SSブログ

原発のない10年後の日本の未来を想像=創造しよう! [Novel]

2013年、「脱原発基本法」の成立により、日本社会は破滅の瀬戸際から奇跡の復活を遂げることができた。もちろん、収束に何十年もかかるであろう福島第1原子力発電所の作業の進展と放射性物質拡散の防止、そして、5mSv/年以上の汚染地域からの住民の移住、1mSv/年以上の地域からの移住の権利の保障、食品汚染の低減化、汚染瓦礫の処理等、問題は山積していた。
しかし、事故から10年を経て、日本もようやく明るい未来の光が見えてきた。
3.11直後の避難対策の決定的誤りと、その後の人権無視の被曝対策によって、福島県民をはじめとした健康被害は残念ながら避けることができなかったが、それもその後の適切な対処により、考えられ得る最少の範囲にとどめることができた。また、不幸にして現れてしまった健康被害、そして今後も発生が予想される健康被害に対して、国が最大限の支援をしていく態勢も整えられた。
一方、2013年に大飯原発3、4号機の稼働が再び停止し、国内のすべての原発と高速増殖炉もんじゅ、六ヶ所村の核燃料再処理施設の稼働が停止して以来、日本の原子力政策は廃炉と使用済み核燃料の処理のためにすべての力が注がれてきた。そして今年、福島第一原発を除いたすべての原発の原子炉から使用済み核燃料を取り出して、敷地内の安全な場所への乾式貯蔵作業が完了した。幸いその間に起きた複数のマグニチュード8クラスの地震でも、全国の原発がすべて稼働停止中であったこともあり、大きな事故を招くことなく、フクシマの悪夢の再現は回避できた。
当初、廃炉反対の声がわき起こった原発立地地域も、廃炉へ向けた具体的工程が示されると、とりあえずの雇用が確保されたことに安堵して、反対論は急速にしぼんでいった。そして、多くの原発周辺地域には、メガソーラー発電施設や風力発電施設が建設され、新たな地場産業となった。
しかし、こうした大規模自然エネルギー発電施設の供給先は、大部分が隣接地域の工場をはじめとした企業向けであった。福島の事故直後、当時の菅首相は、半ば苦し紛れと思いつきで、「10年後の1千万世帯の屋根へのソーラー発電システムの設置」を公言したが、今や1千万世帯どころか、ほとんどすべての住宅に太陽光発電設備が設置され、最新式のものは、太陽熱温水器や地下熱利用などと合わせ、夏冬問わず、一家のエネルギー需要をすべてまかなえるまでになっている。大容量の蓄電設備も普及したので、新興住宅地へ行くと、そこには電柱がない。地下に埋設されたのではなく、電線自体が消えたのだ。5年後にはこうした自給自足型電力が全消費電力の25%に達する見通しというから、3.11以前に原発が供給していたこの国の電力の比率に匹敵することになる。
自給自足スタイルはエネルギーだけにとどまらない。3.11で高まった食料の安全性への不安は、その後、地産地消型の地域農業へのニーズを高めることとなり、今では放射能汚染地域を除く大部分の地域で、食料の50%以上を半径100km以内の地域で自給できるようになっている。もちろん、国全体の食糧自給率も飛躍的に高まった。日本は今や、世界に誇るIT・ロボット産業大国であるとともに、農業大国でもある。
こうした流れに沿うように、大地震の被害を回避する意識もはたらき、都市に過度に集中していた人口が急速に地方へ分散していった。百万人以上の都市部の人口が半減した代わりに、5万人以上の都市人口が倍増した。今や、日常的な人とモノの流れは、こうした5万~10万人単位の地域の中で循環するサイクルが多くの場所で確立している。
そうすると、長距離を移動したり、高速で移動する必要性も減り、自然と自動車の数が減っていった。今や車道を走る車の大半は、バスなどの公共輸送手段と、都市間を結ぶ輸送手段であるトラックが大半を占めている。そして、多くの人々は、自転車や動力付きの1人乗り輸送手段を用いている。3.11で絶望視された「2020年までに二酸化炭素を1990年比25%削減目標」も難なく達成された。
こうしたグリーンエネルギー、グリーン産業が一定の雇用を創出したとはいえ、末期資本主義の構造的矛盾である失業問題は、根本的には解決されずにいる。3.11以降の数年間で急激に下がった日本の出生率も、ここ数年は再び上向き、将来へ向けて明るい見通しが開かれたが、出生率の改善は、せいぜい最悪の社会保障の危機にとって、一抹の光明に過ぎない。社会保障制度の根本的改革、いや、この国の富の分配方式の根本的転換を図らないことには、国家財政の改善を含めて、直面する経済・財政問題の打開は難しいことが、次第に誰の目にも明らかになってきた。ここへ来て、日本にベーシックインカムを導入する議論がようやく本格的に始まった。すでに首相の私的諮問機関である「ベーシックインカム研究会」は3年ほど前に設置されていたが、このたび内閣府の下に「ベーシックインカム検討委員会」が設置されることになった。

