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3.11以降強化された〈ムラ社会〉-美味しんぼとgodzilla [Criticism]

3.11から3年余り。あの地震と津波と原発の爆発を経験した私(たち)は、常にこうあるべき日本と、こうでしかなかった日本のギャップに引き裂かれてきた。あるべき日本の姿をいえば、東電福島第一原子力発電所の爆発事故のみならず、千年ぶりに襲った大地震と大津波に直面し、そこから本来、過去60年余りにわたって繁栄してきた戦後の経済的発展の遺産の上に、今こそそこから訣別して21世紀の世界に先駆ける新しい社会へ向けて真の復興と再生を遂げていくべきであった。そして、3年前の津波と原発の爆発によって荒涼と広がった瓦礫の山を前に呆然と佇む私(たち)は、それに敗戦後の2発の原子爆弾に焼き払われた広島と長崎に象徴される焼け野原の瓦礫を重ね、そこから奇跡の復興を遂げた戦後日本を思い起こし、新たな奇跡を信じようとした。しかし、現実の日本は、それとは全く逆の方向へと舵を切った。現状を1948年のありえなかった像に喩えてみれば、闇経済が国を蝕み、悪と暴力が社会を支配し、多くの無辜の民が餓死していく飢えと貧困の1948年である。
戦後日本社会は、〈ムラ社会〉を土台にして、その上に「民主主義」の外套を身にまとうことによって近代国家の装いを整えた。その装置は、平和国家の上に安定した経済成長を遂げていくには格好の組合せであった。しかし、3.11はその外套を引きはがし、この国をむき出しの〈ムラ社会〉にしてしまった。
〈ムラ社会〉の極端系は〈ムラ社会〉の再生産工場でもある学校における〈いじめ社会〉である。学校(クラス)という特殊な閉鎖空間では、いじめ加害者という特殊なリーダーの嗜好が「疑似社会」の常識として流通する。それがいかに一般社会の常識からかけ離れていていようと、クラスという閉鎖空間の中では一般常識が通用せず、いじめ加害者の嗜好が常識としてまかり通り、クラスの空気を支配する。そして、ひとたびいじめ加害者の眼鏡に適わないと判断された対象は、徹底的にいじめつくされ、排斥される。いじめの対象者は文字通り丸裸にされ、その人格を根こそぎ否定されつくされる。加害者にとっては被害者はうざいから、死ぬしか価値がない存在と見なされる。そうした特殊空間に身を置く者は、自分がそのいじめの対象にならないことだけを考え、それ以外の思考を停止する。そうした閉鎖社会にも、ときおり空気を読めない正義漢が登場する。彼は多くの「中立者」が見て見ぬ振りをするいじめ被害者に味方し、加害者を指弾する。そうすると、加害者の暴力の矛先はそのKYな「正義漢」へと向けられる。彼は彼を取り巻く同調者とともにその「正義漢」を二度と立ち上がれないほどボコボコに打ちのめす。多くの「中立者」は傍観を決め込むが、心情的に「正義漢」に同感する者はまれである。なぜなら、すでに彼らは、外の世界の常識を喪失し、加害者のコントロール下に置かれているのだから。それだけでない、徹底的に人格を破壊され尽くしたいじめ被害者も、必ずしも「正義漢」の登場を歓迎するわけではない。なぜなら、「正義漢」がボコボコにやられた後に、加害者のさらに凶暴化した暴力が自身に及ぶことを知っているからだ。
3.11以降の〈ニッポンムラ〉にとって、いじめの第一の対象はまさにフクシマの民である。彼らはことの発端からすでに棄民と決定された。やろうと思えばできたヨウ素剤の配布SPEEDIの公表も意図的にサボり、大量の初期被曝という暴力に晒された。さらにクラス(県)の加害者は被害者をクラスの外に出さずにクラスの勢力を維持するために、遠くのクラスから被害者をクラスの外に逃がさないための洗脳工作員を呼んだ。そうして県民を閉鎖空間に封じ込め、その多くをマインドコントロール下に置くことに成功した。しかし、忘れてならないのは、加害者にとって被害者はうざい存在、死ぬしか価値のない存在にすぎないことである。加害者にとってクラス内での絶対優位さえ確保できれば、被害者は死のうが病気になろうが知ったことではない。ただ、その原因が自分にはないと思い込ませればいいだけのことである。
そこに今回登場した空気の読めない正義漢は、雁屋哲という人物である。彼はクラスの外、そして学校の外の常識をもって、フクシマの異常さを告発した。だから、彼が加害者とその同調者によってボコボコに叩かれるのは、ある意味当然のなりゆきであった。そして、多くの傍観者らも、彼に同調するのは少数者であり、大部分は思考停止か加害者の消極的同調者である。
こうした異常ないじめ社会は、フクシマのみならず、今や日本社会そのものを支配する空気となってしまった。〈ニッポンムラ〉の加害者集団は、今や世界の常識から大きく逸脱し、理性も知性もかなぐり捨てて、ひたすら自分の嗜好、情念の赴くままに勝手に振る舞い、その同調者らは悪乗りして「○○殺せ!」と憎しみを限りに叫び続け、いじめ被害者に暴力をふるう。3.11から3年余りを経て、今この国は、水爆実験に汚染された島から目覚めた怪獣ゴジラのような奇怪な風景をさらけ出している。

ゴジラといえば、もうすぐハリウッド版GODZILLAがアメリカで封切られる。日本でも7月頃上映されるそうだ。しかし、もしこの映画が、日本で制作されていたら、おそらく国をあげて上映阻止に動いたであろう。「福島の風評被害を煽る」「福島県民に対する差別だ」というような理屈をつけて。上映禁止というような強権的措置はとらないだろうが、同調者をして上映館に圧力をかけさせ、空気を読んだ上映館は次々と上映を中止し、結局上映不能に陥るのだ。
さすがのこの国の加害者集団も、アメリカ製のこの映画にそのような乱暴な措置を強行する可能性は低いだろう。もしそんなことをすれば、またまた世界の常識の笑いものにされるだけだから。
いじめ加害者も「正義漢」が影響力を行使できないマイナーな存在だとシカトを決め込む。例えば、「朝日のあたる家」とか「希望の国」、はたまたフクシマの真実のみならず〈ムラ社会〉の本質にも迫った「おだやかな日常」等というマイナーな反原発映画はほっておけばいいのである。だが、「美味しんぼ」のように、大手出版社の出す社会的影響力のあるエンタメまんが雑誌の人気まんがの「正義漢」は、「たかがまんが」としかとするわけにはいかなかった。
ゴジラの話に戻るが、アメリカのオフィシャルサイトの予告編では、どういうわけかアジア版のみ、原発が爆発するシーンがのっていない(http://www.godzillamovie.com/)。ワーナー側の配慮か東宝等日本サイドの要求なのか、7月上映に向けて日本版予告編が各映画館で上映される際には、原発爆発シーンはおろか、少しでも原発を連想させるようなシーンは一切カットされることだろう。(下手をすると本編にも手が加えられる可能性すら否定できない。)

GODZILLA.jpg

かくして、あるべき日本とこうでしかなかった日本のギャップに引き裂かれ、もだえ苦しんでいるのは、この国で私ひとりだけなのだろうか?
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