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(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑦ベーシックインカムの哲学 [Basic income]

自己実現としての「労働」
 平日の昼下がり、あるポストモダンな街の駅前広場――ひとりのストリート・ミュージシャンが無心に楽曲を奏でていた。どこの街角ででも見られるような風景であるが、ちょっと風変わりなのは、その曲がロックやフォークでなく、クラシックであること。青年がシンセサイザーの伴奏とともに電子オーボエのような楽器でひとり演奏していたのは、サン=サーンスの「白鳥」。行き交う人はまばらで、広場ではひと組の母子が時を忘れたように戯れている。音楽はそんな間延びした時空に溶け込んで、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 週末ならいざ知らず、官庁街の昼下がりにそれはあまりに不釣り合いで、もちろん喜捨する人とてない。青年は何のために演奏を続けているのか? それに何の意味があるのだろうか? それは果たして「労働」と呼べるものなのだろうか?……様々な疑問が私の脳裏をよぎった。
 私は今日の昼間、数時間翻訳の仕事をした。それは、納品先の翻訳会社が支払日前に倒産でもしない限り、ほぼ確実に私になにがしかの翻訳料金をもたらしてくれる。そして今、私は夜のしじまのなかでこの一文をしたためている。いくら書いても何の報酬ももたらしてくれるという保証はない。しかし、昼間の労働は収入のための仕方のない義務的な労働であるが、今の作業は何の物質的見返りも保証しない代わりに、書きたい、書かねばならぬという内発力に突き動かされて、ささやかな自己実現を感じさせてくれる。
 昼間の青年の行為も、おそらくそれと似ているのであろう。彼は、夜、食べるために金を稼ぎ、昼間、こうしてあちこちの広場で自己表現をして、その音楽に何か触発される人のいることを期待し、そこに〝科学変化〟を感じたときに自己実現を覚えることができるのであろう。
 私が、ポストキャピタリズムの社会にイメージすることのできる〝労働〟とは、まさにこのようなものである。むろん、それはこうした表現活動、ある種の芸術活動にとどまるものではなく、人によっては先端科学の発展に寄与するような研究活動であるだろうし、また、他の人にとっては、他人の庭を剪定することによってその家の人に喜んでもらえることであるかもしれない。
 とにかく、無償ではあるが社会的に意味のある活動-それがポストキャピタリズム社会の新たな〝労働〟の概念となるのではなかろうか? そして、それこそが商品として疎外された労働から止揚された本来の、あるいは未来の人間労働の姿なのだろう。
 そのポスト資本主義社会への長い過渡期の架け橋の役割を果たすものが、まさにベーシックインカムなのだ。ますます減っていく「雇用」=お金を生み出す労働に対し、人々にベーシックインカムを保障することは、仕事(賃労働)=人間の存在価値という資本主義的概念を破壊し、自分のやりたい創造的活動をすることが自己実現である社会へと価値観を転換していくことに大きな役割を果たすであろう。広場の青年は、金を生み出す労働の量を減らしつつ、食うことの心配をせずに、音楽活動に打ち込めるようになるわけだ。
 そんな近未来社会を幻視させる青年の幻想的な「白鳥」の演奏だった。

ポスト資本主義社会の輪郭を想像する
 ハリウッドのSF映画を見ていると、近未来のアメリカは、高度にIT化されロボットやアンドロイドが活躍するポストモダンな社会が実現されている一方で、ダウンタウンには衛生状態のよくない広大なスラムに、ぼろをまとった人々が群がっているという場面をよく目にする。私は最初、そうした場面をいかにもアメリカ的な描写だと笑いながら見ていたのだが、次第に笑ってばかりいられなくなった。スラムの彼らがどうやって食っているのかは多くの場合不明だが、これぞポスト資本主義社会のリアルな姿なのかもしれないと思えてきたからだ。
 しかし、考えてみれば、数百年ごとに訪れる時代の転換期には、パラダイムの転換が必ず伴うものだ。今日私たちが自明の理と考えている(広義・狭義の)民主主義も、科学的合理主義も、中世社会では全く通用しなかったしろものだ。(日本においては、その民主主義さえ、たかだか半世紀余りの歴史しか持たないのだが。)
 したがって、私たちがポスト資本主義社会を、資本主義社会の常識や固定観念で考えようとしたら、おそらく何も見えてはこないだろう。資本主義社会の先に社会主義社会を構想したカール・マルクスでさえ、工業社会と労働者階級、そして資本主義社会の生産力水準を前提としていたために、それはたかだか資本主義社会の亜種か相補物でしかなかった。そしてまた、現実の社会主義は発展する資本主義を凌駕することができなかったために、その敗北は必然であったともいえる。社会主義は決して資本主義を越えるもの、資本主義の先にあるものではなかったのである。あえてマルクスを擁護しようとすれば、彼は天才であったために、余りに早く〝ポスト資本主義社会〟を構想してしまったのだ。
 しかし、リーマンショックを契機に、いよいよ資本主義が待ったなしの崩壊過程に入った現在、常識や固定観念にとらわれずにその先を見通そうとすれば、私のような凡才にも、ある程度その輪郭を垣間見ることができるかもしれない。

