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1945~1970、疑似民主主義下に花開いた疑似市民社会 [Politics]

かなり古くから戦前と戦後の連続性を指摘する少数意見はあったが、その屈折した過程を白井聡が見事に活写した頃から、逆に戦前と戦後の断絶論は急速に陰をひそめていった。現実が新たな戦前回帰をたどり始めたからだ。
それに関連して思うことは、日本の「終戦」と「戦後」がドイツやイタリアのように国民の手によって革命されたものでなく、連続した戦前ー戦後では確かに民主主義自体が戦勝国によって移植されたものではあったものの、敗戦の1945年から1970年頃までの約四半世紀は「戦後民主主義」という疑似民主主義のもとに疑似市民社会とでも呼べる国民の政治や経済への積極的な参加活動が見られたことだ。
敗戦後の共産党を中心とした左派系労働組合により多発した労働争議、55年体制成立後の社会党・共産党を中心としつつも、共産主義者同盟の全学連に主導された学生運動がその一翼を担った60年安保闘争、それからそれが一気に退潮することなくベトナム反戦闘争を経て60年代後半の全共闘運動などへと引き継がれる政治の季節が四半世紀も続いたのだ。一方この頃、社会党・総評主導による労働運動は春闘による賃上げ闘争が常態化し、組合の組織率が高かったため、多くの国民が直接・間接的にそれに関わり、また、国鉄・私鉄のストライキによる公共交通手段の停止は春の風物詩にさえなっていた。
60年代後半のベトナム反戦運動を契機とした欧米のスチューデントパワーの爆発は、アジアで唯一、日本にのみ波及した。他のアジア諸国はいまだ低開発か発展途上段階の開発独裁体制にあり、疑似民主国家の日本だけが欧米民主国家とシンクロすることができたというわけだ。
しかし、70年代に入ると、高度経済成長はいよいよ消費社会の到来と一億総中流化をもたらし、疑似市民社会の疑似市民たちは価値を生む労働者としてだけでなく、モノを消費する消費者として個的存在へとばらけていった。いわゆる無党派層が生じて選挙の投票率が右肩下がりに減り始めたのもこの時期だった。人々の関心は政治的・社会的なものから、物質的富と個人的関心へと内向化していった。

新たな市民の登場とその孤立化
それから40年の時を隔てて、2011年の3・11を経て覚醒した新たな市民たちは、確かに真の市民と呼ぶにふさわしい存在だった。よくいわれるように、60、70年当時はデモにしろ何にしろ、運動はすべてが組織動員、組織を単位に成り立っていたが、脱原発や反戦争法のたたかいに立ち上がった人々の多くは、SNSなどを通じて自発的に参加した自立した市民だった。
そうした肯定的側面はあるものの、毛沢東的表現を借りれば、60、70年の活動家は多かれ少なかれ「人民の海を泳ぐ魚」(疑似市民社会に支えられた運動)であったけれど、脱原発や反戦争法で首相官邸前や国会議事堂周辺、あるいは全国の主要都市に集まった市民らは、いってみれば「陸に上がった魚」だといえなくもない。デモの参加者数だけみれば両者に大きな差はないかもしれないが、時代の雰囲気がまるで違う。
高度成長期にモノを消費する消費者としてばらけた個的存在は、労働者としても再生産能力(子を産み育てる)さえ奪われ、まともに消費する自由さえ奪われる中で、疑似市民社会を再構築するのではなく、そこを飛び越えて一気に1945年以前の思考停止した物言わぬ奴隷の集団社会へと回帰し、自らの存在を貶めていっているように思えてならない。
フクシマという特殊事情を除けば、資本主義終末期という全世界的共通事情の中にあって、欧米では政治的に新たな形の左右両極化現象が顕著だ。欧州における移民排斥など民族排外主義的右翼勢力の台頭と21世紀型市民政党の登場、アメリカでは民主・共和の二大政党制という不文律の枠中におけるトランプ対サンダースの対立軸の出現などだ。ところが、わが日本においては、いち早く極右勢力が伝統的保守政党であった自民党を乗っ取り政権を簒奪し、戦後民主主義の空洞化とそれをファッショ的な右翼翼賛体制に置き換えるプロセスの遂行に余念がない中、「左」の対抗勢力が全く存在しないに等しい状況にある。この現状こそ、戦後民主主義があくまで疑似民主主義にすぎず、疑似市民社会が四半世紀は続いたものの、ついに本当の意味の市民社会が構築されなかったことを証明している。個々に芽生えた市民意識→自覚した市民の存在と集合としての市民社会とを混同してはならず、両者の間には超え難いハードルが存在するのだ。
この状況を食い止めるためには、陸に上がった魚たる覚醒した真の市民たちが、干上がる前に有能な若きリーダーを押し立てて市民新党を立ち上げ、極右勢力の対抗勢力として躍り出るというハードランニングならぬハードフライングを強行するという最後の賭けに出る以外にもはや道はないと思うのだが、残念ながら日本市民には質量ともにその力量に欠けるのが実情だろう。
この分では、夏の衆参同時選挙で自公+大阪維新の改憲勢力が3分の2を占め、改憲といういよいよ後戻りできない段階へと、日本の破滅への道を踏み出すことをどうすることもできないであろうと、いよいよ悲観的にならざるをえない今日この頃だ。

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