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山本太郎はDV男から私を救ってくれるだろうか? [Politics]

 Aとつき合い始めてもう6年半になる。その前の3年間は、それまでとはちょっと違うタイプの男たちとつき合ってきた。最初は宇宙人のような顔をした飄々とした男で、「僕の君への愛は無償の愛で、友愛と言ってもいい」などと訳の分からないことを言って私を口説いた。でも、当時私たちの住んでいたマンションで騒音問題に悩まされた私が引っ越しを迫ると、最初は「最低でも県外へ引っ越そう」などと言っていたくせに、それが難しくなると私を捨てて、彼の仲間のKを私に押しつけてきた。Hとは1年足らずの恋だった。
 Kとつき合い始めて9ヵ月目に東日本大震災が起きた。Kは原発事故で最悪の事態を考えて私を避難させることも考えたそうだが、結局私は避難することなく関東に留まった。当時私はそのことで、Kに相当不信感を抱いたものだが、あとでKが彼なりに最善の努力をしていたことを知り、ちょっぴり彼を見直した。だが、Kとの関係も1年余りのことだった。彼も結局私を捨てて、Hと同じように仲間のNに私を押しつけて逃げていった。
 しかし、Nは見るからに鈍臭い田舎のおっさんといった感じの男で、私は最初から彼を好きになれなかった。一方、彼も私にあまり興味を抱いていないようで、私たちの関係は最初からかなり冷めたものだった。それでも私たちは1年以上、だらだらと関係を続けたが、結局、最後は彼の仲間でもない、いや、本来敵であるはずのAに、私を売り飛ばして私の許を去ったのだった。私はHやKは許せても、Nだけは今でも絶対に許せない。

 実はAとは以前にも1年だけつき合ったことがある。そのときは、会社で起きた問題の責任を追及され、毎日お腹が痛い痛いと言っていたかと思ったら、いきなり「もう終わりにしよう」と一方的に別れを切り出されたのだった。無責任きわまりないボンボンといった印象しかない。
 だが今回は、「君も、1年ごとに君を弄んだ悪夢のようなNたちの時代に戻りたくないだろう。僕が君を、取り戻す。」などと甘い言葉を耳許で囁き、積極的に私を口説いてきた。私もつい、そんなAの言葉にほだされて、Aと暮らすようになった。
 Aは最初、私にとても優しかったが、次第に私の行動に干渉するようになり、少しでも反抗的な態度をとると暴力を振るうようになった。Aは私が不倫をしているのではないかと疑い、私を責めた。私がいくら弁明しても、聞く耳を持たなかった。反対に、私が彼を責めると、理屈にならない屁理屈ばかりを並べ立てて都合の悪いことに蓋をした。
 Aは私の稼ぎも自分が管理すると言って取り上げ、一部しか私の自由にならなかった。そして、その私の自由になるお金も、年を経るごとに徐々に減っていった。私は贅沢をしたいのではない、せめてまともに食べていけるだけのお金をくださいと頼んでも、「家計の管理、この道しかない。」と言って私をまた殴りつけた。
 それでいて、彼は「これからは女性活躍の時代だ。君もどんどん稼げ」と命じ、私にへとへとになるまで低賃金で働かせた。そして、自分では家事など一切せず、疲れ切った私が炊事、洗濯、掃除となんでもこなすしかなかった。
 私は完全にAの奴隷状態だった。奴隷は自由になることなど望まない。何も考えず、ただご主人様の命ずるままに働き、ご主人様のご機嫌を損ねないように気を遣い、ご主人様に暴力を振るわれることを極度に恐れておろおろして生きることしかできない。そうした生活がもう、6年半も続いている。
 2年ほど前には、Aが会社で、かなりやばい汚職事件に複数関与しているという噂を耳にし、もしAが逮捕されたら私は自由の身になれるのだろうか、などと夢想したこともあったのだが、結局それらの問題もうやむやにされてしまった。そのとき私の気が緩んだのを見逃さなかったAは、最近、近所で窃盗事件が多発しているのに、お前は家のセキュリティーがずさんだと言って私を責め立て、すぐにでも強盗が押し入ってくるかのように私を脅した。私はすっかり怖じ気づいて、もうAさんに頼って一生こうして生きていくしかないと思うようになった。
 Aさんは今でもことあるごとに、「あの悪夢のようなNたちの時代」を持ち出し、6年半も私の面倒を見てくれている自分の慈悲深さを私に再認識させてくれる。そうだ、私が毎日のようにAさんに殴られるのは、ひとえに私が悪いのであり、すべての責任は私にある。Aさんは至らない私を見捨てることなく、そうやって粘り強く教育してくれているのだと思う。私の稼ぎの大半を持って行かれ、友だちと飲めや食えやのどんちゃん騒ぎをするのも、Aさんあっての私だから当然のこと。不平を言ったら罰が当たる。だから、私に分不相応なほど衣食住を恵んでくれ、飢えることも凍えることもなく過ごせていることについて、私はいつもAさんに感謝している。

