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ないのは仕事で、カネやモノではない。仕事がなくても生きていける社会の創造を! [Post capitalism]

22日投票のドイツ下院選では野党・社会民主党が全国一律時給8.5ユーロ(約1,100円)の最低賃金導入を訴え、社民党との連立を目指す緑の党もそれに同調し、最賃制導入の是非が争点のひとつになっているという。雇用・労働環境をめぐる問題は今やグローバルな問題だ。
20世紀末からのグローバリゼーションを伴ったIT革命は、雇用の絶対的減少をもたらした。とりわけ資本主義先進国においては、産業の空洞化、途上国へのアウトソーシングにより職を失った国内の労働者を、時間的にも質的にも薄められた不安定低賃金労働によって何とかカバーしようとして、失業とともに労働条件の質の低下を招き、新しい貧困問題を生み出した。
しかし、21世紀の労働問題を根本的に解決するのは、非正規雇用の正規雇用化でも、最低賃金の引き上げでもない。
21世紀の世界は途上国も含めて、①すべての人々が生活していくに十分な富が存在する、②すべての労働力人口に供給すべき十分な仕事がなく、それはますます少なくなっていく、③その結果、富がますます偏在し、貧困問題が深刻化する――という特徴を示している。マルクス主義は、有史以来、常に5%の支配階級と95%の被支配階級という階級対立構造が存在してきたと主張してきたが、今やそれは1%対99%、それどころか途上国では0.1%対99.9%の対立へと極端化している。
この問題を根本的に解決するには、ごく少数の者の手に集中した富を無条件に(つまり労働とその結果得られる賃金という媒介を通さずに)99%の人々に分配すればいいだけの話である。20世紀中頃までは、先進国も含めて、労働と賃金という媒介を通してさえ、すべての人々が十分に生きていけるだけの富は存在しなかった(絶対的貧困の存在)。社会主義の敗北の原因のひとつも、恐らくそこにあっただろう。しかし今や、マルクスの言葉を借りれば、世界中のすべての人々が、「労働に応じて」どころか、「必要(欲望)に応じて」モノを消費するだけの十分な富が存在している
しかし同時に、資本主義はその現実を決して認めることはできない。なぜなら、資本主義とは資本と労働の関係においてのみ成り立つものであり、「働かざる者食うべからず」の社会であるからだ。その前提を崩した瞬間に、資本主義そのものが崩壊してしまうだろう。
だがしかし、IT革命という文字通り革命的なイノベーションが進めば進むほど、資本主義の建前は崩れていく。今現在においてさえ、少なくとも資本主義先進諸国においては、その気にさえなれば、すべての人々が働かなくともそれなりの生活を維持していけるに十分な物質的富を生産する技術があるはずだ。現在、労働者の多数派になりつつある非正規雇用労働者が担っている生産ラインの単純労働、医療・介護等を含むサービス業の様々な仕事等々は、機械化・自動化・ロボット化によって大部分置き換えが可能なはずだ。もちろん初期投資にかなりの費用が必要だろうが、そうした設備が汎用化すればするほど、それに要する費用は非正規雇用労働者の低賃金よりも安上がりになるだろう。
しかし、彼らがそれを急がないのは、これ以上急激に機械化・自動化・ロボット化を進めれば、雇用問題という現代のアポリアをさらに深刻化させ、自縄自縛に陥ることを知っているからだ。
資本主義は労働者に労働の対価として彼が生きることができるだけの賃金を与え、労働者はそれをモノと交換することによって生きる糧を得ることができる。しかし、世の中には障碍者、老人、失業者等々、自ら生きるに足る(資本主義的)労働を生み出せない人々が存在し、そこから生じる社会矛盾を解決し、そうした人々の生存を保障する仕組みとして社会福祉を生み出した。つまり、「働かざる者」に「食わせる」ことはあくまで社会規則の例外であり、本質的には「施し」の域を出ないものでなければならなかった。
ベーシックインカムの思想は、そうした資本主義の根本的枠組みをはみ出すものである故に、一部のネオリベラリストを除いて、資本主義擁護派にそれを認める者は存在しないどころか、彼らの多くが、それが資本主義の綻びをますます広げる赤い糸であることを知っているが故に、それに命がけで反対する。(BIを認める一部ネオリベラリストは、解決策のない21世紀の雇用問題の弥縫策として、逆に不十分なBIによってお茶をにごそうとしているのだ。)
このように、1対99、0.1対99.9の対立がますます先鋭化するにしたがい、99%のプレカリアートにとっては資本とカネのからくりがよりよく見えてくる。1%の富の独占者たちがますます貪欲になり、資本と労働の原則をはみ出してマネーゲームという「錬金術」に突き進めば突き進むほど、プレカリアートにの目には金(カネ)のメッキが剥がれてその本質が顕わになるわけだ。彼らがウォール街を占拠して富の公正な分配を主張したのもその現れである。また、日本においてついに1千兆円を超えた財政赤字もしかり。個人や一企業ならとっくに破産しているはずのこの天文学的「借金」が、ますます雪だるま式に増えても、いっこうに国家財政が破綻しないどころか、毎年無尽蔵に新たな「借金」が増えていく現実に、さしものお人好しな日本人さえ、そろそろ気づき始めているはずだ、カネというのは実態のない幻なのだと。
だから、99%のプレカリアートのスローガンは、「仕事をよこせ!」でも、「カネをよこせ!」でも、「賃上げを!」でもなく、「生きる権利を!」だ。万人が十分に食べ、居心地のいい場所に住み、着心地のいいものを身にまとい、子どもをつくり、楽しみ、遊び、交流し、創造し、想像し、休み、癒し……人間らしく生き、生き抜き、自然に死んでいく、人としての自然の営みを返せ! ということに尽きる。
そのためには、資本と労働、つまり、生きるために働き、労働の対価として賃金を得、そのカネによって商品を購入し、その商品を消費することによって生きるというシステム自体をやめなければならない。
そのシステムを崩すのに、正面突破を企てれば、1%の彼らは命がけで抵抗してくるだろう。何百年も続いたこのシステムを崩すのはそれほどたやすいことではない。だが、ひとり一人がこのシステムを降りることによって、システムの機能不全=自壊をもたらすことは、よりたやすいことかもしれない。人々が生まれてから必死に登ってきた何十段もの階段を一気に駆け下りることは厳しいかもしれないが、一段でも降りることは明日にでもできる。そうして、無理なく一段一段降りていけばいいのだ。なぜなら、1%の者の富を維持するためには、99%の人々が彼らのシステムにがっちり組み込まれていなければならないからだ。彼らの富は99%の存在なくしては成り立たないのだ。

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