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『宰相A』―パラレルワールド? 現実世界の鏡像 [Criticism]

正直に告白すれば、私は著者の田中慎弥という作家をこの『宰相A』を通して初めて知った。当然、彼が2012年に「共喰い」で芥川賞を受賞したほか、様々な文学賞を受賞してきた作家であることも。だいたい、芥川賞とかに関心を失って十数年経つ。芥川賞に最後に注目し、読んでみようと単行本化される以前に「文藝春秋」を買って読んだのが、平野啓一郎の「日蝕」だった。そのうえ、ここ何年も、私は小説そのものを年に1冊くらいしか読んでいない。自分自身、たまに下手な小説を書くにもかかわらずだ。せめて月に1冊くらい読んでいれば、私ももう少し小説の腕を上げていたかもしれないのだが……。
私が小説をよく読んでいたのは30代前半までで、それも当時の最先端をいく流行作家の作品ではなく、カビの生えかけた戦後文学とか在日朝鮮人文学ばかり読んでいた。一度、毎年のようにノーベル文学賞候補にあがる売れっ子作家の作品を読んでみたが、私の悪い癖で一度読み始めた本はいくら退屈でも最後まで読まないと気がすまないためなんとか読み終えたものの、二度と彼の他の作品を読む気にはなれなかった。
そんな私がなぜ本書を読む気になったかといえば、「宰相A」のAは安倍晋三のAだとネットで話題になっているのを目にしたからにほかならない。それで早速Amazonで検索してみたところ、新品は品切れで何倍ものプレミアのついた中古品が何点か出品されているだけだった。市内の書店も探してみたが、どこも在庫切れ。その後、何日かして再びAmazonをのぞくと、入荷待ち状態になっていたので予約し、だいぶ待たされた後、1週間ほど前にようやく重版本が手元に届いた。
ちょうどその頃、新聞に「『宰相A』のAは安倍晋三のAです」という著者自身のコメントが載った新潮社の広告が掲載されていた。Aはアドルフ(ヒットラー)のAでもあり安倍晋三のAでもあるという話もどこかで耳にした。
一方で、4月5日付の朝日新聞の書評でも本書が取り上げられていたが、そこには内容紹介が紙幅の半分以上を占め、あとは「読者は自分の中に抱えて見つめるのみだ。知っているはずの世界こそ未知の図式で成り立っているのだから」などと訳の分からない言説でお茶を濁し、何を恐れているのやら、安倍晋三はおろかアドルフの話も登場しない蜂飼耳という詩人兼作家の、書評というのも憚られるようなお粗末な文章も目にした。むろん、田中慎弥さえ知らなかった私は、蜂飼耳という名前もこの時初めて目にした。
それで早速、送られてきた本書を興味津々読み始めたのだが、三百数十枚の原稿なので面白ければまる2日もあれば読み終えるものを、暇な時期だったにもかかわらず4日もかけて読んだということは、それほど〝面白い〟といえる小説ではなかったということなのかもしれない。

A.jpg母親の墓参りにO町を訪れた作家Tは、そこがアングロサクソン系の日本人によって支配され、本来の日本人は旧日本人として居住区に隔離されている不思議な世界に行きつく。いわゆるパラレルワールド(平行宇宙)に迷い込んでしまったというわけだ。しかし、この一見奇想天外、奇妙奇天烈な「もうひとつの日本」は、「同胞が同胞を貶めるこの精神は、しかし、偽物政府による国家運営、旧日本人とその居住区というシステムが生んだものなのだろうか? でなければこれもまた、無抵抗や諦めなどと同じ、かつて日本人でありいま旧日本人である我々の、システムと関わりのない、岩盤状の特質なのではあるまいか?」「ミンナソロッテセイフクヲキル、ソンナジユウヲアジワイタイ、ムサボッテミタイ、という欲望……」等々、「もうひとつの日本」の描写を辿っていくうちに、もしかしてこれはパラレルワールドなどではない、現実の今の日本のメタファーに過ぎないのでは――ということに気づく。大きくは、アメリカに戦争で負けつつそれを認めようとしないままそのアメリカに事実上支配されてきた戦後の日本、狭くは安倍政権以降の今の日本。
「アメリカとともに世界の平和と安寧を目差して、積極的かつ民主的に地球規模の戦闘を継続しなければなりません。それこそが、我が国の目差すべき、戦争主義的世界的平和主義に基づく平和的民主主義的戦争の帰結たる、戦争及び民主主義が支配する完全なる国家主義的国家たる我が国によってもたらされるところの、地球的平和を国家的平和として確立する人類史上初の試みであるところの、完全平和国家樹立へ向けての宇宙的第一歩なのであります……」旧日本人でありながら、多数民族である旧日本人を懐柔するために日本人によって首相の座に据えられた傀儡にすぎない首相Aが英語で述べる演説内容は、全く無意味で形容矛盾に満ちて論理破綻しているのだが、「戦争主義的世界的平和主義」が「積極的平和主義」のパロディーに過ぎないのは誰でもすぐに分かることだろうが、それにとどまらず、昨今テレビのニュースで流れてくる例えば「緊急事態」をめぐる「武力攻撃事態」「武力攻撃予測事態」「緊急対処事態」「存立事態」「重要影響事態」等の言葉、報道ステーションの報道内容に対して自民党が「公平中立な番組作成」を要請する事態等々、政権によって語られる「言葉」の無意味さ、軽さ、空虚さ、すり替え等々と何が異なるのかと思い至ると、その滑稽さは空恐ろしさへと変わる。
そこまで思い至ると、本書の最後の数ページで語られる新しい日本は、まさに今現在の日本であることに、はたと気づくのである。
では私たちは今、どうすればいいのか?
「であれば私は、私にとって迷惑でしかない物語を覆す別の物語を描き出すしかないのではなかろうか? 作家の本分を発揮することがいまほど必要だった例しがあっただろうか? 周りが勝手に仕立てて稼働させる物語が気に食わないなら、自分の手で物語を産み出し、対抗すべきではあるまいか?」