 だから、EとかSとかいう人たちが、時々私を心配して、「あなたはAにDVを受けてるんじゃありませんか? 私たちはあなたを救い出したい」などと言ってくることがあるけれど、私にとってはちゃんちゃらおかしい。私はいつも言うの。「あなたたち、それ、どこまで本気で言ってるの? Aと正面切ってたたかって、本当に私をAの許から助け出してくれる気はあるの?」ってね。すると、EもSも黙りこくっちゃって、きれい事ばかり並べ立ててどこかへ消えちゃうの。
 バカにしないで! そんなへっぴり腰のEやSの口車に乗せられて彼らについていき、もしAにそのことがバレたら、私はAに半殺しの目に遭うだろう。その責任をEやSたちがとってくれるとはとても思えない。それより私は、Aさんに庇護されて生きる道を選ぶわよ。

 そんな私だけど、最近、気になる男がひとりいるの。その男は「あなたを幸せにしたいんだ。」「本物の愛を見せてやる。」って真面目な目を燃えるように輝かせて私に迫るの。Aのことなどちっとも恐れていないよう。そして、「あなたを守る。あなたを守るとは、あなたが明日の生活を心配せずに、人間の尊厳を失わず、胸を張って人生を歩めるよう全力で尽くすこと」「あなたに降りかかるDVという不条理に対して、全力でその前線に立つ」なんて歯の浮くようなことをマジな顔して私に説くの。
 そして、「あなたが不当にAから巻き上げられているお金をすべてあなたの許に返します。あなたが安心して自立していける住まいを提供します。あなたに干渉し、監視し、あなたの自尊心を奪っていたシステムをすべて廃止させ、あなたの人間としての尊厳を取り戻します」って言ってくれるのよ。
 私は最初、それでも自分がそんなことを言われる価値のある人間とは思えなかったけれど、その男の口説き文句を聞いているうちに、自分にもまだ十分、女としての魅力があり、それどころか、人間としての価値ある存在だと思えるようになってきたの。不思議なことよ。
 Aの奴隷になって、何か行動することはおろか、考えることさえ諦めていた私だけれど、この男は“ホンモノ”だっていう気がするの。この男だったら、本当に私をAの軛から解放してくれそうな気がしてきた。もう一度、私が私を取り戻すことができるかもしれないと思えてきたの。
 私は今も、Aの前ではそんなことはおくびにも出さず、Aの奴隷を装っている。でも、私の決意は固まりつつある。この男=Yに私の人生を賭けてみようかと……。
(参考)https://www.reiwa-shinsengumi.com/index.html

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環水平アーク出現! [Photograph]

午前中、外に出たらサングラスを通して虹? 急いで家に戻り撮影。環水平アークといい、太陽の高度が58°以上の時にしか出現しないのだそうだ。

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Kポップ20年…「現地化戦略」BoAから韓国語で歌うBTSまで(ハンギョレ、5月11日から翻訳) [Korea]

