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リベラルにもはびこる反知性主義の病根 [Politics]

脱原発・反戦争法デモへの違和感
昨年夏の「反戦争法」のたたかいは、私も埼玉に住んでいたら多分何度も国会前へ足を運んだとは思うのだが、岡山の地から一歩引いて眺めていると、どこか違和感を抱かざるを得ないものがあった。例えば、国会での論戦が頂点に達した頃合いを見計らったように、川内原発1号機が新規制基準の下で初めて再稼働したのに、大規模なデモひとつ起こらず、現地でも逮捕者1人出さずに許してしまった。
最初の川内原発再稼働をめぐっては、反対運動が再び盛り上がり、現地では百名近い逮捕者が出るなど激しい実力行動が繰り返された。また、それに呼応して、国会周辺でも数万名規模のデモが何度も行われたが、二〇一二年夏の大飯原発再稼働のときほどの盛り上がりは見せなかった。(『亡国記』)
なるほど私は、改憲の前にこのような「解釈改憲」が行われることを予想していなかったので、2012年の紫陽花革命に続くデモの季節が3年後に訪れることも予想できず、戦争法に反対する人々の多くが脱原発派であり(特に団体レベルでは)、両面作戦で再稼働に力を割くことができなかったという理由があったにせよ、戦争法阻止より本質的に再稼働阻止のほうが重要だと考える私にとっては、天王山ともいうべき最初の再稼働をかくもたやすくスルーしてしまった脱原発運動って何だったのか、そして、原発そっちのけで反戦争法一色に染まったあの夏の熱気は何なのかという鼻白む思いをどうすることもできなかったものだ。
そうした違和感は、例えば3・11前から朝日新聞の「論壇時評」をずっと担当している高橋源一郎氏への違和感へも通じる。高橋氏は3・11以降、少なくとも2年くらいは「論壇時評」で毎回のように原発について論じ続けただけでなく、自ら『恋する原発』という小説を書くほど脱原発に熱心だった。しかし、もちろん「論壇時評」で論じるべき課題は他にも数え切れないほどあり、とりわけ安倍政権の横暴に関連して論じなければならない重要課題があるのは十分理解できるとしても、後半の2年はほとんど原発のゲの字も出てこないことに次第に不信感が湧いてきた。特にSEALDs登場後の彼らに対するご執心ぶりにはやっかみ抜きであきれて両手を広げたい気持ちを抑えきれない。
むろん私とて戦争法を軽視しているわけではないし、「アベ政治を許さない!」という気持ちは誰にも引けを取らないほど強く持っている。しかし、反戦争法をたたかった人々や団体の法案成立後の反応にも、私は強い違和感を抱かざるを得なかった。
例えば、小熊英二氏の脳天気なほどのオプティミズムはどこから出てくるのか? それから、たしかに脱原発デモと比べて高校生や大学生や学者、ママたちが組織だって参加してきたことは肯定的に評価できるし、脱原発が大飯原発再稼働反対以降、具体的な運動論を失ったのに比べて、今回は次の選挙を見すえて市民連合というような組織を立ち上げたことなどは一歩前進ではあるとしても、国民の7割以上の脱原発世論を背景とし、最大20万人を集めた脱原発、それでも12年年末の総選挙で大敗北を喫した脱原発運動に比べ、安保法制に対する国民の関心はさほど高くない中、最大12万人しか集められなかった反戦争法のたたかいが、たとえ市民連合が目指すような野党共闘が実現したとしても、そう簡単に安倍政権を倒せるとは、各種世論調査などを見てもとうてい思えない中で、自ら火中の栗を拾う覚悟で選挙戦に打って出ることは最初から放棄しつつ、野党の結集を訴えるだけで絶対選挙に勝てるという小林節氏のような確信は、いったいどんな現状分析から導き出せるのだろうか?????などという疑問、等々……
それらの疑問や不信感、そしてそれに対する私の分析や具体的提言は折に触れこのブログでも表明してきたところだ。