なお、作者は本書を安倍首相に送ったというので、おせっかいにも彼の身の安全を心配していたのだが、本書を読んでひとまず安心した。何故なら、恐らく私以上に小説(特に純文学)など読まないその人は、仮に側近のチェックを通って彼の手元に本が届いたとしても、田中慎弥などという聞いたことのない作者のさして興味を惹かないタイトルの小説など目もくれず、長いこと私邸の書斎(そんなものがあったとして)の片隅で埃を被っていたことだろう。そして最近、取り巻きの口かネットでAが安倍総理を指しているという噂を聞きつけ、新橋あたりで寿司か天ぷらでも食った後帰宅して、寝床に潜り込み最初の1、2ページまで読んだところで、重たい上瞼が下瞼にくっついたきり、二度と読まれることはなかったに違いない。もし仮に、奇跡的に最後まで読み終える忍耐力があったとしても、その人がこの小説の真の意味を理解するとはとうてい思えない。「真っさらな地面に湧き出る泉の一滴。ものを見る、という本来の機能から解放された光に満ちている」目、「何かを見ようという意思が綺麗に欠けている」その人の目では。
ちなみに、あの新潮社がよくこのような本を出版したものだと思うのだが、最初は純文学小説として数千部を適当にばらまいて「はい、それまでよ」のつもりだったものが、想定外の売れいきで話題になったため、普通だったら即重版といきたいところだが、時節柄その方への配慮もあり慎重に検討した結果、もちろん担当編集者の強力な作者擁護もあっただろうが、要は上層部が、上述したように「単刀直入にテレビで政権批判した古賀茂明さんとは違い、難解な純文学作家の地味な小説だから、あの人も本質をよく理解できないだろう」「『I am not ABE』はさすがにあの人も理解し逆鱗に触れるだろうが、『宰相A』だったらいいんとちゃう」という判断に傾き、初版から2ヶ月近く経ってようやく重版となった次第と思われる。

3.11が産み落とした「安倍晋三」という怪獣 [Criticism]

もうすぐ3.11から4年が経とうとしている。あれから私の人生にはすごくいろいろなことがあり、あの頃のことを思い出すと、まだ4年しかたっていない…という気がする。一方、世の中に目を向けても、この4年であまりに多くのことがあり、激しく変化し、なのにまだ4年…と思う。そして、フクシマに目を向ければ、何も終わってはいないし、何もコントロールできていないし、放射能は制御できていない、まだたったの4年しか経っていないのだ。
なのに世間は、もう3.11のことなどはるか昔のことのように、もうとっくに過去の出来事のように思っているようだ。この1年間だけでも、フクシマや原発の報道がどれほど減ったことか!? そして、たとえ報じられたとしても、NHKをはじめ、復興、帰還へバイアスのかかった歪んだ報道が多い。
このブログで何度も繰り返してきたように、3.11こそ、その悲劇を糧にして、日本がいい方向へ変われる最後のチャンスだった。(今やはっきりと過去形で言おう。)実際、3.11によって目覚めた少なからぬ市民が、理不尽な原発を止めようと立ち上がり、翌2012年の夏へ向けて、放射能雲が垂れ込める梅雨空に咲く紫陽花のように、人々の群が大きな塊となって花開いたのだ。
しかし、ターニングポイントはあまりに早かった。野田の自爆解散によるその年の年末総選挙によって、花の果実はすべて摘み取られ、この国が真の民主主義国家へと生まれ変わるチャンスは永遠に奪い去られた。思えば3.11を間に挟んで、戦後初めて選挙によって政権交代を実現した民主党政権も、この時ともに、あだ花として摘み取られた。
そしてそれに代わって登場した安倍政権は、決して3.11以前の自民党政権への回帰ではなかった。3.11はよくも悪しくもこの国を後戻りできない新たな地平へと押し出したのだ。
だからこそ、敗戦後、米占領軍によって与えられた「戦後民主主義」の下、すべて他人任せのお任せ主義で築き上げてきた一億総無責任体制に終止符を打ち、今こそ、3.11によって明らかになった原子力ムラの理不尽をはじめとするこの国の隠された真実と、すべての国民は真正面から向き合い、そして自分の頭で考え、自らの意思で行動することが求められたはずだった。
しかし、この国の多くの人々はまたとないその機会をふいにした。フクシマの事態をわがことと受け止め、原発問題、放射能の問題と正面から取り組んで考えることを放棄し、政府・マスコミの垂れ流す情報を鵜呑みにして、フクシマの現実をなきものにし、3.11を忘却の彼方へ流そうとした。2012年12.16はその答えだった。かくして「安倍晋三」は、3.11の放射能によって受胎したわれわれ日本国民が産み落とした奇っ怪な怪獣であったのだ。だから、その後の安倍政権の暴走は、すべてその結果に過ぎない。
不謹慎な喩えかもしれないが、上村遼太君の死を、多くの国民は悼み、加害少年らに憤りをぶつけている。しかし、そうした人々は上村遼太君にはならないだろう。上村君は自ら意識せずに引き込まれた加害少年らのムラの正体に気づき、その真実と向き合い、そこから逃れるべく行動したために殺された。しかし、彼の死を悼み、加害少年らを指弾する多くの大人たちは、喩えていえば少年Bであり、少年Cなのだ。上村君のように自分を変えようとして、新たな未来を目ざして行動することもなく、いや、そんなことすら考える思考力もなければ、当然それに伴う行動力もなく、主犯の少年Aの言いなりになっていた少年B、少年Cに過ぎない。
上村君もそのように考えることをやめ、ひたすら少年Aの命令に忠実に、万引きをしたりパシリをしている限り、たまにAの気まぐれで殴られることはあっても、生きる自由=奴隷の自由を維持することはできただろう。
たまたま今話題の上村君を引き合いに出したけれど、これはイジメ社会に普遍的な構造であり、未成年のイジメ社会こそ、大人社会=ニッポンムラの原型である。
もうすぐオウム事件20年を迎えるが、今この国自体がオウム的カルト国家になっていることに、多くの人が気づかずに過ごしている。この国は、もはや政府の言う公式見解に背き、真実や事実をはっきりと主張する言論を許さない病に冒されつつある。フクシマオキナワは、いってみればニッポンムラにとっての上村君だ。一部の心ある友人が助けようとしてAの所へ押しかけても、それを人々は傍観するだけであり、それを報じるマスコミもない。彼らの行動に怒ったAが「上村君」のみならず、彼の味方をする人々をも圧殺しようとして、取り返しのつかないことをしたとしても、現実の社会はそれを隠蔽すらするかもしれない。そんな国や国民には、本当は「イスラム国」の残虐性を批判する権利も資格もないのかもしれない。
だが、奴隷の自由を享受する少年Bや少年Cも、実はいつ「次の上村君」になるか分からないのだ。その恐怖から逃れようとして、彼らはいっそう思考停止状態に陥るのだ。

九州電力の杜撰な再稼働申請のお陰で、川内原発1、2号機の再稼働は今秋にずれ込みそうだが、関電高浜原発3、4号機の再稼働もその頃になる見通しだ。ひとたび再稼働を認めれば、いよいよこの国は決して後戻りできない滅亡への道を歩み始めるだろう。最悪の場合は、関西以西で起きる第2のフクシマによって文字通り国土が人の住めなくなる滅亡をもたらすだろうし、そうでなくとも、そのような経済合理性にすら背く病的社会は、早晩経済的破綻を迎えるだろう。あるいは、再稼働で勢いづいた政権が一気に改憲へと突っ走り、「有志連合」の一員となって自ら泥沼の戦争へ足を踏み入れて滅んでいくかもしれない。
そうなっても、あなたがたは「少年A」の暴力的支配に黙ってひたすら耐え偲ぶのですか?

