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(最終回)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑨相手を殺す武器ではなく、共に生きるBIを! [Basic income]

現物支給のベーシックインカム
 完全なベーシックインカムが実施された後に始まるポスト資本主義社会では、賃金労働が消滅するため、それと同時に貨幣もその歴史的使命を終える。人々は、ロボットが生産する十分な消費財を必要に応じて〝ただで〟消費することができる(この意味でポスト資本主義社会は、マルクスのいう高度の社会主義社会=共産主義社会と似ている*)。そしてこのとき、ベーシックインカムは貨幣による支給から現物支給になるだろう。
*マルクスは共産主義社会の低い段階(社会主義)では「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」が、共産主義社会の高度の段階では「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」とした。(カール・マルクス著『ゴータ綱領批判』1875)
 しかし、だからといって、人々は必要以上に、欲望に応じて消費することはできない。その意味で、ベーシックインカムの基本理念はポスト資本主義社会でも維持されるであろう。
 なぜなら、ポスト資本主義社会でも、誰にでも手に入れることのできる財と、そうでない財とがあるからである。もちろん高度に発達したポスト資本主義社会では、現在と比べて自由に手に入れることのできる財の種類と量は増えるであろうが、それでも、特に先端産業に関連する財やサービスは、誰でも手に入れることはできないであろう。
 たとえば、50年後の社会では、月旅行は誰でも行けるようになっているだけでなく、レジャーとして誰でも行く権利を有しているかもしれないが、火星旅行はまだ誰でも行ける段階ではないかもしれない。あるいは、火星までは行けても、木星や土星旅行は限られた人しか行けないかもしれない。
 また、もっと先の未来社会では、バーチャルなタイムマシーンは開発され実用化されて誰でも利用可能なものになっているかもしれないが、リアルなタイムマシーンは実用化にこぎつけたばかりで、タイムトラベルはごく一部の人々にしかできないかもしれない。

人類の文明が生み出した殺人・戦争・犯罪
 動物の世界でも、食料の豊かな環境では、ひとつの群れ、ひとつの種のみならず、異なる種の間でも争いが生じず、平和な共存・共栄関係が生まれる。反対に、食料の乏しい環境下では、厳しい生存競争が生じ、環境に適応できる個体、環境に適応した種のみが生き残る。
 一方、霊長類のうち集団生活を営む種は、ボスザルを中心に厳格な順位を形成し、また食料をめぐる群れ同士の争いも絶えない。人類の場合、武器を発明したことと、文明を生んだことにより、その習性が局限化して、他の動物ではほとんど観察されない集団内の無益な殺し合い、集団同士の殺戮=戦争、そして極端な階級社会を生んだ。
 資本主義社会はその人類が到達した極限的な文明の形態であり、したがって、ひとつの社会のなかにおける殺人を含む犯罪が激増し、*戦争は核兵器を頂点とする近代兵器による大量殺人をもたらした。そして階級社会は一方で飢餓と疾病の蔓延、他方に途方もない富の集中をもたらした。
*犯罪の多くはお金が関係している。万引き、すりといった犯罪から、保険金がらみの殺人、強盗等々、犯罪の多くはベーシックインカムの導入によって激減することだろう。

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(図1)

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(図2)


以上、法務省『平成27年版犯罪白書』より

 図1は「自動車運転過失致死傷等」を除く犯罪が、多かれ少なかれお金がらみであることを推察させる。過半を占める「窃盗」がそうであることは論を待たないが、その他の一般刑法犯でも、家族間や男女間、近隣トラブル等を除いた多くの事件で金銭が関係していることが容易に想像できる。
 図2のいちばん上はその一般刑法犯の内訳を示しているが、「窃盗」「横領」「詐欺」が明らかに金銭がらみであるし、「傷害・暴行」の一定割合も金銭がらみであろう。つまり、一般刑法犯の7~8割は金銭がらみの犯罪と考えることができるのだ。
 また、高齢者の犯罪を見ると、特に女性の場合、圧倒的に「窃盗」、それも「万引き」が占めていることは、高齢者の貧困化を合わせ考えると、決して「精神的問題」でないことは明白だ。

試される人類の英知
 しかし、資本主義は同時に、人類がかつてなしえなかった生産力を手にして、急激に増加した人口にもかかわらず、すべての人々が飢えずに暮らせる食料、すべての人々が健康で文化的に暮らせる生活手段を手に入れることを可能にした。
 今、その資本主義の終末期を迎え、人類の英知が試されている。類人猿の性(さが)を克服できずに、理性ではなく反知性の道を歩むのか、あるいは文明を手にした人類にのみ備わる知性をいっそう磨いて、本能を克服して全人類共生の道を踏み出すのか。
 2001年9・11のアメリカ同時多発テロ事件で始まった21世紀は、一方で「イスラム過激派」のテロとそれに対抗する欧米諸国の〝テロとの戦い〟を生み出すと同時に、西側社会内部でも貧富の格差の拡大=1パーセント対99パーセントの対立・矛盾を、移民排斥やBGLT等マイノリティーへの憎悪・差別等、排外主義的方向へ扇動する極右勢力が各地で台頭している。ヨーロッパ諸国における極右政党の伸張、アメリカ大統領選挙でのトランプ旋風はもちろん、日本会議が陰で蠢く安倍政権の改憲を最終目標とした一連の動きも例外ではない。
 こうした流れが加速すると、世界中で様々な勢力によるテロ事件が続発し、憎悪が憎悪を呼び、世界資本主義は戦争と内戦の混乱のなかで幕を閉じ、暗黒世界への扉を開くことになりかねない。しかし、現代のテロリズムはどんな思想的・宗教的外観を装っていても、そこに若者をはじめとした多くの人々を吸引するブラックホールの中身は、貧困・差別・孤立・絶望等からくるどす黒い憎悪の渦にほかならず、それは日本においては2008年の秋葉原無差別殺傷事件に代表されるような通り魔的犯罪にも通底するものである。
 今こそ人々は理性的に判断し、知性を持って行動し、国内レベル、国際レベル双方にわたる1パーセント対99パーセントの対立・矛盾を、全人類共生の道へと逆転させなければならない。そのために私たちが手に取るべきものは、相手を殺す武器ではなく、相手とともに生きるベーシックインカムという手段である。
 ベーシックインカムは、社会的殺人も世界的戦争もなく、豊かな食料と文化生活を誰もが等しく分かち合うための人類史上最上のシステムを、私たちに保障してくれるだろう。社会福祉が掲げた「ゆりかごから墓場まで」のスローガンは、ベーシックインカムによって労働から分離され、初めて完璧な実体を獲得する。