『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』(ちくま新書)という本
tikuma.jpgそんな時、この前書店を覗いて新書コーナーを見ていたら、浅羽通明著『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』というタイトルが目に飛び込んできた。そして衝動買いしてしまった。
浅羽通明という人は左翼か右翼か分からない、原発も否定しない、安倍政権も「そんなに悪いものではない」というようなとんでもない人なのだが、この本の内容は一読に値する。
氏はまず、デモに対するリベラル知識人の目的と手段を取り違えた論を徹底的に批判する。「デモで社会は確実に変えられます。なぜならデモをすることで、デモをする社会をつくれるからです」(柄谷行人)とか、「(デモの)効果測定なんかしたら楽しくないから意味がない」(小熊英二)といった言説だ。
ちなみに小熊氏は脱原発派が選挙で致命的敗北を喫した2012年12月22日にも、「…人々の成長は著しい。…どんどん賢くなります。参加を経験し、自分が動くと何かが変わるという感覚を持つ人がたくさん出てきたことに希望を感じます」と朝日新聞に書いていたそうだ。私がひと月ほどほとんど鬱状態になって立ち直れないほどのショックを受けていた時期にだ!
浅羽氏は言う。「必要なのは、「あーダメだ」となって、「よし! もう一度」と再起動する前に敗因を逐一分析して、敵と味方、彼我の力量の差を正確に測定し、そこから目をそむけず、それでも勝てる手があるか、勝てなくとも確実に一矢を報いうる方法はあるか、まるでないのならば、どれくらいの長期計画を立てたなら、力量の差を縮めていけるのかなどなどを、クールに検証してゆく作業、これだけです。」と断じる。至極最もな正論であるが、反原連市民連合にいちばん欠けているのはまさにそこなのではないのか?
リベラル派の知識人たちはよくネトウヨ=安倍晋三=日本会議らの反知性主義を指摘するが、実は彼らリベラル派知識人も、知らず知らずにその業病に感染してはいまいか? かくいう私自身も、2012年夏の高揚に酔いしれ、一時はこのまま日本も脱原発できるのではないかと妄想した瞬間がなかったわけではない。
しかし、私は2011年夏から「デモだけでは脱原発はできない。次の総選挙に備えなければならない」と主張し、微力をつくしたが、私の「同志」は「山本太郎」だけだった。
安保法制を成立させ、この夏の衆参同日選で改憲派が3分の2を確保することを狙う安倍に勝つためには、市民連合ではなく市民新党の結成でブームを起こし、野党結集していく戦術しかないと主張し続けているが、現状では反安倍のそよ風さえ吹きそうもない中、やれ5野党共闘だ、民維合併だと低次元の話に終始している。
浅羽氏は「戦いに負けて勝負に勝った」式のデモする人々の超主観主義を、日本の敗北を最後まで否定した帝国陸海軍のそれにまで喩えている。

リベラル派に欠ける本気度と危機意識
ところで、私は脱原発政府を実現するため自分ができる道として選んだ緑の党への参加という選択肢の中で、彼らが3・11以前から決めていた次期参院選への候補擁立という既定方針を転換して衆院選へ候補を擁立することを否定し、その理由として供託金制度等による多額の選挙資金を上げていたが、そんなのはチマチマ支持者からのカンパに頼っているからいけないのだ、その気になって大胆な活動を展開すれば1億や2億はすぐに集まるものをと思ったもので、実際そのことを山本太郎や緑の党から立候補した三宅洋平が身をもって証明して見せた。
浅羽氏も60年安保の時は面白いようにカンパが集まったと言い、「こういう方向でのアイデアがもっとあっていいんじゃないか。10万人のデモ参加者が千円ずつカンパを出せば、1億円ですよね。1万円だったら10億円です。」と述べている。そして「デモは行くけど、老後も不安だし金までは出さないよというのなら、脱原発や反安保関連法を訴える情熱も、まあその程度たどいうまでです。」と続ける。
その通り! つまりやる気=本気度の問題だ。脱原発のために役者生活をなげうち、自ら捨て石となって選挙に起った山本太郎のようなやる気のある者がどれだけいるのか? 少なくとも、やる気(=改憲)だけなら、安倍晋三は「左翼の皆さん」には絶対負けません!という気概を持っているはずだ。
私が思うに、左翼やリベラルにいちばん欠けているのはこのやる気=本気度と危機意識。そして、右翼に染まって知性までも失いつつあるとあってはお先真っ暗だ。
戦争を肯定するのがイケてて反戦なんかもうダサい時代が来たら、この人たちはどうするのでしょうかね。バスに乗り遅れるなとあわてそう。史上そういう例は多いでしょう。」という浅羽氏の危惧を私も共有する。



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