3.11以降強化された〈ムラ社会〉-美味しんぼとgodzilla [Criticism]

3.11から3年余り。あの地震と津波と原発の爆発を経験した私(たち)は、常にこうあるべき日本と、こうでしかなかった日本のギャップに引き裂かれてきた。あるべき日本の姿をいえば、東電福島第一原子力発電所の爆発事故のみならず、千年ぶりに襲った大地震と大津波に直面し、そこから本来、過去60年余りにわたって繁栄してきた戦後の経済的発展の遺産の上に、今こそそこから訣別して21世紀の世界に先駆ける新しい社会へ向けて真の復興と再生を遂げていくべきであった。そして、3年前の津波と原発の爆発によって荒涼と広がった瓦礫の山を前に呆然と佇む私(たち)は、それに敗戦後の2発の原子爆弾に焼き払われた広島と長崎に象徴される焼け野原の瓦礫を重ね、そこから奇跡の復興を遂げた戦後日本を思い起こし、新たな奇跡を信じようとした。しかし、現実の日本は、それとは全く逆の方向へと舵を切った。現状を1948年のありえなかった像に喩えてみれば、闇経済が国を蝕み、悪と暴力が社会を支配し、多くの無辜の民が餓死していく飢えと貧困の1948年である。
戦後日本社会は、〈ムラ社会〉を土台にして、その上に「民主主義」の外套を身にまとうことによって近代国家の装いを整えた。その装置は、平和国家の上に安定した経済成長を遂げていくには格好の組合せであった。しかし、3.11はその外套を引きはがし、この国をむき出しの〈ムラ社会〉にしてしまった。
〈ムラ社会〉の極端系は〈ムラ社会〉の再生産工場でもある学校における〈いじめ社会〉である。学校(クラス)という特殊な閉鎖空間では、いじめ加害者という特殊なリーダーの嗜好が「疑似社会」の常識として流通する。それがいかに一般社会の常識からかけ離れていていようと、クラスという閉鎖空間の中では一般常識が通用せず、いじめ加害者の嗜好が常識としてまかり通り、クラスの空気を支配する。そして、ひとたびいじめ加害者の眼鏡に適わないと判断された対象は、徹底的にいじめつくされ、排斥される。いじめの対象者は文字通り丸裸にされ、その人格を根こそぎ否定されつくされる。加害者にとっては被害者はうざいから、死ぬしか価値がない存在と見なされる。そうした特殊空間に身を置く者は、自分がそのいじめの対象にならないことだけを考え、それ以外の思考を停止する。そうした閉鎖社会にも、ときおり空気を読めない正義漢が登場する。彼は多くの「中立者」が見て見ぬ振りをするいじめ被害者に味方し、加害者を指弾する。そうすると、加害者の暴力の矛先はそのKYな「正義漢」へと向けられる。彼は彼を取り巻く同調者とともにその「正義漢」を二度と立ち上がれないほどボコボコに打ちのめす。多くの「中立者」は傍観を決め込むが、心情的に「正義漢」に同感する者はまれである。なぜなら、すでに彼らは、外の世界の常識を喪失し、加害者のコントロール下に置かれているのだから。それだけでない、徹底的に人格を破壊され尽くしたいじめ被害者も、必ずしも「正義漢」の登場を歓迎するわけではない。なぜなら、「正義漢」がボコボコにやられた後に、加害者のさらに凶暴化した暴力が自身に及ぶことを知っているからだ。
3.11以降の〈ニッポンムラ〉にとって、いじめの第一の対象はまさにフクシマの民である。彼らはことの発端からすでに棄民と決定された。やろうと思えばできたヨウ素剤の配布SPEEDIの公表も意図的にサボり、大量の初期被曝という暴力に晒された。さらにクラス(県)の加害者は被害者をクラスの外に出さずにクラスの勢力を維持するために、遠くのクラスから被害者をクラスの外に逃がさないための洗脳工作員を呼んだ。そうして県民を閉鎖空間に封じ込め、その多くをマインドコントロール下に置くことに成功した。しかし、忘れてならないのは、加害者にとって被害者はうざい存在、死ぬしか価値のない存在にすぎないことである。加害者にとってクラス内での絶対優位さえ確保できれば、被害者は死のうが病気になろうが知ったことではない。ただ、その原因が自分にはないと思い込ませればいいだけのことである。
そこに今回登場した空気の読めない正義漢は、雁屋哲という人物である。彼はクラスの外、そして学校の外の常識をもって、フクシマの異常さを告発した。だから、彼が加害者とその同調者によってボコボコに叩かれるのは、ある意味当然のなりゆきであった。そして、多くの傍観者らも、彼に同調するのは少数者であり、大部分は思考停止か加害者の消極的同調者である。
こうした異常ないじめ社会は、フクシマのみならず、今や日本社会そのものを支配する空気となってしまった。〈ニッポンムラ〉の加害者集団は、今や世界の常識から大きく逸脱し、理性も知性もかなぐり捨てて、ひたすら自分の嗜好、情念の赴くままに勝手に振る舞い、その同調者らは悪乗りして「○○殺せ!」と憎しみを限りに叫び続け、いじめ被害者に暴力をふるう。3.11から3年余りを経て、今この国は、水爆実験に汚染された島から目覚めた怪獣ゴジラのような奇怪な風景をさらけ出している。

