことによって精神的余裕を取り戻し、それまで”金”のために生きてきた人生観までも問い直す契機を得て、そこから自らの生き方そのものの変革を模索する人も少なからず出てくるだろう。「家族を養うため」というような大義名分から「仕事人間」になったあげくに、リストラされて生活手段のみならず大切にしてきたはずの家族をも失い、自己喪失感とともに自殺への道を選ばざるを得ないというような、この国にありふれた不幸な現実は、ベーシックインカムの導入によって大幅に改善されることは間違いない。また、仕事がない=自分は無能だという無力感に囚われ、鬱や引きこもりになったあげくに自殺を図るような若者も、金稼ぎの仕事でない、真に自分が好きで打ち込める「仕事」を見つけて、自己実現を図るといったことが可能になるだろう。
それから、起きてしまったフクシマという現実は変えようがなく、政府の悪政によって放射能汚染がとどまるところを知らない現状では、犯罪企業=東電は、今後数十年、国民に健康被害をもたらし続けるだろうが、だからこそ、そんな悪夢のような現実をもたらした原発にきっぱりさよならを宣告することが、唯一、健康被害や健康不安の精神的要因を取り除いてくれる手段である。国が責任を持って過去の原発推進政策の誤りを認め、東電の犯罪を正しく処罰し、脱原発宣言を世界に向けて発信することだけが、すべての国民、とりわけ福島県民をはじめ、今後放射能被害の実害にさらされることになる人々に、生きる希望を与える道であろう。
いずれにしろ、こうした高度な政治判断、革命的な政策実行能力は、民自をはじめとした既成政治勢力には爪の垢ほども望めないので、自覚し自立した市民が主体となった政府をこの国に実現する以外に方法はない。
緑の党的勢力に脱原発派市民が総結集して、脱資本主義的な新たな政治の流れをつくり出す時、この国の浮かばれない自殺者の数も初めて減少の道を辿ることができるだろう。(ちなみに、2年前に民主党による政権交代が実現した時でさえ、自殺者の数は一時的に減少した。しかし、鳩山政権の普天間問題をはじめとする迷走により、元の木阿弥と化したのであった。)

さようなら、車社会! [Post capitalism]

未だに原発を正当化する電力マフィアどもの言い分の一つに、自動車も飛行機も事故のリスクを伴うが、人々は利便性を選択して利用している、というのがある。もちろん、飛行機はほとんどその利用者だけがリスクを承知で利用し、車の場合、被害者は車の運転者や同乗者と関係のない歩行者である場合が多いものの、原発事故のように、国境を越えた広範囲な、しかも時を継いだ4次元世界にまで影響を及ぼすことはない、という反論だけで十分論駁できるが、その一方で、車や飛行機、わけても20世紀資本主義全盛期の象徴的存在であった車社会については、すでに十分批判・否定する対象とすべき時期を迎えていると私は思う。
日本では高度経済成長に歩調を合わせて交通事故死亡者の数もうなぎ登りに増え、一時は年間1万人の大台を超えていたが、最近はその頃の半分以下に減っている。それでも年間数千人の死者は、未だに「交通戦争」と呼ぶに値する。1世紀前に自動車が大衆交通手段として登場して以来、交通事故で死亡した全世界の犠牲者は、第1次世界大戦の犠牲者を上回っているのである。
自動車を、他の大衆交通手段と比較してみても、普及台数の多さによる事故頻度はもちろん、事故率の多さも群を抜いている。例えば、搭乗時に覚悟をして乗る人も少なくない飛行機と比べても、事故で死ぬ確率は33倍も多いという調査結果もある。また、鉄道と比べても、鉄道事故のほとんどは、駅のホームと踏切で起き、踏切の立体交差化以降、大規模な事故は激減し、最近はホームドアの設置がようやく遡上に上るなど、事故死減少傾向が顕著なのに比べて、鉄路という1次元移動の鉄道に対して歩行者や自転車等と共有する平面移動をする自動車という交通システムは、本質的に不完全な交通手段なのである。
もちろん自動車業界も、エアバッグの装着から始まり、自動ブレーキシステム等事故回避システムの導入に余念がないが、資本主義終焉期を迎え、資本主義を象徴する「速く・遠くへ」の移動手段であった車社会のあり方そのものに反省が求められているのである。
原発に極端に象徴され、3.11が私たちに意識化を促した「何かを犠牲にして手に入れる便利さ」そのものへの疑問。車社会も当然、そのクエスチョンの対象である。人命・事故だけではない。CO2をはじめとした環境汚染物質の排出もそうである。また、自家用車を維持するために、私たちは車の購入費だけでなく、車検その他の検査費用、自賠責や任意保険料、駐車場代・燃料費など、年間ばかにならない金銭を車の利便性のために費やしている。
実は私も、子どもが生まれた直後に友人から中古車を譲り受けて以来、10年ほど自家用車を所有したが、経済的に困って手放して以来、ここ数年車なしの生活を送っている。それで命や健康に関わる事態はもちろん、なにか大損をしたというようなことは一度もない。むしろ、車を運転することによる様々なストレスから解放されて、とてもエコな日々を送れている。
ポスト資本主義社会の大衆交通手段に想いを巡らせてみると、年に数回、リアルに地球を移動するための次世代航空移動手段や、これも年に何回か必要に迫られる国内の遠隔地への移動のための鉄道手段などは依然として存在するだろうが、基本的に都市と農村の対立が解消された地域単位の、エネルギーを含む自給自足的な「経済」体制が基本となる社会では、自動車のような「速く・遠くへ」の移動手段は必要なくなるだろう。そして、私見によれば、居住空間たる家そのものが革命的変貌を遂げ、土地(所有)から解放されて、移動手段を兼ねるようになるのではないか、と予想している。(詳細については、拙著『希望のベーシックインカム革命-ポスト資本主義への架け橋-』付録の「ポストキャピタリズム・シミュレーション 2050年、希望(のぞみ)の一日」参照
[車(セダン)][グッド(上向き矢印)][家]