ベーシックインカムによって差別のない、すべての人間が真に輝ける社会を
 2016年7月26日に神奈川県相模原市の知的障がい者施設で起きた19人の大量殺害事件は、日本社会に大きな衝撃を与えた。犯人の男は「障害者は生きていても無駄」「安楽死させた方がいい」と述べていたという。私は、この事件はひとりの〝狂人〟が起こしたきわめて特異な事件とは思わない。その「優生思想」的な差別意識は、数年前からこの国に顕著になっていた「朝鮮人殺せ!」「国に帰れ!」という排外主義的なヘイトスピーチや、「働かない者が税金を食い物にしている」という生活保護バッシングなどにも通じるものがあると思う。「優生思想」は社会に役立たない者は必要ないという考えであり、その判断基準は労働力として使えるかどうかである。そのように経済観念で人間の価値を判断するのは、実は資本主義社会の普遍的価値尺度であり、近現代民主主義の平等主義は、実はそのような人間の価値の優劣を前提としたうえでの法的担保(=法の下の平等)に過ぎないのだ。
 国民経済が行き詰まったとき、国は国民の批判が自らに向かうのを避けるために、その矛先を外へ向けたり(排外主義)、国民同士を争わせたり(差別・分断支配)する。古くからの国家による国民統治の常套手段だ。
 相模原の凄惨な事件は、バブル崩壊後この国が歩んできた「失われた四半世紀」の果てに現れた排外主義や差別主義が極端なかたちで暴発した例と捉えられ、その根は欧米諸国をはじめ世界中で多発するテロリズムへ若者を駆り立てる怒りや憎悪といった情念にも通底するものだと思う。
 ベーシックインカムのある社会が「働かざる者食うべからず」の社会通念を覆すものであることはすでに述べたが、それは一歩進んで経済に役立つかどうか、労働力として有用かどうという人間に対する価値尺度も根底から覆すものである。
ベーシックインカムのある社会で重要なのは、人が優れた仕事をするかどうか、多くの人々に認められる仕事を残すかどうかにあるのではない。人はただ、生まれてくるだけで生きる意味がある。現在では価値を生まない=労働のできない「福祉の対象」、「社会のお荷物」とまで蔑まれている人々も、生きているだけで意味があり、それどころか何らかの労働をなすだろう。その労働は、家族を和ませることかもしれないし、誰かに愛され、あるいは誰かを愛することかもしれない。いや、周囲の人々を怒らせたり、反発を引き起こし、そのことによって何らかの問題を提起することかもしれない。
そのとき初めて、「優生思想」はその経済的根拠を失い、それに基づいた差別意識もなくなるだろう。
また、世界的なベーシックインカムが実現した暁には、民族対立や宗教対立の衣をまとった排外主義の根拠も喪失するだろう。他民族や人種、異なる宗教を持った人々を憎悪したり蔑んだりする理由が消失するだろう。
ベーシックインカムのある社会では、今までとうてい労働と思われなかったようなことが労働になる代わりに、今では立派な労働であり、その労働によって成り立っているいくつかの「産業」が、消えていくか、規模を大幅に縮小するだろうことは先にも示唆した。毎年のようにモデルチェンジする商品。ゴミとして捨てられるほど生産される食品。ただ時間を埋め広告収入を得るためにだけ制作されるテレビ番組。毎日雨後の竹の子のように登場するゲームソフト。年々増えていく新たな「病名」とそれを〝治す〟新薬。保険業。教育産業。そして「公共事業」等々だ。手段と目的が逆転し、成長のため、金のために無理矢理つくりだされてきた仕事と産業自体が、もはやゴミ箱行きだ。
 その最たるものが原発だろう。だが、こればかりはゴミ処理に何百年もの歳月を要することだろうが……。
 そして、ベーシックインカムが世界的規模で実現したとき、テロという仕事、戦争という産業も消滅することだろ。
 
 日本とスイスのある意識調査によると、生活するに十二分なベーシックインカムが支給されたら何に使いたいかとの質問に、両国ともに目についた回答は「旅行」だった。今は旅行といえばレジャーか趣味としか認められないが、ベーシックインカムのある社会では、旅行は立派な仕事、旅人は立派な肩書きになるかもしれない。
 思えば江戸の昔、松尾芭蕉の仕事は旅だった。ただ彼は、旅をしながら俳句を詠み、それが人口に膾炙したため、彼の名は後世に伝えられることになったのだ。ベーシックインカムのある社会では、無数の旅人たちの中から、後世に残る画家や写真家、エッセイスト、小説家等が生まれることだろう。
(終わり)
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