ゴジラといえば、もうすぐハリウッド版GODZILLAがアメリカで封切られる。日本でも7月頃上映されるそうだ。しかし、もしこの映画が、日本で制作されていたら、おそらく国をあげて上映阻止に動いたであろう。「福島の風評被害を煽る」「福島県民に対する差別だ」というような理屈をつけて。上映禁止というような強権的措置はとらないだろうが、同調者をして上映館に圧力をかけさせ、空気を読んだ上映館は次々と上映を中止し、結局上映不能に陥るのだ。
さすがのこの国の加害者集団も、アメリカ製のこの映画にそのような乱暴な措置を強行する可能性は低いだろう。もしそんなことをすれば、またまた世界の常識の笑いものにされるだけだから。
いじめ加害者も「正義漢」が影響力を行使できないマイナーな存在だとシカトを決め込む。例えば、「朝日のあたる家」とか「希望の国」、はたまたフクシマの真実のみならず〈ムラ社会〉の本質にも迫った「おだやかな日常」等というマイナーな反原発映画はほっておけばいいのである。だが、「美味しんぼ」のように、大手出版社の出す社会的影響力のあるエンタメまんが雑誌の人気まんがの「正義漢」は、「たかがまんが」としかとするわけにはいかなかった。
ゴジラの話に戻るが、アメリカのオフィシャルサイトの予告編では、どういうわけかアジア版のみ、原発が爆発するシーンがのっていない(http://www.godzillamovie.com/)。ワーナー側の配慮か東宝等日本サイドの要求なのか、7月上映に向けて日本版予告編が各映画館で上映される際には、原発爆発シーンはおろか、少しでも原発を連想させるようなシーンは一切カットされることだろう。(下手をすると本編にも手が加えられる可能性すら否定できない。)

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かくして、あるべき日本とこうでしかなかった日本のギャップに引き裂かれ、もだえ苦しんでいるのは、この国で私ひとりだけなのだろうか?

ムラ社会と天皇制とファシズム [Criticism]

私が小学生の頃、同世代の子どもたちは「巨人・大鵬・卵焼き」が3大好きなものだったが、天の邪鬼な私は「巨人・天皇・自民党」が3大嫌いなものだった。共通項は権力・権威。この場合の天皇は昭和天皇である。侵略戦争に積極的に加担しながら退位もせず、戦後「人間宣言」して神から人間に転向したあの老人の姿と人間性を、私は生理的に嫌悪した。
時は流れて、今の天皇は戦後、アメリカ式民主主義とイギリス式帝王学を徹底的にたたき込まれただけあって、象徴天皇制の本分をしっかりとわきまえて職務を遂行している。その発言や人への接し方をマスコミを通して見る限り、民主的でリベラルな思想、暖かな人間性には、一人の人間として、正直私も好感を覚えるし、共鳴することもある。
この1年、世の中が急激にファッショ化する中で迎えた先日の天皇誕生日の天皇の「お言葉」は、象徴天皇としての職務に忠実であらんとする故の、今の日本社会への危機意識が表出されていて、昨年までだったら聞き流されていただろう内容が俄然輝きを発して、Twitterのフォロワーの中にも共感を表明する者が少なくなかった。
ここにきて、安倍晋三を含む自称「天皇主義者」=右翼と、現実の天皇と一般国民との間に、奇妙ななじれ現象が生じているように見える。従来天皇の側には「天皇陛下万歳!」を叫ぶ右翼がいて、左翼やリベラル派は一歩引いて護憲を叫んでいたのが、今では右翼勢力は皇太子妃やその娘に公然と「不敬」をはたらいて天皇を貶め、護憲派が天皇擁護派となっている。(山本太郎の「直訴事件」もこの文脈の中にある。)
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天皇制をめぐるふたつの問題
ふたつのことをはっきりさせておきたい。
まず第一に、自称「天皇主義者」らが叫ぶ「天皇陛下万歳!」の天皇とは、現実に存在する人間天皇ではなく、「皇国史観」に基づく明治から昭和の敗戦までの絶対主義的な「天皇」理念であり、安倍晋三が政治利用した「主権回復の日」に万歳三唱した「天皇」は、それを困惑して受け止めた人間天皇ではなく、その背後に明治天皇や昭和天皇に具現化されるそのような天皇像を幻視していたのである。
さすがに公言はしないが、だから自称天皇主義右翼にとっては、今の天皇は目の上のたんこぶであり、その発言はいちいち耳障りであり、できれば封印してしまいたい。憲法や民主主義、戦争への反省にとどまらず、最近菅谷明松本市長に語ったという「福島のこと、よろしくお願いします」という発言や、今から12年前の「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」などという発言は、大部分嫌韓派でもある彼らとしては絶対に認められない暴言に違いない。だから彼らは、その直系である皇太子の妻や子どもを侮辱することによって憂さを晴らすとともに、間接的に象徴天皇制と今の天皇・皇后の存在を否定しているのである。
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もうひとつは民主主義擁護派の問題である。
昨日も述べたように、アメリカは戦後日本に民主主義をもたらすとともに、天皇制を解体せずに統治支配の道具として温存した。そしてそのことを、大部分の日本人は喜々として受け入れ、「現人神」から「人間」に変身した同じ天皇を、これまた何の反省も懐疑も抱くことなく、ありがたく尊崇した。しかし、実際には象徴天皇制はアメリカが意図したようにヨーロッパ諸国のロイヤルファミリーのようなものとして機能するよりは、一部の「天皇主義」右翼の政治利用の具とされ、民主主義・不戦とセットにされるのではなく、反対に戦争するための軍隊の復活を含む戦前の「国体回帰」の道具としてあり続けてきた。
そして、昨日も述べたように、右から左、180度異なるものをヌエ的になんでも受け入れてしまうムラ社会=日本ムラは、かつて「現人神」から「人間天皇」を受け入れたように、その反対も同様にまた再び受け入れるに違いない。
私たちは当面ファシズムを許さないために現憲法を守り抜かなければならず、現憲法を守る以上は「象徴天皇制」も守らなければならないが、常にその先には非人間的な天皇という存在そのものの解体を視野に入れておく必要がある。
天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。」この言葉から、私は現天皇以上に、天皇という存在の非人間性、不条理性、不平等を身に染みて実感してきた人はいないのではないかと思う。80歳の誕生日に自らの孤独を語らなければならないことほど不幸なことはないではないか! 天皇制からの天皇の解放は、ムラ社会からの私たち自身の解放と表裏一体のものである。

ファシズムを生みだすムラ社会という温床 [Criticism]