さようなら金稼ぎのための労働! [Post capitalism]

慢性化する失業問題、不安定雇用問題、ワーキングプアの問題等々、深刻化する現代の労働問題は、例えば労働者派遣法を改正して昔のように正規雇用を原則とすれば解決するのだろうか? それとも、それは不可能として、ワークシェアリングを進めればいいのだろうか?
もちろん、現行労働者派遣法は何重もの中間搾取を認め、ワーキングプアを生む土壌となってはいるが、かといって、現在の資本主義社会に、20世紀のような労働力吸収力がない以上、すべての人にフルタイムの正規労働を保障することはできない。しかし、その一方で、確かにワークシェアリングを進めれば、一定程度貧困問題は解消するだろうが、それでも現在の生活保護水準以上の収入をすべての人に保障できるとも思われない。
つまるところ、IT革命により構造的に労働力過剰社会に至った現代において、労働を通して人々の生存を保障する資本主義のシステムそのものが機能不全に陥っているのである。しかし一方で、ポスト資本主義への過渡期社会へと歩み出した先進諸国では、すべての国民に衣食住と文化的生活を保障するに十分な生産力をすでに備えている。問題は、富の分配システムという一点につきる。そして、その解こそ、ベーシックインカムなのである。
少なくともOECD加盟国レベルの生産力を有する国ならば、国民に最低限度の文化的な生活を保障するベーシックインカムを支給するシステムの構築が可能なはずである。そして、BIは上述したような現代の労働問題を根本的に解決する。いや、「労働問題」そのものを無に帰する
BIが保障された社会においては、人々はもはや生きるために「金を稼ぐ労働」をしなくてすむ。
すべての動物は生まれてから死ぬまで、「生きるために食う」ことを運命づけられている。そして、人間もその例外ではない。しかし、人間を他の動物と分けているのは、人間は食うための食料を生産することができる点にある。しかし、食料生産=農耕社会の成立以来、富の偏在=貧富の格差が生じ、人々は自分(たち)が食うための労働から、他人(権力者)に搾取される労働=疎外された労働が生まれた。
こうして人類は、文明社会=階級社会の成立とともに生きるために食うという動物本来の習性を逸脱し、食うための食料を手に入れるために労働する(しかも労働しない一部の人々を養うために、自分が食うために必要とする以上の労働をする)という労働社会が成立したのである。
こうした食料獲得と労働の分離の矛盾は、自給自足経済の社会ではそれほど激しくはなかったが、資本主義社会=貨幣経済の成立はその矛盾を極限化した。つまり、人々は経済成長を自己目的化した資本という物象化したシステムの歯車となり、食うための食料を手に入れるために労働するといった自然な回路を、労働するために生きるといった関係へと反転させ、労働の自己疎外をますます加速化させた。資本主義社会はこうした決定的な矛盾を覆い隠すために、「労働は貴いもの」「労働は義務であり権利である」「働かない者は怠け者」といったイデオロギーを学校教育等を通して人々に盛んに注入した。しかし、考えてみれば、人間以外の動物は生きることがすなわち労働であり、食べることであり、それを「怠ける」者などあり得ない。また、プレ資本主義社会では、人々は他人に強制されずとも、自給自足的に食って生きていたのであり、また適当に「怠け」て生活してもいたのである。(生産活動に従事することのできない者は共同体社会が全体で支えるシステムも存在していた。)
ただ、資本主義だけが、経済成長という自転車にまたがり、少しでも休めば倒れるという強迫観念に駆られた人のように、生産活動のみに絶対的価値を見いだし、それを貫徹するために、人々に労働=仕事中心に生きる人生観を強制した。貨幣経済は、人々をその唯一絶対の信仰に縛りつけるための十字架のようなものであった。
今、その萌芽期から数えて数百年の資本主義の歴史が終幕を迎えている。私たちは、何世代にもわたって受け継がれてきたこの「労働絶対価値観」から解き放たれなければならない。私たちは今や、「仕事をよこせ!」と叫ぶのではなく、ただ単に「生きさせろ!」と叫び、富を独占する者たちから生存権を取り戻せばいいのである。
人間は「働き者」と「怠け者」の2種類の人種からなるというのは資本主義がまき散らした幻想である。人間は本来、他の動物にない自己実現のために生きるという高度な営みを生きる能力を身につけている。しかしそれは、従来「生きるための労働」=「金稼ぎのための労働」によってねじ曲げられたり妨げられたりしてきた。生活手段を自ら働かなくとも手に入れることのできる高度な生産手段と生産力を手に入れた人類は、史上初めて「食うために労働する」ことから解放され、人類にのみ享受する権利の与えられた「自己実現のための全き生」を生きる自由が与えられるようになるのである。
ベーシックインカムはそのための社会へ導く過渡期社会の、現在考えられうる最も合理的なシステムにほかならない。

