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(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑧ベーシックインカムの哲学(2) [Basic income]

自らの仕事を自らの意志で選択する自由
 子どものころ見た子ども向けテレビ番組で、文明の非常に発達した星の宇宙人が登場し、その容姿が、手足が退化して体のほとんどが頭部であるというグロテスクなシーンを覚えている。私たち人類も、あらゆる労働から解放されるとそのような姿に〝進化〟するのだろうか? あるいは無為徒食の果てに、胴体だけが異様に膨れあがった醜い姿に変わるのだろうか?
 しかし、そう思うのは〝労働〟の概念を賃労働=疎外された労働という資本主義社会の〝常識〟でものを見ているからだろう。私たちは、賃労働=疎外された労働から解放されたとき、本当の意味で自分の能力・才能を活かした仕事、やりがいのある仕事をする自由を手に入れることができる。先にも触れたように、それは過渡期社会でベーシックインカムが徐々に導入されていく過程で、人々が少しずつ手に入れていくことができる自由だろうが、完全なベーシックインカムが実現したとき、同時に私たちは自らの仕事を自らの意志で選びとる完全な自由を手に入れるのだ。
「リアル・リバタリアニズム(real-libertarianism)」を主張する哲学者でベーシックインカム世界ネットワーク(BIEN)国際委員会座長を務めたフィリップ・ヴァン・パリースは、「万人への最高水準の無条件所得」、つまりここでいう「完全なベーシックインカム」について、次のように述べる。
「これは,実にラディカルな提案である.リバタリアンやそれに近い人々が狭い自由概念を死にもの狂いで模索しているのに比べてそうであるのみならず,標準的な社会民主主義的立場に比してもラディカルである.標準的な社会民主主義は,できる限り豊かに消費する実質的自由に注目するあまり,できる限り慣習にとらわれずに生きる実質的自由を見失ってしまうことになる.別の立場から見れば,この提案は実に馴染み深いものと見なされるかもしれない.例えば,それは「科学的」社会主義や「ユートピア的」社会主義のような古い資本主義批判のキーとなる要素――すなわち,プロレタリアートの賃労働関係への従属と資本主義のルールに対する反抗――を最もストレートに反映していると見なされる.それはまた,最近の「グリーン」や「オルタナティブ」の諸運動に見られるような,生活の質や自己実現,さらには金銭的なことから離れた個人間関係の維持などを――なるべく多く金を稼ぐよう方向付けられたキャリアによって可能となる物質的欲求の充足をではなく――強調する立場とも協調できる.ただし,万人の実質的自由の提案がこれらの関心を包含しうるのは,それらがリベラルないし非卓越主義的な立場と矛盾しないかぎりにおいてである.この制度的枠組みの提案[万人への無条件所得]が企図しているのは,賃労働や職業中心の生き方をできるかぎり縮減することではなくて,各人に異なる選択をする真の機会を提供するためにできるかぎりのことをする,という点である.」(P.ヴァン・パリース著、後藤玲子・齋藤拓訳『ベーシック・インカムの哲学』勁草書房、2009年、強調引用者)

ロボットと共存しうる文化的活動
 では、そのようにして手にすることのできる〝仕事〟とは、具体的にはどのようなものがあるのだろうか。石黒浩氏は「人と関わり情報交換をするというような仕事」と述べ、また、別のところで、
「真に新しい技術を受容する際には、これまで人間の一部だと思われていたことの変更を必ず伴う……それでも、いったん技術に置き換われば、これはもう明らかに人間の独自性を証すものではない。そこで必然、それ以外のまだ技術で置き換えられずに残っているものに、人間らしさを見出そうということになるわけだ。ここからひとつには、科学技術が発達すればするほど、人間だけに可能な、したがって人間が行うべきことは何かという課題が絞り込まれてくる」(石黒浩・池谷瑠絵前掲書)
と問題提起しているが、私の考えでは、そうした仕事の大部分は、広い意味での〝文化〟に関わるものではないかと思う。
 スポーツ、音楽、美術、文学、演劇等、現在では一部の有能なプロフェッショナルを除いては〝趣味〟として余暇を楽しむものにしか過ぎないそれらの文化活動が、ポスト資本主義社会では人々にとっての大切な〝仕事=労働〟になるだろう。同時に、現在一部の有能なプロフェッショナルによって極度に商業化されビジネス化されて商品化されてしまっているそれらのパフォーマンスが本来の姿を取り戻すことにもつながるだろう。*
*本来「平和の祭典」として始まった近代オリンピックが、商業主義に毒され「国威発揚」というナショナリズムの具とされるに至り、「参加することに意義がある」はいつの間にか「メダルを獲得することに意義がある」ということにされて、そこをめざすことのできる選手は、多くがやはり親が有能なアスリートで幼少期から英才教育を受けて競争に勝ち抜くことのできたエリートたちであり、あげくの果てにそのエリートアスリートらがドーピングで自らの肉体を蝕みながらも「栄冠」を手にする様は、スポーツさえ「疎外された労働」になり得る資本主義社会の狂気の惨状を示しているといえないだろうか。
 もちろん、こうした分野にもロボットやアンドロイドの進出は可能であろう。実際、すでにトランペットを吹くロボットや、振り付けに合わせて歌を歌うアンドロイドが存在する。初音ミクというバーチャルな〝アイドル〟さえ登場している。
 将来、技術的に人間を凌駕するロボットアーチストやアスリートが登場するであろう。しかし、コンピューターがチェスの王者の座について久しいが、そのせいでチェスをやめた人がいると聞いたことはない。それは第一に、文化的活動は疎外された労働と違い、活動そのものがそれを行う者にとって喜びと充実感を生むものであり、また、それを受け取る側も、〝機械〟では得られない〝感動〟をプロのアーチストやアスリートから得ることができるからだろう。そういった意味で、文化活動は、将来ロボットやアンドロイドの様々な形でのそこへの参入はあり得るとしても、反対に人間がそこからロボットやアンドロイドによって駆逐されることはないのである。
(続く)
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