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山本太郎問題と日本政治の死、もしくは彼が犯したふたつのタブー [Politics]

この2日間、私のTwitter画面では山本太郎問題でもちきりで、私もツイートに夢中になった。ここで私見はおくとして、新聞報道で見られた「識者」の声のうち、山本太郎に好意的な意見を紹介しよう。
まず、最初は民主党政権誕生にも大きな役割を果たした政治学者の山口二郎氏。
今の天皇、皇后のお二人は戦後民主主義、平和憲法の守り手と言っていい。しかし主張したいことは市民社会の中で言い合うべきで、天皇の権威に依拠して思いを託そうと政治的な場面に引っ張り出すのは大変危うく、山本議員の行動は軽率だ。一方で、主権回復式典の天皇出席や五輪招致への皇族派遣など、安倍政権自体が皇室を大規模に政治利用してきた中、山本氏だけをたたくのは公平ではない。山本氏も国民が選んだ国会議員であり、「不敬」だから辞めろと言うのは、民主主義の否定だ。
今日の東京新聞社説(「山本議員「手紙」 軽挙慎み脱原発を前へ」)もほぼ同じような論調だ。
また、明治学院大の原武史教授(政治思想史)は、
今回の行為を政治利用と言ってしまうことには違和感がある。警備の見直しについても議論されるなど大げさになっており、戦前の感覚がまだ残っていると感じる。政治利用というならば、主権回復の日の式典に天皇陛下を出席させたり、IOC総会で皇族に話をさせたりした方がよほど大きな問題だと感じる。
原教授は自身のツイッターで、「山本太郎議員の『直訴』に対する反発の大きさを見ていると、江戸時代以来一貫する、直訴という行為そのものを極端に忌避してきたこの国の政治風土について改めて考えさせられる」ともつぶやいた。
(以上「朝日新聞」11.2朝刊)
自民はもちろん、同じ与党の公明、右派の維新がここぞとばかりに声をきわめて彼を批判するのは想定通りだが、昨日1日、私がいちばん気になったのは、昨年来、山本太郎と共闘ないしは「政治利用」してきたリベラル以左の政党とその所属国会議員の反応だった。ところが、待てど暮らせど出てこない。私のTwitter画面にも時々リツイートで登場してくる福島瑞穂志位和夫を検索しても、全くスルー。その志位さん、今日の朝日に以下のようなコメントが載っていた。
憲法上「国政に関する権能を有しない」存在の天皇に政治的対応を求めるのは、憲法を知らない者の行動だ。
穏健リベラル派の政治学者・山口二郎氏ほどのことも言えてない。
私のフォロワーやその繋がりが一様に山本太郎を擁護し、彼を守ろうとしているなかで、政党・政治家の冷ややかな反応・無反応にしびれを切らせた私は、国会に議席は持たないものの、3.11以来、ずっと山本太郎とともにたたかってきた緑の党くらいは、せめて緊急擁護声明でも出せよ!と呟いたが、この党が状況に機敏に対処できないことはこの間嫌というほど思い知らされてきたので、せめて個人的には何か呟いているだろうと、私がフォローしているGreensの名だたる面々を調べてみたが、やはりみんなスルー! 業を煮やした私は、夜中に、共同代表の一人に宛てて、「緑の党は他の既成政党同様山本太郎黙殺ですか? 党としてはともかく、個人的に何か感じることはないのですか? 私のフォローしているGreensは皆スルーしてますね。がっかりです。太郎さんもがっかりしてるでしょう。」とツイートしてみたが、未だに反応がない。この人、7月の参院選時に岡山に来て、あまりに寂しい街頭の様子を目にした私が「演説に心に届くものがない」とツイートしただけで2時間と置かずに反応があったので、こっちも「がんばって~」と返信した人。あれも選挙向けの顔だったのだろうか?
以上のような政治家どもの対処の仕方を、この国では「政治的」と昔から呼んでいるが、実はこれ、政治的でも何でもない。ただの処世術。本当の政治家というものは、どんな事件・状況に対しても、素早く自身の意見を正々堂々と世の中に向けて披瀝するのが本分だろう。有権者の顔色ばかりうかがって、どう対処するのがいちばん得かなんて様子見する態度は、昔から日和見主義という。山本太郎に批判的でも、同情的でも、お説教垂れてもいい、100%擁護して「たとえ国会で私一人であっても、私は山本太郎の行動を支持します」ならもっといいが、かりそめにも官邸前に出てきて彼といっしょに行動したことのある政治家だったら、何とか言えよ! スルーするやつは政治家失格だ! 今すぐ政治の舞台から去れ! ことは山本太郎ひとりの問題ではなく、この国の民主政治の根幹に関わる問題であると認識せよ!