Kポップは韓国の文化コンテンツの世界化現象をさす用語である「韓流」の一部分と見ることができる。韓流が国内外で注目される文化現象になったのは、一般的に1997年に中国の国営放送・中国中央テレビ(CCTV)で放送されたドラマ「愛が何だって」の成功以降と見なされる。以降、00年代半ばのドラマ「冬のソナタ」のヒットとそれによる文化現象である「ヨン様」(ペ・ヨンジュンの日本のニックネーム)ブームを通して、日本も韓流の流れに合流した。音楽の韓流の場合、ダンスデュオのクローンが2000年に発表した歌「初恋」が台湾で大きな人気を得たのが始めである。
初期韓流の主な市場は中国と日本を中心とする東アジアであった。最近、韓流の中心がドラマからKポップに移り、東アジアを越えて北米と南米、ヨーロッパ、中央アジア等、全世界に拡大していっている。
Kポップは現地エージェンシーと契約を結び現地化戦略(その地域の言語とスタイルの歌)を通してアルバムを作った第1世代、現地に支社を置き国内で人気のあるアイドルの音楽を現地で宣伝することによって海外進出を模索した第2世代を経て、YouTubeやソーシャルメディア等をベースに韓国語の歌自体で勝負する第3世代に発展してきた。(韓国国際文化交流振興院「2018海外韓流実態調査」)
日本進出に真っ先に目をつけたのはSMエンターテインメントであった。00年代初期に、SMは現地化戦略をとった。現地会社であるエイベックスと協力して日本の作曲家の曲を受けて日本の企画会社で日本語の歌でアルバムを出した。代表的な歌手がBoAだ。日本の大衆はBoAの人気が出た後になって、彼女が韓国人であることを知った。00年代後半、東方神起も同じ戦略で日本で成功した。
以降、現地に支社を置き国内で人気のあるアイドルの音楽を現地でプロモーションする方式に変わった。韓国語でも歌うが、現地の言語に歌詞を変えもした。日本、アメリカ、中国、タイ等、現地の国籍を有するメンバーを1、2名ずつ入れて「軟着陸」に活用した。その国に自分たちを紹介しやすいからだった。こうした方式で00年代後半から2PM、スーパージュニア等が中国、タイ等で大いに人気を博した。
しかし、それまでKポップの人気は東アジアだけに留まっていた。東アジアの外における可能性を示した事件が、2011年5月のSM所属歌手の合同公演「SMタウンライブ」フランス・パリ公演だった。この公演のチケットが早くに売り切れ、チケットを手に入れられなかったヨーロッパの国々のKポップファンたちが、ルーブル博物館の前でスーパージュニアのダンスをフラッシュモブで再現したのが話題になった。これは、Kポップが東アジア以外の地域でもファンを増やしていることを示した象徴的な事件だった。
しかし、唯一アメリカの音楽市場の壁は高かった。Kポップ歌手のアメリカポップ市場進出は2008年頃に始まった。当時、国内で最高の人気を謳歌していた少女時代、KARA、ピ、Wander Girls、BoA、2NE1等が進出したが、すべてビルボードのチャート上位に進出することに失敗した。BoAが2009年にビルボード200チャートの127位に入り、2014年に2NE1が同チャート61位に入ったに留まった。
以降、2012年にPSYの「江南スタイル」がアメリカのビルボードシングルチャート2位を記録し、Kポップを全世界に広める契機となった。しかし、以降引き続き人気を得ることには失敗し、米国市場でKポップの人気は停滞した。
2017年頃、防弾少年団(BTS)が米国市場でKポップの復興の先頭に立った。BTSはYouTube、Twitter、Facebook等、様々なデジタルチャンネルを活用して、海外のファンと直接的にコミュニケーションし、英語でなく韓国語の歌で勝負する等、新しい海外進出方式を試みた。結局、BTSはビルボードトップアーティスト賞を3年連続受賞する等、Kポップの歴史を書き換えた。
大衆音楽評論家キム・チャッカの「Kポップ制作システムの変化:Kポップの両翼」(2019)を見ると、「BoAがブランドは日本で、つくるのは韓国人という一種のOEM方式であったとするなら、以降のKポップグループは韓国が企画と制作を引き受け現地人メンバーが部品として投入される形態に制作方式を変えた。こうしたシステムが可能だったのは、韓国の練習生システムと20年間蓄積されたアイドル育成のノウハウをビジネスモデルとしたため」と述べている。彼は「BTSの成功は既存のKポップシステムにさらにいくつかを加減した結果であり、自ら曲を作り歌詞を書いてアーティスト型アイドルとしてのポジショニングをし、ソーシャルメディア時代に合った豊富なコンテンツで勝負し、英語でなく韓国語で歌ったという点が既存のKポップと違っていた」と評価している。
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[社説]「WTO判定」に言いがかりをつける安倍政権の下心(ハンギョレ) [Korea]