さようなら原発! さようなら成長神話! さようなら資本主義! [Post capitalism]

日曜日の大阪市長-府知事選での橋下=維新の会の勝利は、3.11以降の日本の政治・社会の閉塞感の反映であるとともに、既成政党への絶望が極右やファシズム的政治勢力の台頭に容易につながりかねない日本の歴史的風土の危うさに警鐘を鳴らすものでもあった。
2年前の政権交代は、日本の民主主義にとって一歩前進であり、民主党は自民党に比べてより進歩的政策を掲げはしたものの、階級調和的な20世紀後半なら有効であったであろうそれらの政策は、再び階級間の対立が先鋭化した資本主義末期状況では、もはや時代遅れで何の役にも立たないことを1年と経たずに露呈しはじめ、さらに3.11は彼らの本質が自民党とほとんど変わらないことを暴露する結果となってしまった。
それは、この階級対立の中で、彼らが20世紀的資本主義の主勢力である重化学・機械工業中心の大資本や金融資本、さらにはその恩恵に与る「労働貴族」の代弁人という馬脚を顕わにしただけでなく、資本主義の中心的イデオロギーである「成長主義」の虜であることを、嫌というほど私たちに思い知らせてくれた。
震災復興や原発政策に対する彼らの理論的根拠も、「経済の復興」=経済成長こそが日本の再生の道であるという彼らの信仰に基づいている。しかし、資本主義先進諸国を例外なく襲っている金融危機、財政危機は、資本主義のどん詰まりを示し、もはや20世紀後半のような経済成長は先進諸国では望み得ないのはもちろん、その先に彼らが保証する雇用や失業問題の解決、賃金上昇=生活向上などありえないことを物語っている。そしてこの20年間、それら資本主義先進国の中でもいちばん凋落が激しく、財政赤字も突出している日本においては、3.11は致命傷ともいっていい打撃を与えることになった。
「原発反対」の社民、共産両党も、立場は違えども、「成長神話」という資本主義のパラダイムに囚われている点では、その他の既成政党と同根である。両党が3.11以降の脱原発世論の盛り上がりの中でも支持率を伸ばせない根本的要因もそこにある。
だからこそ、脱原発派の自立した日本市民は、成長神話ときっぱり決別し、21世紀ポスト資本主義的新産業を基軸とした脱資本主義政策を掲げ、ベーシックインカムを基軸とした富の公正な分配政策を実行し、それなりの物質的豊かさを皆で享受しつつ、精神的により豊かな社会生活をともにつくっていく必要がある。3.11以降の失望・絶望を、新自由主義や排外主義、復古主義等に預けてはならない。
さようなら原発! さようなら成長神話! さようなら資本主義!
その先にこそ、私たちの未来はある。