朝日新聞の20代の意識に関する世論調査結果を見て、暗澹たる気分になった。そこには、ファシズムを目ざす安倍晋三を受容する、20代に限らぬ現在の日本人の意識構造がくっきりと浮かび上がっているように思われた。いつから世の中はこんなにも変わってしまたのか? いや、表面的には変わったかもしれないが、これはむしろ、何十年も前から何も変わっていないことの証左かもしれない。
1945年の敗戦後、日本人はアメリカによって解放され(共産党の「解放軍」規定)、軍国主義・ファシズムを放棄させられた国民は、彼らによってもたらされた民主主義をなんの違和感もなく受容した。そして、一方で天皇制が維持されつつ、戦前の皇国史観にしがみつく右翼勢力を温存し、その対極にはマルクス主義を中心とした左翼が台頭しながらも、55年体制の確立によって、政治の主流は左右両派のバランスの上に、幅広いスペクトラムを形成して、保守主義の安定した体制を構築していった。
つまり、日本の戦後民主主義とは、よくいわれるように人民自らが勝ち取ったものでなく外部から与えられたもの、という以上に、あれだけの歴史的転換と社会的激変を経ながらも、国民意識的には、冬の外套を脱ぎ捨て春のコートに着替えるように、軍国主義・ファシズムという外套を何の苦もなく脱ぎ捨て、そのことへの一片の反省もなく、今度は「解放軍」がもたらしてくれたスプリングコートに喜々として飛びついたにすぎないファッション感覚以上の重みを持たない無思考の産物だったということだ。
この驚くべき無思考とそれ故の無節操とイコールの「寛容」さこそ、日本的ムラ社会の特性であり、その「寛容」は、ひとたび社会が閉塞状況に陥れば、いとも簡単に「偏狭」へと逆転しうるヌエのようなものである。
それでも、戦後半世紀は世界的な冷戦構造と左右イデオロギーの対立の反映と、エコノミックアニマルというムラ社会の生き物たちが支えた経済成長のお陰で、無思考こそが社会がうまく回る秘訣でさえあった。
歯車がかみ合わなくなり始めたのは、ソ連崩壊をもたらした社会主義の崩壊とそれに引き続く資本主義の終焉の始まりであった。
左右の対立というやじろべえによってバランスを保っていた自民党一党独裁民主主義は、左のリタイアによってバランスを崩し、今やとどめようのない右への暴走を続けている。この半世紀余りの間に、西欧ではユーロコミュニズム福祉社会緑の党など、時代の変化に対応した新たな社会の模索を懸命に続けてきたが、その間、この国は経済成長と物質的豊かさを享受するばかりで、再び来る冬支度を調えるどころか、わが世の春が永続するかのごとく錯覚し、いっそう思考力を麻痺させ、ムラ社会の日常生活に没入してきた。
少なくとも、バブル経済が崩壊した時点で、国民は長い春の夢から覚めなければならなかったであろうが、その後も20年以上、思考力は麻痺し続けてきた。そして3.11を迎えた。
今さら西欧社会に数十年遅れて福祉社会など目ざすべくもなかった。1億こぞって一部の政治屋らにおまかせしてきた無責任のつけというべきか、政治屋どもは右も左も問わず半世紀以上進化を止めてシーラカンス化し、「気候変動」に適応しきれず死に体を呈している時に、長い冬眠生活から突如寝覚めたのが、20世紀前半に猛威をふるったファシズムの亡霊どもであった。
人々は今、60年以上前に喜々として飛びついた民主主義という衣装を脱ぎ捨て、とうに処分されたはずだった軍国主義・ファシズムという外套を、この冬の時代にふさわしいファッションとして、何の違和感も覚えず、無批判・無思考に身にまとおうとしている。
そう、ムラ社会は何も変わっていなかったのだ。人々から想像力、創造性、未来志向等、プラス思考を奪って奴隷根性に縛り付けるのがムラ社会であり、その起源は江戸時代にあるのか明治以降かはさておいて、日本社会に百年以上根づいてきている病根だ。この病根を絶ちきらない限り、この社会はヌエのようにいかようにでも無節操な変転を繰り返すだろうし、ときには破滅へと向かう暴走さえ押しとどめることはできない。

今改めて『神戸事件を読む』を読む-謀略国家はその時すでに正体を現していた [Criticism]

神戸事件といえば酒鬼薔薇聖斗の名で世間を震撼させた事件で、当時、私もテレビのワイドショーに毎日釘付けになり、14歳の中学生の逮捕に衝撃を受けたものである。
その後、革マル派が少年Aは冤罪で、事件は権力の謀略だと主張しているということを、どこかで聞いたような記憶はある。しかし、革マルといえば、70年代の中核派との内ゲバも、中核を操る権力の謀略だと主張していたので、私もそんな革マルの冤罪論には全く耳を貸さなかった。
しかし、当時革マル以外にも少年の無実を主張して本を書いていたジャーナリストがいた。それが本書の著者、熊谷秀彦であった。
神戸.jpg本書を先入観なしに読めば、恐らく10人中9人は少年が無実であると判断すると思う。この事件は少年事件として処理されたため、公開の裁判がなされず、事実審理よりも容疑者=犯人の前提に立って、本人の更生を目的とした審理が行われたために、冤罪が暴かれることもなかったが、一般の刑事裁判として裁かれていれば、検察側の論理破綻は目を覆うばかりであったはずだ。著者は、公表された調書や当時の新聞・雑誌記事等を丹念に整理し、少年にはこのような犯罪を起こしようがない証拠をいくつもあげ、逆に、冤罪を疑わなかった当時のマスコミを厳しく指弾している。
権力者が自らの権力や利権を維持するためにはどんなことでもすること、それに対してマスコミが全く無抵抗であることは、3.11以降、多くの人に認識されることになった。それと全く同じ構造が、この事件にもはっきりと見てとれるのである。当時のマスコミ報道は独自取材、独自分析の一切ない警察情報の垂れ流しで、しかも、少年逮捕の前と後でいくつもの明らかで決定的な矛盾が生じたにもかかわらず、マスコミはそれを検証することを全く放棄した。
また、週刊誌各誌の報道も、「週刊新潮」が革マル批判によって冤罪の問題提起をもみ消そうとしたこと、また、週刊誌でないが「文藝春秋」が検事調書を公開して少年犯人説を補強したこと、一方、唯一警察の捜査に疑問を投げかけたのが「週刊現代」であったことなどは、3.11後の原発報道や最近では山本太郎をめぐる報道などと本質を一にしている。
次に、この事件は、単に少年が冤罪であるだけでなく、「警察内部犯行説」の浮上により、当時中学校で弱い立場にあった少年が生け贄として逮捕された可能性が高いということだ。つまり、少年は単なる誤認逮捕ではなく、権力犯罪の犠牲者であったというのである。