日本政府が「福島の水産物輸入禁止」に関連して世界貿易機関(WTO)の最終審の判定に難癖をつけている。「日本は敗訴していない」と意地を張ったり、WTOに対するあら探しに熱を上げている。国際規約を尊重すべき国際社会の一員としてありえない態度だ。
世界貿易機関への提訴は日本政府が行ったものだ。韓国政府は、福島原発事故後、2013年に福島とその周辺地域の水産物の輸入禁止措置をとった。国民の安全と健康に責任を負うべき政府として当然なすべきことをなしたのである。韓国だけでなく、50ヵ国余りが輸入禁止措置をとった。にもかかわらず、日本政府は、この問題を貿易紛争へと持っていった。唯一、韓国政府のみを相手に提訴を行ったのである。世界貿易機関の最終的な判定を当然、日本政府は受け入れるべきだ。
しかし菅義偉官房長官は、世界貿易機関の「韓国勝訴」判定の直後に記者会見を開き、「日本の主張が認められなかったのは非常に遺憾。日本の食品は科学的に安全であり、韓国の安全基準にも十分適合するとした1審の判断は2審でも維持された。日本が敗訴したという指摘は当たらない」と強弁した。我田引水このうえない。河野太郎外相は「韓国の輸入制限措置の撤廃を要求するという立場に変わりはない」と述べた。一言で言って前後の見境のない無法な態度というほかない。また、日本政府と一部のメディアは、突飛な「世界貿易機関改革論」を持ち出した。河野外相は「世界貿易機関の上訴機関が機能していない。日本は世界貿易機関の近代化に努力する」と述べた。極右性向の「産経新聞」は「何のためのWTOなのか」というタイトルの社説で、「到底、納得できない乱暴な判断である。今回の判断はWTO改革の必要性を再認識させるものでもある。」と主張した。昨年2月に世界貿易機関が1審で、日本勝訴の判定を下したとき、日本政府は「歓迎する。韓国は世界貿易機関の決定を重く受け止めることを望む」と述べた。 ご都合主義の典型だ。
勝訴を予想していた日本が受けた衝撃は大きいだろう。日本が勝訴すれば、韓国だけでなく、他国にも輸出を拡大できると期待していたが、当てが外れた。むしろ日本の水産物の安全性に対する国際社会の疑いを生む格好になった。
日本の中で安倍政権に対する批判と責任論が沸き上がっているという。こうした状況で安倍政権が攻撃の矢を韓国政府と世界貿易機関等、外部に向けるのは、「国内政治用」という分析が出ている。7月に予定されている参院選の前哨戦である大阪と沖縄の補欠選挙(4月21日)を控え、責任論を薄め支持勢力を結集することを意図しているというのだ。日本政府関係者が14日、「安倍首相が6月に大阪で開催されるG20首脳会議で、文在寅大統領との会談を見送る方向で検討に入った」と共同通信等のメディアに流したのも、これと無関係ではないようだ。
日本政府のこうした態度は無責任きわまりない。韓国内の反日感情を高め、両国関係の回復を困難にしうる。日本政府は今、他人のせいにするのではなく、世界貿易機関の判定を潔く受け入れ、自国の水産物の安全性を高めることに力を注がなければならないであろう。

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新元号不使用宣言ー新元号を書かない、言わない、使わない! [etc.]