2022年の未来の日本から報告すべきことは、まだまだたくさんあるが、この続きは皆さんそれぞれの想像=創造にお任せすることにする。

野田首相に面会する [Novel]

反原連との面談に引き続き、野田首相が官邸前抗議活動に参加している一般市民から抽選で1名と話し合う意向だというニュースを聞き、私も迷わずネットで応募したが、まさか5万倍の倍率をかいくぐって私に白羽の矢が立とうとは、最初は夢ではないかと疑った。
反原連との面談にもかかわらず、金曜日の抗議行動がいっこうに収まる気配を見せないことに苛立ちを覚えた野田首相が、活動家より与しやすい一般市民を、それも1名だけ選んで手玉に取り、「国民との対話」を演出して脱原発の包囲網を脱出し、逆に国民の支持を回復したいという狙いは明らかだった。だったら、「再稼働反対」とか、「人事案撤回」といったありきたりの主張を繰り返すだけでは敵の思うつぼ。ここはグーの音も出ないほど相手をやり込める作戦を考えないといけない。
ジーパンに「No Nukes」の大きなお日様マークの入った黄色いTシャツ姿の私が、官邸に入って通されたのは、首相の執務室。10畳ほどの部屋に超高級な机やソファが配置されている。取材陣はカメラが3台、記者も数名で、ソファに腰掛けた私は、すぐに不思議なほど落ち着きを取り戻した。
間をおかずせわしげに現れた野田首相の姿を目撃して、私は席を立って彼を迎えた。数歩送れて菅前首相も現れた。
「北野と申します。今日はお招きいただきありがとうございます。」
「どうぞお掛けください。」
野田首相が一人掛けのソファにゆったり腰を下ろし、菅氏が私の隣に腰掛ける格好になった。
こうして世紀の対面が始まった。
imageCAT0W0D3.jpg「総理。今日は時間も限られていますし、対談を実のあるものにするために、私の方からいくつか質問させていただきますので、総理はそれに簡潔にお答え願えるでしょうか?」
「分かりました。どうぞ。」
「まず最初に、ひとつ約束していただきたいことがあります。それは、国民との対話を今日限りで終わらせることなく、次回はぜひとも、大変な状況の中で暮らしている福島の人たち、とくにお母さんや子どもたちとお会いいただき、彼らの訴えに耳を傾けていただきたいのです。」
「北野さんはご存じかどうか知りませんが、私は就任以来、4回も福島現地を訪ね、県民の方々の多くの声を聞いてきています。もちろん、これからも必要に応じて、福島を何度でも訪ねるつもりです。」
「私が申し上げたいのは、現地訪問でセットされた場面での県民との対話ではなく、3.11以降、困難な状況を強いられる中で、少なからぬ県民が、やむにやまれぬ気持ちで、自らの生活、そして子どもたちの命と健康を守るために、様々な組織をつくって活動してきている。そうした団体の人々も、この官邸に招いて声を聞くべきだということです。」
「検討させていただきましょう。」
「では、次の質問です。総理は『自らの責任で』大飯原発3・4号機を再稼働させました。総理は『自らの責任』とか『命をかけて』という言葉がお好きなようですが、それほど使命感の強い総理にあえてお聞きします。現在、福島県内の放射線量の高い地域での生活を強いられている人々、とりわけ小さな子どもたちが、数年後に甲状腺がんをはじめとした健康障害が生じたら、総理はどう責任をとられるのでしょうか? もしかしたら、いや、失礼ですがたぶん、その時あなたはもう首相じゃないかもしれませんが、だからといってその責任から逃れることはできないと思うのですが。首相在任中に、子どもたちの避難とか、法的な救済策をとるとか、何か考えがおありですか?」
noda.jpg「福島県民の方々の健康管理につきましては、福島県の佐藤知事とも緊密に連係し、また、文科省、厚労省等関係省庁にも指示を出して、これまでも万全の態勢をもって臨んできているところです。また、去る6月には『原発子ども・被災者支援法』も成立しました。ですから私は、北野さんが心配されるような健康被害が発生することはないと確信しています。」
「でも、不幸にして健康被害が生じてしまったら……。」
「もちろん、原発事故由来の放射能との因果関係が立証されれば、国としても最大限の保障をしていきます。それは、私が首相を辞めた後で、どなたが総理になられても、同じことだと思います。」
