SSブログ

3.11とフクシマの本質を活写した傑作-内田伸輝監督作品「おだやかな日常」 [Criticism]

「おだやかな日常」という映画を観た。これまで、3.11、フクシマを描いた映画をいくつか観てきた。園子温監督の「希望の国」舩橋淳監督の「フタバから遠く離れて」などだ。正直それらの作品は、3.11 後に初めて原発問題に向き合った監督のある種付け焼き刃的な薄っぺらさを否めなかった。しかし、「おだやかな日常」は違った。フクシマや3.11という言葉はひと言も出てこないし、舞台も被災地から遠く離れた首都圏の日常生活だが、この102分のフィクションの中には、3.11以降今日までのこの国の現実が凝縮して描かれ、その本質がえぐり出されているのだ。

story2.jpg

物語は2人の若い既婚女性(1人は幼稚園に通う子の母親)が、マグニチュード9.0の地震によって引き起こされた原発事故の放射能の影響を心配することから始まる。特に若いお母さんの幼稚園での孤軍奮闘ぶりは、3.11で目覚めてしまった少なからぬ母親たちがこの間経験してきた現実と重なるだろう。
ここで描かれているのは、真実を追求しようとして現実に立ち向かう目覚めた人々=市民と、現実から目を逸らし続け、長いものに巻かれることでまやかしの安心を得ようとする大衆とののっぴきならない対立構図だが、後者はこの国の民主主義の根づきを妨げている日本社会に特有な「ムラ社会」そのものである。空気を読まず、和を乱す者は異端として排除していくムラ社会。それは3.11以前、はるか江戸の昔からこの国に住む人々の精神をむしばみ続けてきた病巣であり、3.11が「原子力ムラ」を通してまざまざとあぶり出した現実である。
こうした重篤に病んだ社会では、一握りの「目覚めた人々」は指弾され、嫌がらせを受け、いじめ抜かれ、孤立させられ死の淵へと追いやられる。

story3.jpg

内田伸輝監督は、この作品を通して、そうした3.11後のこの国の深層に横たわる病巣をものの見事に剔抉してみせた。それは単に、3.11とフクシマの問題にとどまらず、日本社会の本質を普遍的に貫くがん細胞のようなものだ。そんなこの国のタブーそのものといっていいものをあからさまに描いて見せたという意味で、これほどドラスティックで革命的な映画を私は知らない。
物語は最後に、恐らく会社を辞めたであろう夫とその妻が西へと旅立つべく荷造りしているシーンで終わるのだが、自殺未遂した隣家の母子も恐らくその後に続くであろうことを強く示唆している。「目覚めた人々」が自身の生き方を貫くには、強力なムラ社会の中では不可能であり、〈西へ〉と逃れることが唯一の現実的解決策であるからだ。そうしてムラを離脱した「目覚めた人々」は、クニからも精神的に自立し、魂の「独立共和国」を樹立していくのである。

story4.jpg

ラスト近くで「おだやかな日常」の意味が語られるが、その含意の深さに強くうなずかされた。3.11があり、レベル7のメルトダウン(スルー)の大事故があったにもかからわず、地震直後の数日を除き、この国の社会はあまりに「おだやかな日常」が流れているというのだ。この「おだやかな日常」こそが、人々から現実と向き合う力を奪い去り、一部の「目覚めた人々」をアメーバのように飲み込んで消化し尽くすヌエのような虚構の現実なのだ。この「おだやかな日常」は、この国が滅亡するその日まで続くのだろう。そして、この国のムラ人たちは、そうして「おだやか」に最期を迎えるに違いない。
「目覚めた人々」よ「おだやかな日常」を拒否せよ。そして逃げよ、自由へ向かって逃走せよ!
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。