今日、4月1日昼前に「新元号」が発表され、正午からアベシンゾウがそれに関して、得意のテレビジャックで記者会見を行うのだとか。この国以外で全く用をなさない前時代的な代物を巡って、(私はテレビがないからよく分からないが、)テレビではこの間、「平成最後のホニャララ」みたいな話で盛り上がっていたようだし、今日は恐らく、一日中「新元号フォーバー」でドンチャン騒ぎをやらかすのだろう。
私は天皇制否定の立場から、学生時代である1970年代から、原則的に元号を使用せず、西暦を用いてきた。しかし、役所や店頭で生年月日やその日の年月日の記入を求められるときなど、特に、何かの特典的なものを得ようとするときなど、ムダに相手との間に波風を立てまいとして、「明治・大正・昭和・平成」と印刷された箇所に○をして、受動的ではあれ元号を使用してきたことがあることを、正直に告白しなければならない。
しかし、今回の天皇の交代に伴う改元を機に、新元号の漢字が何になろうと、今後、生涯にわたって元号を、とりわけ新元号を一切、書かない、言わない、使わないことをここに宣言したいと思う。
元号はいうまでもなく天皇制の付随物だ。戦前は憲法に元号の規定があったが、戦後、法的根拠がなくなったものを、今日の日本会議につながる草の根極右勢力の運動の成果として、1979年に元号法が制定され法制化された。明治以来、天皇制が果たしてきた否定的役割はいうに及ばず、天皇=国王の存在は民主主義そのものに反すると私は思っている。戦前は現人神と神格化された天皇は、戦後、「人間宣言」でニンゲンに格下げされたが、マスコミは常に天皇や皇族に敬語を用いることでも分かるように、天皇・皇族は一般人より上の存在として、つまり「日本国民統合の象徴」として存在している。普通の人より上の人がいれば普通の人より下の人がいる。即ち、天皇制は差別構造に根ざした制度なのだ。そして、その天皇の在位期間に合わせて用いられるのが、不便なだけの元号というわけだ。
現天皇や次期天皇の人柄や思想がどうあれ、そのことは全く関係ない。アベやアベを支える極右ヘイト差別者集団が天皇制を熱狂的に支持し、元号にこだわるのも、現天皇や次期天皇個人への尊敬の念や崇拝ではなく、差別に根ざした天皇制という制度そのものへの執着にほかならない。
であればなおのこと、アベ「政権」によって決定される新元号など、の字が入ろうが入るまいが、使うことはできない。
新元号を書かない、言わない、使わない!

新元号不使用宣言

2019年4月1日


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川津桜ー染井吉野より好き [Photograph]

日本人の好む桜(ソメイヨシノ)だが、私はこの白ほど白くなくピンクほど紅くないぼんやりした色の花が、とくに写真を撮るようになってあまり好まなくなった。確かに高木全体に開花した桜並木は見物ではある。しかし、私は桜より、梅や桃の花の方を好む。はっきりしたピンクの桃の花や紅梅を。
ところが、倉敷川の川津桜の並木を見て、私はこの花がいっぺんに好きになった。桃の花のようにピンクが自己主張しながら、しっかりと桜の形をしている。植樹して何年になるのか、まだ背丈が低いが、これが成木になったらどれほど見応えがあるだろうか? これから咲くソメイヨシノを見なくても、今年はこれで十分満足できた。

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73分に及ぶ演奏が飽きさせないーDEZOLVE「AREA」 [Jazz]

IMG_3109.jpgDEZOLVEAREA を聴いて思い出したのが、私がApple Musicを聴くようになって真っ先にダウンロードしたスウェーデンのドラマーJonathan Lundbergのリーダーアルバム「 Iterations」だった。当時それを聴いて、始めて出会うような新しい音の世界に新鮮な衝撃を受けた記憶がある。アルバム全体を貫くトーンも似ているが、なによりポリリズムやスリップビートを多用する山本真央樹のバークリー仕込みのドラミングがJonathan Lundbergを連想させたのかもしれない。調べてみると、ゲストに本田雅人を迎えている点も共通している。
Apple Musicのジャンリングの問題かもしれないが、アップされる日本のジャズアルバムの中にはジャズとはおよそ無縁の単なるインストゥルメンタルバンドじゃないの?と思うようなものが少なくない。そうではない純粋なJ ジャズでも、前にも述べたことがあるように、だいたい10秒聴けばJと分かる作品が大半だ。それはJジャズのよさとしての特徴ならば必ずしも悪いとは限らないが、私にはどうもそれがJジャズの〝ガラパゴス化〟としか思えないのだ。つまり、タコツボ化し、狭い日本にしか通用しないような音に自己満足しているような……。(それは何もJジャズだけの問題ではなく、Jポップにも共通している問題だが。)
そんな中、本作はJものとは露ほども感じさせないワールドワイドかつ斬新で洗練されたフュージョンミュージックの世界を展開している。前述した山本をはじめ4人のメンバーは皆23~26歳と若いが才能に溢れ、エレクトリックとアコースティックを巧妙に融合させたサウンドはハイレベルな調和を醸し出している。73分に及ぶ演奏がちっとも飽きさせず、かつ心地よい。
日本のフュージョンといえば高中正義やカシオペアの伝統を引きずったまま進化しないか、前述したようにジャジーな面をそぎ落とした単なるインストロメンタルミュージックに変質してしまったような演奏が大半である中、世界の最前線で通用するようなすごいスケールを持ったバンドが出現したものだと興奮させられた。

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冬の水鳥たち [Photograph]