「では次にいきましょう。総理は昨年12月16日、福島第一原発の事故は『冷温停止状態』になったとして、収束宣言を出されました。現実にはメルトダウンした原子炉に『冷温停止』はありえないし、4号機の燃料棒プール崩壊の危険性等、現地の状況を把握すれば、とても収束したなどと言えないことは、総理ご自身も十分ご承知のことかと思います。また、いまだに原発事故による避難者が県内外に16万人も存在する。非常事態は続いているのです。
にもかかわらず、総理があえて収束宣言を発したのは、私には、総理が福島の事故を当初から軽視している、日本を揺るがすような事態とは見なしていない、だから、さっさとけりをつけて、停止中の原発もどんどん再稼働して、3.11なんかなかったかのように、元の状態に復したい。そして、自分がそれよりも大事だと考える消費増税の問題等に専念したいという意図が透けて見えるのですが……」
「そんなことはありませんよ。私も福島の事故の深刻さは十分に認識しています。ですから、福島の復興のために、除染にも多額の費用を投じ、一刻も早く、県民の方々が元の生活に復せるように全力を尽くしているのです。ただ、私は一国の総理としての立場から、大所高所から様々な問題に対処していかなければならない。原発の問題だけ、というわけにはいかないのです。とりわけ日本の財政問題は待ったなしです。社会保障と税の一体改革は、私が命を賭してでも成し遂げなければならない最重要課題です。また、最近相次いで持ち上がったわが国固有の領土である竹島、尖閣諸島をめぐる外交問題も、厳正に対処していかなければなりません。」
「たしかに総理大臣たるもの、国が直面するあらゆる問題に適切に対処していかなければならないでしょう。でも、さきほどから申し上げているように、3.11は8.15にも匹敵する、日本にとって国家の存亡をかけた一大事で、いまだ事態は収束していないのです。『国内難民』ともいえる人々がいまだ16万人もいます。さらにその何倍もの人々が、日々放射線の恐怖の中で暮らしています。また、日本中の人々が、食品等による内部被曝の不安の中で日常生活を送っているのです。
そして、万一、フクイチで再び不測の事態が起こったり、地震等によって他の原発で大事故が起きれば、今度こそ日本は終わりです。その後でもう原発をやめようと言っても、恐らく手遅れでしょう。今の日本はそれほどまでに危機的状況に陥っているのですよ。税金がどうの、小さな島がどうののレベルの問題ではない。人口2百万、面積1万4千平方キロメートルほどの幸福の島が、今不幸のどん底にあり、沈みいこうとしているのですよ。恐らく、かなりの日本人が多かれ少なかれ、私のような危機意識を共有していると思います。しかし、総理。あなたにはそうした危機意識のひとかけらも感じられない。
いまや、脱原発は多くの国民の悲願でもあります。それはあたかも、広島・長崎の犠牲によって迎えた敗戦後に、多くの国民が核のない平和な日本と世界を祈願したのにも似ています。
ところがあなたは、菅前首相が打ち出した『脱原発依存』を口先だけで唱えつつ、実際には経済界の言いなりに原発を再稼働し、東電も実質国有化し、国民の税金を投入して救済しようとしている。そんなあなたのやり方に、今まで物言わぬ従順な国民だった多くの市民が起ち上がって、デモに参加し、首相官邸や国会を包囲しているのです。こんなことは、この半世紀、この国でなかったことですよ。みんなこのままでは日本がどうなってしまうのかと、いてもたってもいられない気持ちでいるのです。
だがあなたは、原発は収束した、電気が足りないから再稼働だ、私が責任を持つと、逆の方向へ軽いノリで突き進んでいる。実際あなたは、原発とか原子力自体に、さして興味がないとしか、私には思えないのです。試しに、いくつか簡単な質問をしますので、お答えいただけますか?」
「いいですよ。」
「ではまず、よく聞かれる言葉かと思いますが、プルトニウムについて知っていることをお答えください。」
「プルトニウム? 原発で発電すると出てくる放射性物質でしょう。それを再利用して、わが国は高速増殖炉での発電をめざしている。」
「それだけですか? ちなみに菅さんに、同じ質問をしたいと思います。」
「簡単に言えば、原子炉の中でウラン238が中性子を捕獲して、結果的にプルトニウム239ができるということですね。プルトニウムは自然界にはほとんど存在しない毒性の強い物質で、プルトニウム239の場合、半減期は2万4千年と言われています。」