昨日、ある人が以下のようなツイートをしていた。
この国の右と左の対立なんて、55年体制の時代から今も変わらず。皆それぞれに役割があり、台本通りに演じてるだけだ。そんな対立ごっこの秩序を乱すようなガチンコ野郎が入ってきたら、そいつは必ず叩き潰される。それが山本太郎だ。

ところで、今回の問題を通して透けて見えてきたことのひとつに、脱原発・反原発陣営の中での山本太郎の立ち位置、彼との温度差の問題がある。私の500名のフォロワーとそれにつながる何百、何千の人々は、彼同様に皆やけどするほどに熱い。だから、自分の問題として彼を守ろうとしている。
ところが、永田ムラの住民はじめ、政治に色目を使うやつだけでなく、世間の脱原発・反原発陣営の中にも、山本太郎を冷ややかに見ている人々も少なからずいる。いや、そっちの方が多数派だろう。
その温度差の本質は何か? それは、ひと言でいって、フクシマへの危機意識の違いだろう。そして、さらにいえば、被曝の問題に真正面から向き合っているか、スルーしているか。山本太郎が常識を破ってでも天皇に知らせなければと思いつめた、まさにその問題だ。おそらく山本太郎は、知性に溢れよく勉強もし、かつリベラルな思想の持ち主である天皇(皇后も)に、フクシマの真実を、あの場を利用してどうしても伝えたかった、ただその思いしかなかったんだと私は思う。(右派メディアのどこかは「明らかにカメラを意識したタイミングで手紙を渡した」なんてバカなことを書いていたが、逆にあの場でカメラを避けて渡すことは不可能だったろう。)われわれ熱い山本太郎支持者は、その思いを共有しているからこそ、無条件に彼を擁護するのだ。
それに対して、危機意識が希薄で、20年、30年かけて脱原発とか、ある程度の再稼働は仕方ないとか、政府の基準値以内の食品は安全だとか、除染によって県民の早期の帰還をとか、(子どもや原発作業員を含めて)健康問題は心配するほどのことはないだろうとか、数年以内にマグニチュード8クラスの大地震は起きるかもしれないが、まさかまたフクシマみたいなことにはならないだろうとか、その程度に考えている人にとっては、山本太郎の心情はおそらく絶対に理解できないのだろう。
実は、この温度差は、私が2012年3月から1年間緑の党に属していた時にも強く感じた温度差であったし、最近『日本滅亡』という反原発小説をKindleから出してからも感じている温度差だ。この小説を読んだある読者は、脱原発の心情を持ちながらも、「過剰に不安を煽る内容」に不快感を抱いたという。また、批評をいただこうとして原稿を読んでもらったある文芸評論家(彼は政治的には社民党・原水禁などに近い立場)は、真っ先に私の「強い危機意識」を感じたといい、はっきりとは述べなかったが、この小説にある種の違和感ないしは不快感を覚えたようだ。
今回の事件でひとつはっきりした点は、彼が国会内で被曝の問題を取り上げようとしたら、彼は孤立無援でたたかわなければならないということだ。秘密保護法案さえはっきりとたたかう意思を表明している議員は数えるほどしかいないほど、この国の国会は腐り果てている。安倍が憲法を改悪するまでもなく、この国の民主政治はすでに死んでいるのだ。
その国会で被曝、避難の問題はタブーだ。山本太郎が天皇に手紙を渡そうとしただけで議員辞職とまで過剰に反応するのは、ひとつには天皇というタブーに触れてしまったからであると同時に、被曝、避難というタブーに触れたからでもある。
そして、タブーに触れた人間は、この国では空気を読めない奴としてムラ八分にあう。いじめ社会=ムラ社会では、いじめ=ムラ八分の対象に直接手を下すのは一部のやつら(この場合は自公与党や維新)だが、決して彼を擁護する者もいない。いじめは常に多数派によって見て見ぬ振りをされる。来週、もし山本太郎が議員辞職勧告案を突きつけられるような事態になった場合、明確に反対票を投じる者はいるだろうか、はなはだ疑問である。共産、社民、生活も、もしかしたら棄権や退場という「見て見ぬ振り」を決め込むかもしれない。
山本太郎を守れるのは、私たち熱い山本太郎支持者=反被曝派だけなのだ。
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