“ASIMO”は10人の人間労働の替わりをする [Post capitalism]

電子書籍が著者-出版社-取次会社-小売り書店から成り立つ「出版ムラ」を崩壊させるということは先日の記事(アマゾンの電子書籍参入が予兆させる〈電子書籍革命〉)で述べたが、これをもう少し詳しく見てみよう。
四半世紀前まで、1人の作家が本を出そうとしたら、彼はまず、原稿用紙を入手してペンで原稿を書いた。そして完成した原稿を出版社の編集者に渡す。その編集者は赤を入れて丹念に原稿整理をして、印刷屋の営業マンにそれを渡す。営業マンは、それを植字工(=活版印刷)なりオペレーター(=オフセット印刷)に渡し、何回かの校正を経て、できあがった組み版を印刷に回す。そして、刷り上がった印刷物は製本屋へ運ばれ、そこで製本され、さらに取り次ぎ会社へ運ばれて、そこから全国の書店へ配られる。
こうしてみると、1冊の本が読者の手元に届くまでには、編集者、印刷屋の営業マン、植字工(オペレーター)、印刷工、運転手、製本屋、運転手、取次店、運転手、書店と、最低でも10人の人間労働が介在することになる。そして、そのほかに、膨大な紙とインク、機械、輸送手段等が必要だ。
ところが、電子書籍は、究極的にはクリエーターである作家1人の作業によって直接読者に本を届けることが可能になる。つまり、10人の失業者を生み、コンピューティングシステムが様々な機械や材料にとって代わる
私が20年間従事している翻訳業においても、事情は全く同じだ。私が翻訳の仕事を始めた時には、すでに手書き原稿からワープロないしパソコンのワープロソフトでの入力作業に代替されていたが、クライアントから翻訳会社に翻訳の依頼があると、電話で私に問い合わせがある。そして、私が仕事を引き受けると、短いものならFAXで、それ以外の原稿は宅配便や郵便で送られてくる。私はその原稿を見ながら翻訳作業をワープロで行う。そして、完成した翻訳原稿はプリンターで出力して、普通は再び宅配便か郵便を利用して翻訳会社に送り返し(締切に追われた時は、交通手段を用いて直接翻訳会社に赴いて手渡して)、そこからさらにクライアントの手元に届けられる。
ところが今は、仕事の依頼はメール1本のことが多くなった。そしてメールには原稿ファイルが添付されており、私はそれを直接、またはOCRを通して翻訳ソフトにかける。そして「一次訳」の終わった原稿を、私は二次訳以降を行って、再びメールで納品する。以前介在していた宅配業者や電話・FAX等の通信業者はほぼ必要なくなった。そして、さらに私にとって都合の悪いことは、今や、多くの仕事が、クライアント次元で処理されるようになってしまったことである。わざわざ外注に出さなくとも、クライアントがみずから翻訳ソフトネット上の無料翻訳サービスを使って済む場合が多くなったからだ。そうすると、翻訳会社も翻訳者も、それに伴って生じるすべての作業・資材もお払い箱となる。
もちろん、これに似た“合理化”は、資本主義の歴史とその発展には不可欠なものとしてかつて普遍的に存在した。合理化=技術革新を通して、資本主義はさらに一段高い生産手段と生産力を獲得し、そこで新たな市場を開拓し、新産業はそれまで以上の多くの労働力を吸収して、合理化によって生じた失業問題は解決された。
ところが、IT革命以降の合理化は、それによってもたらされるイノベーションが今まで以上に人間の労働力を必要としない新産業を生み出す。上述した出版合理化によって生み出された電子書籍市場は、従来の10分の1の労働力しか必要としない。創作というクリエイティブな仕事のみを残し、残りの単純労働をITで置き換えるか、全く不要なものとしてしまう。また、翻訳ソフトというイノベーションは、誰の力も借りずに翻訳という目的をかなえてしまう。
もしASIMOが実用化され量産されるようになったら、Macで働くアルバイター、コンビニのレジ係、オフィスの受付嬢等、大量の不安定雇用労働者が失業するだろう。また、自動運転システムの車が開発されたら、自動車工場の生産ラインで働く労働者の数は増えないが、逆にタクシー運転手やバスの運転手が街から消えるだろう。
ポスト資本主義へ向けた過渡期社会では、失業問題は新たな仕事を彼らに与えるという方法によっては解決不可能なのである。しかし、問題を地球レベルに押し広げて、爆発する人口を養う食糧不足という生態系的問題まで考慮に入れなければ(それも、資本主義との関連性の中で考えれば、中国は今世紀中にも人口減少=高齢化社会に転ずるだろうし、人口爆発の中心地=インド(その後のアフリカ大陸)も、増加率が急激な分、資本主義の世界的崩壊過程の中でいずれは急減過程を経ることによって解決するものと思う。)、仕事はなくとも、人々が十分に、そして健康で文化的に暮らしていけるに十分な衣食住その他のモノが社会には十二分に存在している。だから、人々は仕事(=金ないしは生活手段を得るための)がなくとも、貨幣経済が存続するうちはベーシックインカムによって、そして貨幣経済が終焉したその後の社会においては、現物支給によって、生活に必要な物資を手に入れることができるのである。
人々の一部は、社会発展に必要な新産業の研究・開発に携わるだろう。しかし、大部分の人々は、広い意味の文化活動(文学・芸術・スポーツ・ボランティア等々)の仕事に携わることによって、自己実現を果たすようになるだろう。物質的対価を抜きにした“仕事”は、この世に無尽蔵に存在するのだから。


