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脱原発-反原発と終戦-敗戦のアナロジー [No Nukes]

3.11以降、フクシマを許してしまった一部活動家による孤立した「反原発」闘争への反省から、より幅広い国民的コンセンサスを得るべく「脱原発」という言葉が造語され、かつ流行さえした。そして実際、脱原発は国民の7~8割の支持を得ることに成功した。
私も、3.11によって初めて原発の本質に気づかされた愚者のひとりとして、脱原発陣営に身を置いてきた。しかしこの脱原発という言葉は、原発と福島の事故の本質や責任等を曖昧化する負の側面もあわせ持っていた。実際、脱原発と言った時、それはいつ実現すべきものなのか、発電手段としての原子力はそもそも認められるものなのか、事故の責任はどこまで追及すべきものなのか等々に関して、一切不問に付してきた。その結果、当時の民主党政権は2030年代の脱原発をめざすとする「脱原発依存」なる言葉までつくりだして、より問題を曖昧化したし、国民の7~8割の脱原発の中身も極めて曖昧模糊としたものに過ぎなかった。
脱原発を政治の責任として問うべき2012年末の総選挙で原発推進派が大勝した現実を前にして、私は自身の揺るがぬ信念を担保するためにも、この曖昧な言葉と訣別し、自らを反原発派と任じることにした。
思えば2011年3.11を巡るこの脱原発-反原発の差異は、1945年8.15を巡る終戦-敗戦の差異によく似ている。8.15という日本という国家そのものと戦争を遂行してきた軍部の紛れもない敗北を、「終わる」という自動詞で表現することによって、あたかも季節が移ろうかのごとくに戦争が終わったことにして、当時の為政者どもは自らの万死に値する責任を回避したにとどまらず、国民総体にも戦争と敗戦の意味を思考する機会まで奪い去った。
したがって、日本の「終戦」はドイツやイタリアとは異なり、あくまで連合国によって強制されたものに過ぎず、天皇制の存立はおろか、一切の後始末を連合国の手に委ねることしかできなかった。
敗戦という現実と真っ向から対峙することを回避したために、国民はその本質を見極め、責任者を自らの手で裁く責任を放棄し、為政者どもが形を変えて復活する道を許した。そうして戦後政治の舞台に紛れ込んだ軍国主義の亡霊とその末裔どもが、後日「東京裁判は戦勝国による一方的な裁判で無効」「日本国憲法はアメリカの押しつけ」などという恥知らずな主張を展開し、敗戦という悲惨な事実そのものを隠蔽して、侵略戦争を美化する道を切り開くことを許すことになったのだ。
脱原発という曖昧な言葉も、同様に、いやそれ以上に、急速に原発推進勢力が息を吹き返す道を許してしまった。私たちは3.11によって、あの事故からはっきりと反原発という教訓こそ引き出さなければならなかった。そして、事故の責任を徹底追及し、いつやめるか不確かな脱原発ではなく、即時全原発廃炉を迫っていかなければならなかったのだ。
しかし、フクシマの「戦犯」は当時の民主党政権ではなかった。私たち市民が、政権交代前後から民主党を市民政党として育て支えてきていれば、民主党政権はあのような事故対応の誤りを犯すことはなかっただろう。そして、「脱原発依存」などという曖昧模糊とした方向性を打ち出すことを許さなかったであろう。そして、敵=「戦犯」が自民党であることが明白であるからには、私たち自身が「市民自治政府」などという理想を実現する実力を持たない以上、2年前の選挙では当時の与党・民主党をも包摂した幅広い「反原発戦線」を構築して、ゲンパツ戦犯=自民党の復活を絶対に阻止しなければならなかったのではなかろうか?
私たち日本国民は2度の「敗戦」を経験しながら、それを「敗戦」と気づかぬまま、「終わった」ことさえ自覚せずに、連綿と変わらぬ、変われぬ社会を維持し続けている。幸いにも8.15によってもたらされた「終戦」は戦後復興と経済成長の明るい未来を約束してくれたが、3.11によってもたらされたフクシマ後の社会は、変われぬゆえの破滅と滅亡を暗示しているだけだ。
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