以上が12年前に出版された本書の主張であるが、それを補強・発展させた論として、「東電OL殺人事件と神戸サカキバラ事件」(2011年5月9日:http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/761.html)がある。この論はあくまで推論の積み重ねに過ぎないのだが、神戸事件の発端となった小学生殺害事件が1997年5月24日に起きているが、その4日前の20日に、3月に発生した東電女性社員殺害事件の容疑者として、昨年無実が確定したネパール人マイナリさんが逮捕されている。東電事件自体、当時の東電最高幹部が女性と関係があったとか、女性ががんで死んだ父親とともに、社内の反原発派であったことなどが言われ、マイナリさんの無実が確定した今、謀殺の可能性がますます高くなっている。そのマイナリさん逮捕に疑念が向けられるのを阻止するために、警察権力(とそれを操る影の勢力)が、智恵遅れの小学生をまず殺してさらし首にし、世間の耳目をそちらに向けさせ、真犯人を隠蔽するため、学校に居場所がなく不登校だった14歳の少年を犯人に仕立て上げた二重の権力犯罪だという説だ。(ちなみに熊谷氏は、酒鬼薔薇聖斗という名前は、裂け、鬼腹(=障害者を身ごもった妊婦)、生徒の当て字だという説を紹介している。)
東電事件との関係をいうのは極論としても(私は全くありえない推論とも思えないが)、14歳の少年の逮捕は、後の少年法改悪に大きな役割を果たしたことは誰も否定できない事実である。少年は何重にも権力に利用され尽くしたのである。
少年は今年30歳になったはずだ。恐らく、逮捕時から、常軌を逸した警察の脅し、懐柔、洗脳を受け続け、今は全く精神の抜け殻状態で、どこかでひっそり「余生」を送っているはずだ。その存在そのものを抹殺されていない限り。少年を世間のさらし者にした挙げ句、猟奇殺人の汚名を着せた責任は、東電福島の事故を許し、その後も福島の被曝者を棄民し、原発再稼働を許そうとしている責任同様、回り回って国民すべてにのしかかっているはずだ。
謀略国家の正体がまだ見えないと言うのなら、次はどんなとてつもない謀略を許すことになるのだろうか?

日本ムラはいじめ学級 [Criticism]

この国において学校という存在は、ムラ社会を拡大再生産していくムラの住人製造工場のようなものだ。いじいめ学級には数人の「いじめっ子」がいて、そのうちの1人がボス的存在だ。そして、クラスには1名ないし数名の「いじめられっ子」がいて、その他の生徒は一見中立的立場に見えるが、実際には積極的・消極的に「いじめっ子」に加担している。この小さな社会を支配しているのは、ただひとつ、「いじめの論理」である。
この小さな社会で、少数の「いじめられっ子」は「いじめっ子」からどんな理不尽な仕打ちや要求をされても、それを理不尽と思う思考能力さえ失い、ただ無批判にそれに従う。「死ね!」と言われれば、そうするしかないと思いつめて死んでしまう。「いじめられっ子」が「いじめっ子」、あるいはそれに積極的・消極的に加担しているクラスに立ち向かうことなど、奇跡に等しい。そもそもその子からは批判力反抗心などは「いじめられっ子」になる前から奪われているのだ。
翻って、この国の現実社会でも、全く同じことが行われている。「いじめられっ子」は200万の生活保護受給者であり、過労死寸前の強制労働を強いられているブラック企業で働く人たちであり、追い出し部屋に追いやられた社員たちであり、福島の原発被災者たちであり、沖縄の基地周辺住民であり、明日をも知れぬネットカフェ暮らしの派遣社員であり、そこから滑り落ちたホームレスであり……。以前は人口のごく一部を占め社会からは目立たない少数者であったが、今では日に日にその数をましている人々である。
彼らは企業など彼らを支配する「いじめっ子」にどんな理不尽な仕打ちや要求をされても、それを理不尽と思う思考能力さえ失い、ただ無批判にそれに従う。「死ね!」と言われれば、そうするしかないと思いつめて死んでしまう。「いじめられっ子」が「いじめっ子」、あるいはそれに積極的・消極的に加担している中間的な立場の人々に立ち向かうことなど、奇跡に等しい。そもそも彼らからは批判力、反抗心などは「いじめられっ子」になる前から奪われているのだ。せいぜい、「いじめられっ子」が彼らより弱い立場の者がいればその子を隠微にいじめて自らを慰めるように、そうする。たまに死に向かう最後のエネルギーが誤って外部に漏れ出すと、抵抗する術のないか弱き者たちへの凶暴な行為となって現れることもあるが……。
その「いじめっ子」の予備軍である一見中立的立場に見える中間層は、意識下で自分が次のいじめの標的にされるかもしれない恐怖心に怯えながら、その恐怖心を「いじめられっ子」を攻撃することによって麻痺させている。そしてそうすることによって「いじめっ子」に加担し、彼らに媚びを売ってどうか自分を「いじめられっ子」にしないでくれとはかない哀願をする。だから彼らには、「いじめられっ子」に同情する余裕もなければ、自分が「いじめられっ子」になったときのことを想像する勇気もない。かといって、積極的に「いじめっ子」に加担するには良心の呵責を覚えるので、できることなら見て見ぬふりを決め込みたい。
こうしてこの世は「いじめっ子」らの天国、彼らのやりたい放題だ。いじめの論理だけが世の中で唯一正しい掟=法となる。
ただ、「いじめっ子」はワルの集団だから、クラスの中では唯一の権力者だが、クラスの外、あるいは学校の外ではそれ以上のワルとつるんでいることが往々にしてあり、「いじめっ子」はそのワルには全く頭が上がらない。この国の「いじめっ子」にとってのアメリカというワルのような存在だ。
そうして「いじめっ子」は、外の世界では大ワルの顔色を常にうかがいつつも、彼にこき使われ、パシリをさせられたり、ワルの機嫌が悪いと殴られたり蹴られたりするので、その腹いせによけいクラスの中で「いじめられっ子」にひどい仕打ちをするし、時には自分たちを除いたクラス全体に暴力的に振る舞ったり、ムラの掟を勝手に変えてより凶暴になったりする。

日本人。この支離滅裂、奇想天外、奇妙奇天烈なるもの! [Criticism]