アマゾンの電子書籍参入が予兆させる〈電子書籍革命〉 [Post capitalism]

アマゾンがいよいよ来年にも日本で電子書籍市場に参入しそうだ。私としては大いに期待もし、歓迎する。アマゾンに、というより、電子書籍市場の活性化に、だ。
日本の出版業界は、再販制度によって支えられた著者-出版社-取次会社-小売り書店の強固な紐帯によって結ばれたいわば「出版ムラ」を形成してきた。それは、資本主義の形成期から爛熟期まで、「出版文化」を質・量ともに保障するシステムとして機能してきたが、資本主義崩壊過程にある現在、次第に新しい文化の阻害物となりかねない反動的勢力と化しつつある。私も四半世紀前に10年以上、その業界に身を置いた者として、特に自分のいた出版社という存在の遅れた体質を感じているところだ。アマゾンや電子書籍に対する、著者も含めた「出版ムラ」の姿勢も、もっともらしい様々な理由はつけられているが、いわば「既得権益の確保」が本音であろう。
IT革命を経た現在、(マンガ、新聞等も含めた広い意味の)書籍の電子化は時代の趨勢である。それは、紙の省資源化にもつながり、エコにもプラスになる。また、教科書の電子化が実現されれば、長い歴史を通じて児童・生徒の負担となってきた通学時の重い教科書の持ち歩きから、彼らを解放してもくれるだろう。
それはさておき、もっと本質的なところで、日本に本格的な電子書籍時代が訪れると、どんなことが起こるのであろうか?
まず、過渡的段階は経るとしても、最終的に「出版ムラ」を形成している住民らがあまねく存亡の危機に直面させられるだろう(彼らの強固な抵抗の原因もここに根ざす)。取次、小売店が消えるのは理解しやすいだろうが、出版社はおろか、著者さえ、〈電子書籍革命〉の坩堝に投げ込まれるのである。
〈電子書籍革命〉のめざす書籍の(実際にアメリカなどで現実化しつつある)未来像はこうだ。-プロ・アマ問わず、「作品」を発表したい「著者」は、今私がブログを書いて投稿しているのと同じ感覚で、誰でも自由に自分の作品をネット上のバーチャル市場に「出品」することができる。そして、ネット上の電子書籍ショップを通して作品がダウンロードされると、著者にはあらかじめ決められた割合の印税が支払われる。(あるいは、売れっ子作家は自身で自著の販売サイトを立ち上げることも可能だろう。)ただそれだけのきわめてシンプルな関係性だ。
だから、真に面白い作品、いい作品だけが売れ、そうした作品の著者のみが人気作家になる。一方、売れなくても貴重な作品、価値のある作品、少数派の需要に応える作品…あるいはゴミのような作品でも、従来の出版市場では日の目を見ずにボツにされたが、今や膨大な作品群に投げ込まれ、発表の機会を得る。
「プロ・アマ問わず」と書いたが、正しくはプロとアマの境が曖昧になる。従来、作家を志す者にとって、いちばんの近道は賞でも取るしかなく、そうでなければなかなか自身の作品を発表することもままならなかった一方、いったんデビューを果たした作家は、そこそこの作品を書き続け、そこそこ売れ続ける限り、プロとして存在することを許されていたが、電子書籍革命はそうしたシステムをより合理的に再編するのだ。マンガ界では昔からコミックマーケットなどを通し、そうしたプロ・アマの垣根を取り除くシステムが存在し、そのマンガ界が日本で現在唯一電子書籍化が進んでいることが、上述した関係性を敷衍してくれるだろう。
さらに、今急速に崩壊に向かいつつある資本主義が、各国の金融危機の果てに相次ぐデフォルトによって金融資本主義の終焉を迎え、貨幣なきポスト資本主義社会に突入するようになると、もはやプロ・アマの仕分け自体が無意味化する。すなわち、プロとはそれで生計を立てている人、アマとはそれ以外の人をさす言葉であったが、貨幣経済がなくなり、ベーシックインカムのさらによりいっそう徹底した分配システムの確立により、人々は金を稼ぐために仕事をするのではなく、「自分のしたいこと」「自己実現」「社会貢献」等々を行うことが「価値ある仕事」となるからである。
〈電子書籍革命〉は、出版界においてそのようなポスト資本主義社会へと続く未来を展望させるものである。
参考[右斜め上]http://p.booklog.jp/book/27264