「菅さんはもともと理系の方だから……。」
「いいでしょう。では野田さん、自然由来放射性物質と人工的につくり出された放射性物質が、人体に与える影響の違いは?」
「基本的に同じじゃないですか? 私はこれまでに数え切れないほど飛行機に乗りましたが、その際にもかなりの宇宙放射線を浴びるそうじゃありませんか。でも私は、この通りピンピンしている。」
「それは、外部被曝の場合でしょう。では、内部被曝にはどういう違いがありますか?」
「それは……。」
「菅さんならお分かりでしょう。」
「まあ、私も多少のことなら……。つまり、自然放射線は人類が太古の昔から慣れ親しんで、耐性を獲得してきたが、人工的な放射線はそうではないので、体内に入ったとき、特定部位に集まってDNAを破壊する、とか。」
「だから、菅さんは理系の方だからと……」
「私も野田さんと同じ文系の人間です。3.11までは、こうしたことには、おそらく野田さん以上に答えられなかったでしょう。でも、3.11後、必死に勉強して、少しは知識を身につけました。自分や、自分の愛する家族を守るため。そして、日本の未来を担う子どもたちを救いたいがために……。私だけではありません。とりわけ、福島の小さな子を持つお母さん、お父さん方は、わが子を守りたいという必死の思いから、猛烈に勉強して、そこから真実と思われる結論を引き出して、自分が正しいと思うことを信念にまで高め、時には家族と衝突し、周囲からは村八分同然の仕打ちを受けてまで、子どもを守るために行動を起こしているのです。国も自治体も、誰も彼らを守ってくれないからです。
 菅さんだって、同じだと思いますよ。理系と言っても、菅さんは原子力の専門家じゃない。」
「ええ、私も3.11までは、お恥ずかしながら、原発や原子力の知識はあまりありませんでした。ところが、昨年の5月頃、福島がようやく危機的状態を脱して一息ついた時に、飯田哲也さんや孫正義さんが、いっしょに原発や自然エネルギーについて勉強しましょうと言ってきて、それで一度みなさんに集まってもらって勉強会みたいなものを開きました。それから、遅まきながら私もいろいろ勉強しました。私が原子力発電をやめなければならないと確信するようになったのは、それからですね。」
「お聞きになりましたか。菅さんは、浜岡原発を停止した後、原発や自然エネルギーについて勉強して、脱原発依存を唱えるようになったそうです。ところが、その跡を継いだ野田さんは、脱原発依存を唱えながらも、実際にやったことと言えば、電力需給からは必要性のない、しかも活断層が存在する可能性さえある大飯原発の拙速な再稼働であり、原子力行政に対して独立性を持ってチェックするはずの原子力規制委員会に、委員長はじめ3名も原子力ムラの人間を送り込もうとすることでした。
 そして、そもそもあなたは、福島の事態を全く深刻に捉えていない。いまだ世界中から注視されていることさえ見ようとせず、いや、大変な被曝の中で過酷な労働を強いられているフクイチの労働者は言うに及ばず、生活も何もかも奪われた福島県民の苦悩への想像力のひとかけらもないのでしょう。だから、原発や原子力について正しい知識を得よう、勉強しようという意欲も湧かないのでしょう。正しく知ることなくして、正しい判断はできません。現実を真正面から見ようとせずには、何ら正しい政策は打ち出せません。だからあなたは、電力業界や経済界、経産省の官僚たちの言うままに、国民の意識から遠く外れた政策しか提示することができないのです。」
「北野さん、それはあまりにも一方的な決めつけではありませんか? そんなでは、これ以上話をする意味がない。失敬する!」
「待ちなさい。逃げるのですか。だったら、こそこそ裏口から逃げないで、正面玄関から堂々と外に出てご覧なさい。何万もの人々が、今この時も『再稼働反対』『原発いらない』と怒りの声を上げていますよ。あなたが政治家としての信念に基づいて行動しているのなら、彼らの中に入って行って、彼らの声に真摯に耳を傾け、堂々とご自身の見解を述べたらいかがですか。」
「失礼なやつだ。無礼きわまりない。やつをつまみ出せ。逮捕させろ!
こら、逃げるな、野田! 恥を知れ!
恥を知れ! 恥を知れ!――私は自身の叫び声に驚いて目を覚ました。
部屋の小窓からは、微かに朝の光が差し始めていた。枕元の時計を見ると、ちょうど4時半だった。暑い夏の夜の夢だった。

