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ポスト資本主義社会のオリンピック [Post capitalism]

近代オリンピックがオリンピック発祥の地=アテネで最初に開かれたのが1996年。オリンピックの歴史は、レーニンの言う「帝国主義の時代」、すなわち資本主義の成熟段階である金融資本主義の歴史と軌を一にしている。
当初アマチュアリズムに立脚していた五輪が露骨に商業主義化してプロ解禁へと門戸を開いていく契機となったのは、1984年のロサンゼルス大会。この時のアメリカ大統領は、元祖ネオ・リベラリスト=ロナルド・レーガンであったのは偶然のことではない。
選手はアスリートである前に、スポンサーによって囲い込まれた「商品」と見なされるようになった。そして、資本は商品の価値を高めるためなら何でもやる。ドーピングが大きな問題となりはじめたのも、この時期からである。
しかし、近代オリンピックは当初から、資本主義世界システムのひとつとして機能してきた。「平和の祭典」と称しながら、実際にはそれはナショナリズムを鼓舞する場であったし、東京オリンピックを知る者なら誰でも記憶にあるように、五輪開催がもたらす経済効果は計り知れない。つまり、インフラ整備をはじめ、莫大な資本や税金が「コンクリート」につぎ込まれ、開催都市を中心に「近代化」が図られる(2016年のリオもそうなるであろう)。また、放映権をめぐり莫大な金が動き、世界中から開催国に観光客が動員される。……
ソ連はじめ「社会主義国」と呼ばれ、当時は資本主義の対極をなすものとみなされながらも、実際には資本主義の一変形、亜種にすぎなかった国々も、したがって例外ではなかった。むしろ、当初からもっとわかりやすい図式で五輪が捉えられていた。つまり、五輪は自国と社会主義の優位性を宣伝する格好の場であったため、選手は五輪でメダルを取れば生涯年金を保障された。だから、当然選手たちは皆必死に練習し、ドーピングもなりふり構わず行った。
現代では、オリンピックの国別金メダルの数は、それに投資した金額に比例すると、何のはばかりもなく公言されている。
資本主義の祭典=オリンピックを、時に睡眠サイクルを壊しながらも観ている私は、しかし頭の隅の冷めた部分で考えてみる。ポスト資本主義社会に、五輪は残るのだろうか、と。
ポスト資本主義社会は、ベーシックインカムによってすべての人々に生活に必要な所得が保障され、一方、IT革命の結果、労働力はますます人間の手から離れて「ロボット化」するため、スポーツを含む文化活動がより多くの人々によって盛んに行われるようになるだろう。そう考えると、五輪もますます盛んになりそうな気がする。
しかし、さらによくよく考えてみると、第一に、現在選手の最大のモチベーションとなっている金銭的動機が薄弱になるため、また第二に、今も島国=日本でさえ選手の「多国籍化」が進んでいるが、ポスト資本主義社会では人々の移動がより流動化し、あらゆる意味で「国境」が意味をなさなくなり、やがて資本主義的意味での「国家」がなくなるであろうから、「国別メダル争奪戦」としてのオリンピックは、その存在意味を失うであろう。
だいいち、アナクロニズムの石原が「東京の夢よもう一度」とばかりに、五輪を誘致して経済効果を得ようと企むようには、ポスト資本主義社会の都市は、五輪誘致の魅力を感じなくなるだろう。ハコモノを増やす「都市開発」は必要なくなるだけでなく、都市へ集中していた人口が適度に地方へ分散し、やがて都会と田舎の区別も判然としなくなるだろう。そんな「都市」へ、世界中から何千、何万ものアスリートが集まるのはふさわしくない。
ポスト資本主義社会のアスリートたちは、現在の私たちには思いもつかないような、全く新しい「スポーツの祭典」をつくりだすに違いない。
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