〝成長〟という自転車にまたがった資本主義体制
 資本主義は産声をあげた瞬間から、常に成長することを義務づけられたシステムであった。人類は文明を持った時から発展を続けてきたが、資本主義は単なる発展ではなく、明確に経済の成長を自己目的化し、〝成長〟はその時代を生きる人々に強迫観念のごとく意識にすり込まれた。資本主義はいわば〝成長〟という自転車にまたがったシステムであり、倒れないためには死ぬまでこぎ続ける宿命を負わされているのである。
 そのおかげで、産業革命後の世界は目の回るような経済成長を遂げ、人々の暮らしは加速度的に高度化してきた。本来経済が発展し社会が豊かになることはいいことではあるが、〝過ぎたるは及ばざるがごとし〟である。飽くなき成長の追求は、資源の枯渇、公害、環境破壊等、回復の難しい様々な問題を生み出してきた。そして今、資本主義はすべての事物に始まりと終わりがある通り、終焉を迎えるべき時期に入りつつある。資本主義は200年余りこぎ続けた自転車から、そろそろ降りるべき時期を迎えているのである。
 にもかかわらず、世界はいまだ〝成長神話〟の呪縛から解き放たれていない。例えば、世界人口の約4割、GDPでは世界全体の約半分を占めるAPEC(アジア太平洋経済協力)は、2015年11月にマニラで開催された首脳会議で、「これまでどおりの成長」を続けることはできないとしながらも、「より均衡のある、持続可能で革新的な、かつ安全な成長を追求する」という「2010 年APEC首脳の成長戦略」を再確認しながら、2020 年を期限とする「質の高い成長を強化するためのAPEC戦略」に合意することによって、「均衡ある、包摂的な、持続可能で、革新的で、安全な成長に向けた我々の野心を再確認」した。

〝成長〟〝消費〟という強迫観念からの解放
 〝成長〟とともに資本主義を特徴づけたものは〝消費〟であった。生命体が成長を続けるためには栄養を摂取し続けなければならないように、資本主義社会が成長を続けるためにはモノをつくって消費し続けなければならない。とりわけ資本主義が爛熟期を迎えた大衆消費社会においては、資本主義は成長と消費という目的のために、人々に消費が美徳であるという観念を植えつけ、かつそれを実現するために、〝使い捨て文化〟を生み出した。
 ものを大切に扱い、長く使い続けるという美徳は資本主義の成長の阻害要因であったために否定され、人々はどんどんモデルチェンジして進化していくが決して長持ちしない大衆消費財を買い続けた。
 この時期の人々のライフスタイルは、一生懸命働いて得たお金を、最新のファッション、グルメ、海外旅行などに消費し、ローンを組んででも自動車やマイホームを手に入れるというものだった。そうして手に入れた衣服は毎年新しいものと買い換えられ、食べきれない飲食物は大量の残飯としてゴミになり、ローンをようやく払い終わった自動車は最新型の新車に買い換え、家でさえ30年も経つと建て替えられる運命にあった。
 ポスト資本主義社会は、こうした反省にたって、資源の消費ではなく循環をめざすであろう。〝成長〟という強迫観念から解き放たれさえすれば、むだな消費と決別することは簡単である。現在の(あるいは未来の)技術は、10年着られる上着、20年使える冷蔵庫や洗濯機、30年使える自動車、そして百年住める住宅をつくることが可能なはずだ。むろん技術革新は続くであろうが、現在のように強制的に古いものを廃棄して新しいものに置き換えるのではなく、徐々に置き換えたり新たに追加したり、あるいは古いものを改造する方法だってあるはずである。ポスト資本主義社会はそうした新たな〝循環型文化〟を生み出すだろう。
(続く)

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