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ヒドリガモとオオバン

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オオバン

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キンクロハジロ

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カワウ

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カイツブリ

(倉敷市酒津公園)

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社会学的ノベライズ本として読むべきーチョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』 [Korea]

51roAbTNwzL._SX344_BO1,204,203,200_.jpg「よくできた再現ドラマのノベライズ本」
一昨年、韓国で100万部のベストセラーになり、昨年末日本でも翻訳出版されるとたちまち5万部を売り上げたという本書、遅まきながら購入し、久々の韓国小説を読んでみた。
それまでにもいくつかの文学賞を受賞している作家であり、かつ名門・梨花女子大学社会学科を卒業して放送作家になった経歴の持ち主なので、恐らくあえてこのような構成にしたのだろうが、私に言わせると「よくできた再現ドラマのノベライズ本」といった趣で、小説としては失敗だと思う。精神科医のカルテ(orカウンセリング内容?)というかたちをとって描かれ、統計資料も随所にむき出しのまま無造作に挿入され、主人公が生きてきた時代の各年代ごとの象徴的な事件が生のまま物語に取り込まれるといった手荒な手法は、私にはとても首肯できない。たとえ、このような構成にするにしても、もう少していねいに主人公を造形化てほしかったという気がする。付言すれば、わたくし的にはキム・ジヨン氏が精神科に通って抗うつ剤と睡眠剤を処方されているという前提も気にくわない。

プロレタリア文学との類似性
著者がキム・ジヨンという韓国で最も多い女性の名前を主人公に命名し、他方、登場する男性は夫以外すべて家族関係の呼称か役職などで呼ぶという手法も、主人公に現代韓国女性の最大公約数的人格を与え、他方、男性はあえてそれさえ与えずに記号化したのだろうが、こうした手法は私に、古くは労働者階級(プロレタリア)の階級的属性を形象化した主人公を描くことによって階級対立と階級矛盾を浮き彫りにして階級闘争を鼓舞したプロレタリア文学の手法を思い起こさせる。もっとも、多くのプロレタリア文学の登場人物たちはあまりにステロタイプな階級性によって縛られすぎて、個性や人間味が捨象されていたことを考えると、この小説で描かれるキム・ジヨン氏は個性もあり、個人的に抱える悩みもある人間臭さが感じられる点はプロレタリア文学よりましだし、だからこそ、女性を中心とした多くの読者の共感を呼び起こしたともいえよう。だから本書は、現代韓国の女性問題についての社会学的ノベライズ本としては大成功を収めたのだ。おそらくこの本で提起された現代韓国の女性をめぐる諸問題を社会学の専門書なり、多くの女性に取材したルポルタージュとして出版していたら、これほどまでのベストセラーになることはなかっただろう。