‘Occupy’ ソウル速報! [Post capitalism]

韓国版‘Occupy’開始… 「私たちは1%に対抗する99%」

80余ヶ国900以上の都市で同時多発集会、ソウル都心あちこちで関連集会

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▲ ⓒ뉴시스

[時事ソウル=キム・ギョンタク記者]米ニューヨークで少数の青年失業者が始めた「Occupy:占拠」という挑発的な名の反金融資本主義デモが韓国へも伝播した。
15日、ソウル都心のあちこちで集会が行われ、6時からはソウル広場で徹夜で「1%に対抗する99%、怒れる99%広場を占領せよ。Occupyソウル国際共同行動の日」集会が始まった。この集会は、この日世界80余ヶ国900以上の都市で同時多発的に行われている。
資本と金融、富裕層の貪欲に対する反感と抗議を表わすオキュパイデモの第1のターゲットはウォールストリートに代弁される金融界だが、窮極的に彼らが言おうとするのは韓国的資本主義が顕わにした貪欲さに対する警告だ。
投機資本監視センターなど金融関連市民社会団体は、この日午後2時、韓国のウォールストリートといえる汝矣島(ヨイド)金融監督院の前で集会を開き、金持ちのための金融政策の即時中断と多数のための金融政策即時施行を要求した。
彼らは「99%の市民が1%にも満たないウォール街の貪欲に我慢ならずに街に出たのは、単に米国だけの問題ではない。韓国の金融市場もやはり世界的金融投機資本の影響から自由ではない」と主張した。
引き続き、「現在の韓国は『カジノ金融』だけが残って金を巡り金を食うことにのみ熱中する形態を示しているが、金融機関と金融当局は何の責任も負わずにいる」と指摘した。彼らは▲徹底した金融規制、▲金融政策・金融官僚の責任糾明、▲金融被害者の救済などの要求案を突きつけた。
同時刻、ソウル駅広場では貧困社会連帯が「貧困撤廃の日」集会を開き、政府に貧困状況に対する解決策を要求した。
貧困社会連帯は、「市民は物価暴騰、家賃高騰、天文学的な家計負債の増加という、いわゆる『トリプル爆弾』に苦しめられている。金融資本の蛮行を糾弾し、富を一人占めする社会に抵抗しなければならない」と主張した。
午後5時、ソウル市中区大漢門の前では、韓米FTA阻止汎国民運動本部(汎国本)が、韓米FTA阻止集会を開いた。汎国本は「亡国的な協定=韓米FTAが通過する危機にある。現在米議会の批准手続きが終わり、韓国政府も米国に従って批准案を今月中に強行しようと準備中」であると明らかにした。
汎国本は「韓米FTA批准案通過の可否は私たちの自主的議論と手続きによりなされなければならない。米国は交渉内容に満足だがわれわれは違う。精密な検討と廃棄が必要だ」と指摘した。
続いて午後6時、ソウル広場では30余りの市民団体で構成された「99%の行動準備チーム」と市民団体が「1%に対抗する99%、怒れる99%広場を占領せよ。Occupyソウル国際共同行動の日」集会を徹夜で開催した。
彼らの主張は家賃値下げ、授業料値下げ、金融資本の規制、若者の失業解決、金持ち課税、韓米FTA反対、非正規職撤廃、4大河川流域総合開発反対など広範囲だ。
彼らは講演と討論会、自由発言、フェスティバルなどの行事を通して「1%の金持ちと企業の『貪欲』を糾弾し、1%の税金をかき集めて99%の仕事と福祉を増やすよう抗議」する方針という。
2011年10月15日(土)時事ソウル:19:20:43キム・ギョンタク記者