小説・再稼働(最終話) [Novel]

なんということだろう! 夜空一面に色鮮やかな花火の大輪が咲き誇っている! ドン、ドン、ドン……花火はやむことなく連続して発射され続け、数分間、宿内原発上空は季節外れで場違いなショーが繰り広げられた。
「わあ、きれい!」
「何なんだ、あれは!」
人々は、正門前のマスコミや野次馬はもちろん、原発を包囲した武装機動隊員も、我を忘れて思わぬ夜空のショーに見惚けた。
やがて轟音がやんでつかの間のショーが終わり、人々はようやく我に返ることができた。不覚をとった武装機動隊は、気を取り直して大急ぎで正門から突入し、3号機方面へ突進した。しかし、彼らが3号機建屋前に到着したときには、その場におびただしい数の自爆用ダイナマイト、ライフル銃、自動小銃等の武器、それに、テロリストたちが脱ぎ捨てた黒いつなぎ服や帽子、覆面、サングラスなどが散乱しているばかりであった。
大部分の隊員が茫然自失しているなか、最初に自爆用ダイナマイトの束を手にした機動隊員が、
「何だ、これは?」と素っ頓狂な声を上げた。ダイナマイトにしてはやけに軽いと思ってよく見ると、それは中が空洞のプラズティックの筒の束だった。起爆装置も中が空っぽの単なるプラスティックのケースに過ぎない。
それを見た別の隊員が、足下にあったピストルを手にして、誰もいない方向へ向けて引き金を引いてみた。すると、ピュッと水が飛び出した。思わず周りから笑い声が湧き上がった。他の隊員がライフルを手にして引き金を引くと、今度はものすごい音がしたので、一瞬周りの隊員は身をすくませたが、それは空砲であることがすぐに分かった。重さも本物の半分もない、よくできたおもちゃだった。
「回収、回収、直ちにすべての遺留品を回収!」分隊長が駆けつけて、その場に居合わせた隊員たちに命じた。水鉄砲は、もしかして液体が猛毒成分かもしれないと、科捜研に運ばれて精密分析されたが、単なる水道水であることが判明した。
これらの事実を、政府はひた隠しにして、午後9時から官房長官代理が記者会見を行い、次のように述べた。
「10日間にわたり宿内原発を占拠していたテロリストたちは、退去予告した午後8時、約千発の花火を打ち上げ警備の隙をついて敷地外に逃走、未だ所在がつかめていません。また、テロリストたちが籠城していた3号機建屋前の路上には、彼らが遺棄したものと思われる百余挺の銃と実弾数千発、テロリストたちが自爆用に装着していた爆破装置付きダイナマイト数千本等が発見されました。ここに、犯人を取り逃がしたことを深くお詫びするとともに、一刻も早く犯人を逮捕すべく全力を尽くすことをお約束いたいします。また、今回の事件で、日本政府は凶悪なテロリストの要求に屈することなく、原発爆破というテロ行為も許さずに、無事解決に至ったことに安堵を覚えているところであります。」