相似形にある日本と韓国、だが日本に欠落している部分
主人公は1982年生まれだが、主人公の抱える問題、直面する問題は、恐らく韓国で女性の大学進学率が大幅に上昇した1980年代に大学入学期を迎えた世代から、現在成人を迎えた世代まで、かなり幅広い年齢層に共通する問題だと思う。そして、韓国の相似形として、それは日本においても同じことがいえる。多くの場合、今世紀に突入するまで、韓国は日本を20~30年後追いしてきたので、日本でいえば1970年代前半に大学入学を迎えた世代以降の女性に多く共通する問題であろう。だからこそ、韓国小説の邦訳としては異例のベストセラーになっているのだろう。もちろん、相似形ということは合同ではない。違いのひとつは、儒教の影響が色濃く残る韓国では、日本では高度成長期にいち早く核家族化して希薄化した家族の紐帯が未だに強いため、「嫁」が夫の実家によって受けるストレスは日本と比べものにならないほどだという点。だが、つい20~30年前までは、「韓国人男性と結婚して韓国に嫁ぐ日本人女性は大変」といわれていた状況は、その間に完全に逆転してしまったのではなかろうか? もともと、仕事中心に生きて家庭をおろそかにする日本人男性と違い、韓国人男性は仕事より家庭を大切にしてきた。共稼ぎ化が進むにしたがい、それまでの「男子厨房に入るべからず」といった儒教的慣習は廃れ、おそらく家事・育児参加率は今では韓国の方が日本よりましなくらいではなかろうか?
とはいえ、あくまで韓国と日本の社会は相似形なので、女性が職場で受けるセクハラや賃金差別、さらに女性に限らず、長時間労働、非正規雇用率、貧富の格差等、両国はどっこいどっこいの現状にある。
だが、日本社会が「失われた30年」を経て、そうした後進的面の改革にほとんど着手しないか、おざなりにしてきたのに対し、韓国はこの30年間のうちに、単に日本に追いつく経済成長を遂げてきただけでなく、制度改革、それに伴う社会・意識改革を着実に積み重ねてきた。そして、その原動力は、本書の登場人物を見ても分かるように、おかしいことをおかしいとはっきり言い、民主化によってひとたび勝ち取った権利を守り育て、行動してでもたたかいとっていこうという国民性にある。そこが韓国と日本を重ねたとき、日本に決定的に欠落している部分だ。
具体的に言えば、2016年から17年にかけて政権を私物化してきた朴槿恵大統領を毎週、100万、200万の市民が厳寒の夜にキャンドルを灯して集まり退陣に追い込み、その半分のエネルギーを担った女性たちが、その後、盗撮ポルノ問題や女性検事の上司からのセクハラ告発に端を発した各界でのMeToo運動へと引き継がれて、今、儒教倫理を引きずってきた韓国社会における女性の状況が大きく変わろうとしている。
そういう状況下で出版されたこの本がベストセラーになったのだ。女性読者は本書を読んで、「私もそう!」と共感した。一方、この邦訳を読んだ日本の女性たちはどう思うのだろうか。恐らく「(日本にもこういうの)あるある」とか「(日本にもこういうの)いるよね」と日本との類似性に共感は覚えても、はっきりと「私もそう!」とわがこととして捉え、考え、声を上げる人がどれほどいるだろうか? そこが日本と韓国の似て非なるいちばんの違いだと思う。
最後に、同じ韓国語翻訳者として、邦訳に関してはいいたいことが山ほどあるが、一般読者にはさほど関心のない問題だと思うので、あえて触れないことにする。

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朝いちで聴くJazz―ECMテイストなトランペットサウンド [Jazz]

IMG_3102.jpgジャズというとお酒を飲みながら夜聴く音楽―というイメージが強いが、ほぼ1日中ジャズを聴いている私にとって、それは当てはまらない。しかし、朝いちばんに聴けるジャズというのもなかなかないものだ。
そんななか、私が長年、朝いちばんに聴いてきたアルバムの第1位はなんといってもKenny Wheelerの「Gnu High」(ECM 1975年)だ。Kenny Wheelerの爽やかな響きのトランペットが紡ぎ出すメロディー(特にオープニングの軽快なHeyoke)は、朝いちばんに聴く音楽として最もふさわしい。


IMG_3105.jpgところで、ここ数ヶ月、朝いちばんに聴いているのが、同じECMから昨年出たオーストリアのギタリストWolfgang MuthspielのリーダーアルバムWhere The River Goesだ。ピアノにBrad Mehldau、ベースLarry Grenadier、ドラムEric HarlandのリズムセクションにトランペットのAmbrose Akinmusireが加わっている。アルバム名のとおり、清らかな川の流れのような清々しさを感じさせるアルバムに仕上がっており、朝いちサウンドにもってこいだ。最初は何気なくダウンロードしたのだが、朝いち音楽として聴き始めてはまってしまった。聴けば聴くほど味の出るアルバムだ。
IMG_3103.jpgECMでトランペットのリーダー作として同じような作品としては、Ralph AlessiがサックスのRavi Coltraneを迎えたImaginary Friendsがある。また、Ralph Alessiが参加しているドイツのピアニストFlorian WeberのリーダーアルバムLucent WatersもいかにもECMらしいアルバムだ。前者はスローテンポとアップテンポの曲をバランスよく取り混ぜた構成。また、後者のタイトル「Lucent Waters」は「Where The River Goes」のイメージにも通じる透明感あふれる作品で、スローで幻想的なトーンの曲中心に構成されている。
IMG_3104.jpgKenny Wheelerといえば、ECM作品ではないが、カナダの女性トランペッターIngrid JensenとサックスのSteve Treselerとのコ-リーダー作Invisible Sounds: For Kenny Wheelerは、2014年に亡くなったKenny Wheelerへのトリビュートアルバム。上述した作品らと比べるとアップテンポで躍動感あふれる曲が多いが、往年のKenny Wheelerを偲ばせる作品だ。

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