私は今日の朝刊を通読して、日本人の支離滅裂、奇想天外、奇妙奇天烈ぶりに眩暈を覚えた。
情勢調査と合わせて実施した世論調査で、安倍首相の経済政策について尋ねると、「期待できる」が40%、「期待できない」が36%だった。  「期待できる」は年代が若くなるほど高くなる傾向があり、若・壮年層が自民に投票するという傾向と重なる。」(「朝日デジタル」以下同)
景気が回復しても、くらしが良くなるわけではない。多くの国民はつい数年前、こうした「実感なき景気回復」を経験した。  小泉政権や第1次安倍政権などの02年2月~08年2月は「戦後最長の景気回復」の期間だった。円安・株高が続き、大企業は相次いで最高益を更新した。  ところが、企業はもうけを働き手に回さず、将来に備えて手元に残したり、株主への配当を増やしたりした。国税庁の調べでは、働く人の07年の平均年収は437万円で、02年より11万円減った。
こうした経済の動きで一番割を食っているのが若・壮年層だ。失業率・非正雇用という目の前の問題だけ見ても明らかなことだ。
もうひとつ、
東京電力福島第一原発の事故から2年以上たっても、多くの人が「事故は収束していない」と考えていることが、広瀬弘忠・東京女子大名誉教授らの調査でわかった。
という記事。ここで私の目を惹いたのは、
福島原発の現状について、「収束していない」と考えている人は94%。
ということではなく、
今後、各地の原発が再稼働したときに福島と同じような事故が起こる可能性について、23%が「起こる」、57%が「たぶん起こる」。理由として、83%が「地震、津波、テロなどでいつ大事故が起こるかわからない」とした。
という事実。この調査のサンプルが、
自民は公示日(4日)とその翌日に行った序盤調査時の勢いを保ち、選挙区に立てた49人の候補のうち、45人が優位かやや優位に立っている。  選挙区で44人が当選した01年参院選と並ぶ大勝になりそう
という朝日の世論調査サンプルと異なるとしても、前回総選挙結果と合わせて考えてみれば、大多数の人が福島のような原発事故がまた起こりうると考え、再稼働を望まず、少なくとも将来的には脱原発を望みながらも、既成政党のなかで唯一早期再稼働、原発推進政策を掲げる自民党を支持していることになる。
以上のふたつの例は、「私はカレーが好きでお寿司は嫌いだ。だから私はお寿司を食べる」というようなもので、正常な頭脳を持った人の正常な判断ではおよそありえない論理破綻を示している。
ここで「カレーが好きでお寿司が嫌い」な人が「お寿司を食べる」行動をとるには、ふたつのことが考えられる。
ひとつは、「カレーが好きでお寿司が嫌い」というこの人の嗜好性にもかかわらず、目の前にある「お寿司」がこの人の考える「お寿司」には見えない可能性だ。つまり、この人にとっては、目の前の「お寿司」が「カレー」に見えるかどうかは別にして、「まずい食べ物」どころか、「おいしそうな食べ物」に見えているということだ。
通常こういうことは起こりえない。しかし、この人が全くの思考停止、判断停止に陥って、頭を使って物事を考え、調べ、知識を身につけ、合理的に行動する能力に欠けていれば、ありえないことではない。
もうひとつ考えられるのは、想像力の欠如だ。この人には、「目の前のお寿司」が「頭の中のお寿司」と結びつける想像力が欠如しているのだ。過去にお寿司を食べて嫌な体験(ひどくまずかった、じんましんが出た、吐いた等の経験)があってお寿司が嫌いになったにもかかわらず、今目の前にある「お寿司」を、その時の「お寿司」と結びつけて考える想像力が欠如しているのだ。
以上のように考えない限り、この間、さんざん痛い目に遭わされてきた「お寿司」にもかかわらず、お子様ランチの日の丸よろしくおためごかしの「アベノミクス」という旗に目が眩んで目の前の「お寿司」にかぶりついたり、以前「お寿司」を食べて食中毒になったのに、その時と全く同じ「お寿司」が目の前に出されていても、「あの時のようなことはないだろう、ありうるとしても自分は今度も大丈夫だろう」ぐらいに軽く考えてその「お寿司」を食べてしまうような支離滅裂、奇想天外、奇妙奇天烈なことは起こりようがない。
かくも支離滅裂、奇想天外、奇妙奇天烈な思考、判断、行動をとらせるものこそ、理性的・合理的・冷静な思考力、判断力、行動パターンを子どもの時(=学校)から根こそぎ奪う日本のムラ社会にほかならない。そして、この国の政治・経済・社会の1%の支配層は、99%のムラ社会のこうした住民たちによって支えられている。


『永続敗戦論 戦後日本の核心』-「国体」と「ムラ」の間 [Criticism]