「大量の強力爆弾は発見されたのですか?」記者団から質問が出た。
「残念ながら、現在まで発見されていません。また、犯人らが逃走するときにそれらをともに持ち去ったかも不明です。」
「爆弾と思っていたものは、実は花火ではなかったのですか?」別の記者が声を上げた。
「一切不明です。」官房長官代理が声を荒げた。
しかし、テレビでこの会見が流されている頃、ネット上では“アジアの赤い虎”によって、彼らが現場を立ち去る間際に撮影されたと思われる映像が流されていた。そこには、夜空を彩る花火と爆音を背景に、彼らが体から取り外した「ダイナマイト」の束を片手で持ち上げて見せ、次いでそのうちのひとつを外して中身が空であることを示し、また、「起爆装置」も中が空の単なる箱であることを示す映像が映し出された。それから、別の2人のコマンドが、たがいにピストルを相手に向けて発射し合うと、中から水が飛び出すシーンもあった。彼らは覆面をしていて表情は見えなかったが、その後、おどけた仕草で飛び跳ね、カメラに向けてピースサインを送った。
後日、内閣府の調査で判明したことであるが(警察・検察は事件の捜査には終始ノータッチだった。電力供給公社、とりわけ原子力部門は一種の治外法権の領域であることが昔からこの国の不文律であった。)、赤い虎の集団が原発敷地に侵入して3号機を占拠するまで、1発の銃弾も発射されていなかったのである。にもかかわらず、警備員を含むすべての職員が、全くの無抵抗状態で赤い虎の命令に従順に従った。
また、事件以降、逃走した赤い虎は、逮捕はおろか有力情報ひとつとして報じられることはなかった。しかし、事件解決前から、政府はメンバーのなかに電力供給公社の職員や宿内原発のメーカーである東日の社員が複数名含まれていることを把握していた。さらに、赤い虎を乗せたコンテナトラックが通過した正門の守衛をはじめ、赤い虎の協力者が発電所内に何名かいることも判明した。そして、堂々と3号機前まで乗りつけた「TONICHI」のロゴが入ったトラックが、偽装工作されたものではなく、本物の東日のトラックであることも、事件直後に把握していたのである。しかし、これらの事実は政府や電力供給公社、さらには原発メーカー等にとって“不都合な真実”であるため、政府はすべて握りつぶしたのである。
守衛はじめ数名の内部協力者は「人質」となって赤い虎に「拘束」され、彼らとともに逃走したものと思われる。だが、いや、それゆえ、彼らを含む赤い虎のすべてのメンバーは、今後永遠に身柄を拘束されることはないだろう。

