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広河隆一事件を考える―日本版#MeToo、ボスザル社会克服の契機に [etc.]

「週刊文春」が報じたフォトジャーナリストの広河隆一氏(以下敬称略)の性暴行、セクハラ事件に少なからぬショックを受けた。私は彼が30代後半にパレスチナに関わっていた頃から知っており、チェルノブイリを経て、福島にも積極的に関わってきた彼の主宰する「DAYS JAPAN」も、福島特集号を何度か購読してきた。今回被害が報じられたのはこの10年の7人ということだが、幼少期に形成された人格はそうたやすく変わるものではないので、彼も若い頃から同様の犯罪的行為に手を染めてきたことは容易に想像できる。被害女性の数は元祖#MeTooのハーヴェイ・ワインスタインを凌ぐかもしれないとすら考えてしまう。報道によると、被害女性が「DAYS JAPAN」編集部に辞める旨電話で伝えると、相手は事情を察した様子だったといい、また彼は、ささいなことで激高し、理不尽にスタッフを怒鳴りつけたり罵倒することがしばしばだったというから、編集部も広河のセクハラや性犯罪を知りつつ黙認していたことが窺われ、「DAYS JAPAN」全体の責任も問われよう。単に広河を社長から解任すれば済むという問題でもなかろう。
女性たちは広河を「神」のごとく崇めていたというが、この言葉ほどこの種の男を端的に示すものはない。神といえば慈悲深い全能の存在と肯定的に考えがちだが、それは神の一面であって、裏面では、逆鱗に触れれば天罰を下す無慈悲な絶対権力者が「神」だ。広河のような男は、どの世界ー政治的に右とか左とかも関係なくー一定数存在する。私はかつて労働運動に関わり、それも最左派の部分に関係を持ったことがあるが、その世界にも札付きの「女たらし」がいたし、私が所属した組合の委員長は酒の席で隣に女性組合員を侍らせてそのお尻を触るのが「趣味」だった。また、痴漢常習の組合員もいた。
広河のようにどんなに優れた写真家であり、立派な社会活動を行い、数々の賞を受賞してきてた存在でも、決してそれをもって免罪させるものではないし、むしろセクハラ・性暴行の一事をもって、それらの功績は無に帰するといっても過言ではない。その輝かしい功績も、被害女性らが彼によって陵辱され蹂躙された人生の重み・貴さに決して勝るものではない。このようなセクハラ・性暴行常習者は決して許される存在ではなく、社会的に抹殺されてしかるべき存在だと私は考える。
今から2年前にアベ同様に政治を私物化した朴槿恵大統領を退陣・逮捕に追いやった韓国では、今年初めに女性検察官の告発を機に#MeToo運動が各界で爆発的に広がったが、対する日本では#MeTooといえば伊藤詩織さんが突出した存在なのが実情だ。この広河事件を機に、遅ればせながら日本でも、各界に#MeTooの波が広がることを願わずにはいられない。
韓国は日本以上に儒教社会で男尊女卑の国だったが、昔から女性は「大和撫子」のように恭順な存在だったわけではない。しっかり自己主張し、自分の居場所をそれなりに確保してきた。私は、日本で#MeToo運動が広がるかどうかが、断崖絶壁にある今の日本を救えるかどうかの最後の鍵だと思っており、それが広がれば、今の政治に典型的なボスザル社会を真に民主的な社会へと再生していく可能性がまだ残されている、と微かな希望を抱いている。
生物学的に男であり、男性と性自認する私は、かつてもそのような性被害を受けた女性には単に寄り添う以上のことはできなかったし、今後も自ら積極的に何かをしていくことはできないが、マッチョな男性中心社会、ボスザル支配社会の終焉を望む気持ちは、他のどの男性よりも強いと自認している。

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