eizoku.jpg著者はあとがきで、3.11とその後の安倍政権の登場という歴史の節目で本書を執筆しようとした動機を、「いま必要なことは議論の目新しさではない、『真っ当な声』を一人でも多くの人が上げなければならない、という思いに駆られて」と述べている。そして、ガンジーの有名な箴言を引用しつつ、「『侮辱のなかに生きる』ことに順応することとは、『世界によって自分が変えられる』ことにほかならない。私はそのような『変革』を断固拒否する」と述べているが、社会思想・政治学者である著者のこのような姿勢に、私は大いに共感を寄せる。
確かに本書は特段の「目新しさ」は見あたらないかもしれないが、著者が「永続敗戦」と呼ぶ「敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる」戦後体制が真の意味で終わりを迎えようとしている現在、それをきわめて分かりやすく整理してみせたという点で、私には大いに参考になった。
例えば、ここ数年、ナショナリズム扇動へととどまることを知らず突き進む「領土問題」である。著者は日本の領土問題の本質を、「国家の領土を決する最終審級は暴力である。すなわち、歴史上の直近の暴力(=戦争)の帰趨が、領土的支配の境界線を原則的に規定する」という一般論を踏まえ、「日本と他国との領土問題の処理の仕方が、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約に至る一連の日本の戦後処理の根本によって規定されざるを得ない、ということを意味する」と明確化する。私は少しばかり韓国に関わりを持つ人間として、「竹島問題」については、その島根県への編入(1905年1月)が、朝鮮半島から中国東北部の覇権をめぐって戦われた日ロ戦争中、しかも第1次日韓協約の5ヵ月後、ポーツマス条約締結の8ヵ月前、朝鮮が日本の保護国となった第2次日韓協約の10ヵ月前という一連の流れの中に位置づけられることを抜きにして語れないことを認識してきたが、著者によって、それと同じような構造が「尖閣問題」、さらには「北方領土問題」に関してもいえることが明らかにされている。いずれにせよ、「わが国固有の領土」という日本政府の主張が、「敗戦の否認」という現実逃避から発する都合のいい主観的で一方的な主張に過ぎないことが明確になる。にも関わらず、この一方的な政府の主張を、マスコミはもちろん、共産党社民党まで含む全既成政党が追認し、少しでもそれに反するような主張をすれば「非国民」扱いされかねない情けない今の日本の社会状況、そして、一方で「オスプレイ配備反対」という反米的な主張を行っても同様の扱いを受ける歪んだ政治社会のありようを日々感じるにつけ、著者の「永続敗戦論」というフレームが説得力を増す。
著者の「永続敗戦論」の核心は、「国体護持」にある。つまり、2度の原爆投下とソ連参戦によって危機感を増した天皇と軍部が、「これ以上の戦争継続、本土決戦の実行は、『国体護持』を内外から危険にさらすことになるという推測こそが、戦争終結の決断をもたらしたものにほかならなかった。」そして、「国体護持」は戦後日本から革命の可能性を奪った。
しかし、日本から革命の可能性が奪われたのはその時だけではなかったと私は思う。そもそも近代日本の成立期においても、日本はブルジョア革命を経ることなく、下級武士の決起と「王政復古」によって、封建体制から断絶することなく曖昧性を残したまま資本主義化を成し遂げた。
このように、すべてを曖昧な無責任体制のもたれ合いのなかでことを運んでいくのが、この国の「伝統的な」政治手法であり、それを許してきたのが、国民大衆の無関心・無責任・白紙委任・思考停止であり、そうした国民性を下支えしているものこそ、ムラ社会にほかならないというのが、私の主張である。そしてそうした国家ぐるみの無責任体制は、3.11を経た現在まで変わることがない。
著者は現在の親米保守反動政権をサダム・フセインやウサマ・ビン=ラディンになぞらえてその末路を暗示しているが、私は他方の可能性もあると思う。アメリカが「民主主義の旗手」として振る舞うのは、あくまでそれが自国の利益に適う限りであって、それと全く逆の例(独裁政権にてこ入れし、民主化運動弾圧に力を貸す)もいくらでも上げることができるからである。私は、安倍がTPPを全面的に受け入れ、日本が実質的にアメリカの経済植民地化するならば、アメリカはその実利と引き換えに、安倍が少々羽目を外しても、見て見ぬふりをするのではないかと危惧している。
また著者は、「問題は、それ(=国体:引用者)を内側からわれわれが破壊することができるのか、それとも外的な力によって強制的に壊される羽目に陥るのか、ということに窮まる。前者に失敗すれば、後者の道が強制されることになるだろう。それがいかなる不幸を具体的に意味するのか、福島原発事故を経験することによって、少なくとも部分的にわれられは知った。してみれば、われわれは前者の道をとるほかない。……三・一一以降のわれわれが、『各人が自らの命をかけても護るべきもの』を真に見出し、それを合理的な指向によって裏づけられた確信へと高めることをやり遂げるならば、あの怪物的機械は止まる。なぜならそれは、われられの知的および倫理的な怠惰を燃料としているのだから」と、希望的観測を述べているが、私はこれにも異を唱えざるをえない。私が再三再四主張してきたように、「国体」を下支えしている不合理・思考停止・無責任・空気の読み合いと情緒が支配するムラ社会の解体なくして、著者のいう「国体」の解体も革命も不可能であろうから。つまり、敗戦の否認と際限のない対米従属によって「国体」を護持し続けてきたのは、歴代政権や官僚たちのみならず、この国のムラ社会の住民総体であるともいえよう。そういった意味では、支配の側と国民は「永続敗戦」の共犯者ですらあるのである。(もっとも著者も、この国の国民を買い被っているわけではない。その例「時速一〇〇キロに満たないど真ん中のストライクを打てない打者が、一五〇キロのむずかしいボールを打てるはずがない」「自国民への責任すら満足に追及できない社会は、共感度が薄くなりがちな他国民への責任の問題に本来的な意味で取り組む能力を持たない。」)
著者はヘーゲルの「偉大な出来事は二度繰り返されることによってはじめて、その意味が理解される」という言葉を引用している。孫正義氏も2年前、「今原発推進と言っている人も、もう1度福島のような事故が起きれば、もうそんなことは言えなくなるだろう」というようなことを述べていたが、フクシマの悲劇は決して2度繰り返されることはないだろう。なぜなら、2度目は茶番ではなく、破滅であろうから。人々がその意味を理解したときには、すでに歴史を引き返すことができないのである。

想像力が欠如するムラ社会 [Criticism]

日本人にいちばん欠けているものは、物事や他人に対する想像力だ。自分以外の世界、自分以外の人々、そして今の自分以外に無関心なのだ。
だから、日本以外の海外へ目を向けることはもちろん、オキナワも、そしてフクシマさえ、もはや全くの他人事。自分の周りのせいぜい家族を中心としたごく狭い世界だけがウチであり、そこが世界のすべてなのだ。
空間だけではない、時間軸もごく狭い範囲しか目に見えない。5年後、10年後のことなど分からないし考える必要もない、過去のことなど振り返る必要もない。ただ、今日、明日の仕事や生活のことだけが唯一の関心事なのだ。
私はこの20年くらい、宇宙に関心を持ち、宇宙や量子力学について分かりやすく書かれた一般書を何冊も読んできた。137億年(最近では138.2億年ともいわれる)の宇宙の歴史を想うと、地球のこと、日本のこと、社会のこと、そして自分のことを考える際にも、最低でも5年後、10年後のことを考えるようになる。そして、5年前、10年前を振り返って、5年後、10年後は……と想像力をはたらかせてみる。
私はまた、子どもの頃から集団の中でうまく立ち回るのが苦手で、場面緘黙症であった時期もあり、さらには学校生活に適応できずに心を病んだこともある。だから子どもの頃から、自分はマイナーな存在だという意識があり、常にマイナーな立場から世の中を見てきた。そうすると、世の中のマイナーな人々、マイノリティの存在に自然と目が向き、彼らに対する想像力と共感が生じた。
だから私は、少なくとも人並み以上の想像力があると自信を持っている。
空気を読むというのは、想像力をはたらかせることではない。それは単に周りに同調する自己防衛本能の発露に過ぎず、そうすることでかえって他者への想像力を遮断する。ほんとうに想像力のはたらく人は、人が一生懸命空気を読もうとしている時に、空想にふけって周りを見ないKYな奴だろう。そんな奴が、案外人への思いやりがあって、5年後、10年後の自分と世界のことを真剣に考えているものだ。
しかし、そんな奴は今の社会では浮かばれない。社会で幅をきかせているのは、空気ばかりを読むことに長けた想像力ゼロの人間たちだ。その典型が政治家=政治屋どもだ。彼らの関心は今、そして自分たちにしかない。そして、今自分たちの問題とは、オキナワのことでもフクシマのことでも、5年後、10年後のこの国のあり方の問題でもなく、今の景気の問題、大企業の利益の問題、そして、それらをいかにうまく回すかによって自分たちが甘い汁の分け前に与ることでしかない。そんな連中に、半世紀以上前の歴史に真正面から向き合う気などさらさらない。
さらに絶望的なのは、そうした空気を読む大多数の人々もまた、彼らに同調することで、自分の今日と明日のはかない希望を彼らに託そうとしていることだ。

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