エピローグ


年が明けて1月10日、首都は小雪の舞う寒い日であった。宿内原発をはじめ、この国のすべての原発は発電を停止したままであったが、こんな寒い日でも電力は十分供給されていた。
「アジアの赤い虎事件」から1ヵ月を経た今日は、下院議員選挙の投票日であった。
与党国家民主党は分裂し、若き新党首のもとで立て直しを図ったが、野党への転落が確実なだけでなく、議席獲得さえ危ぶまれる状態であった。一方、社会主義自民党は一時期与党・三倉地批判で支持率を伸ばしたものの、肝心の原発・エネルギー政策が曖昧なため伸び悩んでいた。そうしたなか、一部良心的な国家民主党議員も参加して、それまで脱原発運動を行ってきた市民が中心となって「脱原発市民」という政党が結成され、この選挙の台風の目になっていた。「脱原発市民」は、まがいものであれテロリズムに脱原発を求める動きが生まれ、またそれによってしか宿内原発再稼働を阻止することができなかった自らの非力を反省しつつ、今こそひとり一人の市民の自覚した政治意識によって、平和的にこの国を脱原発社会にしていかなければならないと訴え、幅広い国民の支持を得た。
投票は午後8時で締め切られる。そして、今夜中にも大勢が判明する。
(了)

小説・再稼働(4) [Novel]



12月10日、事態が急変した。お昼過ぎ、それまで数日間遮断されていたインターネットが突然通じるようになったのである。三倉地政権の民主主義を逸脱する行為を座視できなくなった同盟国が、綿密な情勢分析を行った末に、日本が完全な独裁国家になって核武装の危険性を孕むより、原子力エネルギー政策を放棄することになっても、同盟国として、民主主義国家として存立する方が自国の利益に適うと判断し、緊急に日本上空をカバーする通信衛星を相次いで打ち上げたのである。その通信衛星が発する電波によって、インターネットが通じるようになったというわけだ。
その事実を事後通告された三倉地総統は、即座に内政干渉だと同盟国に抗議したが、その抗議は受け入れられず、それどころか、三倉地政権は同盟国から引導を渡されたも同然の状態であった。
その日の夕刻、政権幹部を除く全国会議員が国会上院に集まり、緊急両院議員総会が開かれ、三倉地総統の罷免決議を全会一致で採択、野党第一党である社会主義自民党の割垣(わるがき)総裁を臨時総統に選出し、割垣臨時総統はその場で下院の解散を宣言した。かくして憲政史上例のない経過をたどって、下院議員総選挙が行われることになったのである。
こうした動きを受けて、宿内原発3号機建屋内の“アジアの赤い虎”たちも素早い動きを見せた。幹部らは緊急会議を開き、もはや交渉相手を失った状態で、三倉地総統に突きつけた2つの要求は意味がなくなったものと判断した。そして1ヵ月後に行われる下院議員選挙でどんな政権が誕生するにせよ、その間、1月10日までは政権に空白期間が生じるため、再稼働の決定が下される可能性はほぼない。そして、万一新政権が再稼働をしようとしても、手続きにかかる時間と実際の再稼働までの時間を考慮すると、再稼働の時期は冬の電力消費のピークを過ぎ、暦の上ではとうに春になっているであろう。つまり、もはや再稼働の大義そのものが失われたのである。
“アジアの赤い虎”はその夜のうちの原発撤収を決定した。