2011年、資本主義システムは音を立てて崩れ始めた [Post capitalism]

世界がめまぐるしく移りゆく時代でも、今年ほど大きな事件が立て続けに起こった年も珍しい。3.11を筆頭に、アラブの春ヨーロッパ通貨危機「ウォール街を占拠せよ!」デモ……。それらの出来事の根底にあるのは、2008年のリーマンショックで顕在化した資本主義崩壊の始まりが一段と深化し、ついに音を立てて崩れ始めたということだ。数十年後のポスト資本主義社会で、2011年はそうした意味で特筆すべき年として語られているかもしれない。
そして、民衆が、市民が街頭に繰り出している。ヨーロッパで、アラブで、アメリカで!、そして日本で!! とりわけ資本主義先進国でたたかいに立ち上がった市民たちはプレカリアートと呼ばれる失業者、非正規不安定雇用労働者等、IT革命の結果、仕事を奪われた人々である。半世紀前まで、資本主義に立ち向かう民衆の群は組織労働者であり、彼らは社会主義を目指したが、今やプレカリアートが彼らにとって変わり、資本主義を墓場に葬り去ろうとしている。
それでは、ウォール街を占拠したプレカリアートが掲げる「 99%のための社会を!」のスローガンを実現する手段は何か? それはベーシックインカム以外にないことが、ますます明確になりつつある。豊かな社会、偏在する富、減少する一方の雇用、財政危機-こうした連立方程式を解く鍵は、もはやベーシックインカム以外に存在しない。
各国のプレカリアートは早くそのことに気づくべきである。そしてベーシックインカムは単なる理念の世界から、こうした現実と固く結びつくべきである。
99%の民衆は、資本主義が植え付けた「労働絶対価値観」から一刻も早く解放されよう。労働=賃労働は尊くもなく、義務でも権利でもなく、ただ単に資本主義社会で生きていくための手段に過ぎなかったことに気づこう。そして、その労働を資本主義が十分に提供する機能を失った以上、99%の民衆は「生きさせろ!」と叫ぶ権利がある。1%の富の独占者たちから富を奪い返す権利がある。そして、そのためのシステムがベーシックインカムである。
「労働絶対価値観」からの解放は、何かというと「経済優先」を口実に原発の存在を合理化しようとするこの国の核マフィアとその後ろ盾である経団連=古い資本主義勢力に、最も根源的に対抗する原理となりうる。原発が存在したところで、この国は経済成長の能力もすでに失い、ましてや高まるだけの失業率を解消することもできない。もはや99%の民衆には、そんな「経済」は必要ない。ほしいのは、豊かな自然の中で、死ぬまで飢えの心配をせずに、充実した人生を健康に送れるだけの、コンパクトで文化的な社会の実現だけだ。そんな社会に、原発は共存できない。そして、そうした社会を保障するのは「経済成長」ではなく、十分な富を公正に分配するベーシックインカムのシステムだけだ。
世界のプレカリアートは99%のための社会の実現のためにベーシックインカムを要求しよう。そして、日本のプレカリアートは格差と貧困のない脱原発社会の実現のために、ベーシックインカムを要求しよう。そして、機能不全に陥り始めた世界の資本主義システムにレッドカードを突きつけよう。

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