午後7時30分、“アジアの赤い虎”は、ネット上に午後8時に宿内原発を撤収するとの声明文を発表。同声明文はマスコミ各社へも送られた。
8時を前に、宿内原発正門付近はマスコミ関係者をはじめとした人々であふれかえり、また、海に面した部分をのぞく宿内原発周辺は、数千人の武装機動隊によって包囲された。
そうした敷地外の喧噪を尻目に、百余名の“アジアの赤い虎”たちは、10日ぶりに3号機建屋の扉を開けて外に出てきた。そして、10日前に宿内原発に侵入した時と同じ素早さで、建物の中から手際よく「強力爆弾」の入った容器を運び出し、原発敷地内を囲繞するように一定の間隔を空けて置いていった。その様子は、敷地外からも一部目撃されたが、人々はそれを見て不安がるだけで、武装機動隊も身じろぎもせず注視する以外に術がなかった。
「“アジアの赤い虎”が撤収予告した午後8時まであと1分を切りました。さきほど爆弾らしきものが建物の外に運び出される様子が目撃されましたが、それ以降、内部に目立った動きはない模様です。」マイクを持ちヘルメットを被った男性リポーターが正門を背に実況中継していた。
その時だった。ドン、ドン、ドン、ドンッ――と、敷地内のあちこちから連続して爆発音がとどろき渡った。正門前のマスコミや野次馬はもちろん、原発を包囲した武装機動隊員も、悲鳴を上げ逃げ惑った。辺り一帯は完全に混乱状態に陥り、先ほどのリポーターも職務を放棄し、どこかへ消えてしまった。
その数秒後、今度は上空にまばゆい閃光が走った。人々はとっさに手をかざして光の方向へ目をやった。
(続く)

小説・再稼働(3) [Novel]



対策本部の意向はさっそくホットラインを通じて“アジアの赤い虎”へと極秘に伝えられた。しかし、彼らはその提案を即座に拒否した。われわれは一切の裏取引に応じるつもりはない、と。
しかも、その提案内容が官房長官の動画という動かぬ証拠によって、10分後にはインターネットを通じて世界中に流された。その事実を知った政府は、必死に情報ソースを削除しようとしたが、その時にはすでに、問題の動画は無数にコピーされ、あちこちのサイトにアップされていて、手の施しようがなかった。
先の厄島事故で政府とマスコミに不信感を増していた国民は、テロリストの要求に何の反応も示さない政府に疑念を抱き、インターネットにかぶりついていたところなので、マスコミが何も報道しないなか、政府が裏取引を提案したという事実は瞬く間に全国民に知れ渡ることとなった。こうして、政府は国際社会と国民と、ふたつの世論の激しい批判に曝されることとなった。
最大野党・社会主義自民党は三倉地総統の辞任を要求し、与党・国家民主党内からも総統の責任を問う声が公然と巻き起こった。
それまで、再稼働反対・容認にかかわらず、テロリストの行為に批判的であった大多数の国民世論も、その批判の矛先が完全に三倉地総統の卑劣な裏取引に集中していった。三倉地総統はわれわれ全国民を欺き、国民の血税をこっそりとテロリストに差し出し、素知らぬ顔でテロリストに強硬姿勢をとるポーズを示したうえ、再稼働まで思いのままになそうとしていたのだ、と。
事態は完全に膠着状態に陥った。今となっては、総統会見も官房長官会見も、したくても開けない状態だった。たとえそこで何を発表しても、国民はだれもそれを信用しないだろうし、その内容を支持するとも思われなかった。



月が明けて数日が無為のうちに過ぎた。3日には国会で、社会主義自民党が提出した内閣不信任案が、国家民主党の造反議員も巻き込んで過半数を制して下院で可決された。しかし、それに対して三倉地総統がとった行動は、内閣総辞職でも下院解散権の行使でもなく、超法規的な「国家非常事態」宣言であった。三倉地総統は非常事態宣言と同時に、すべての権限を「宿内原発テロ事件中央対策本部」改め「国家非常事態中枢本部」とその本部長である総統へと集中させた。
そして、言論統制令を公布して、マスコミを完全に政府の統制下に置くとともに、インターネットの遮断を各通信会社・プロバイダーに命じ、すべての国民は国内にいる限り、インターネットにアクセスする手段を失うこととなった。国際社会はこうした三倉地総統の独裁的権限の行使を強く非難したが、そうした情報はもはや国民のもとに届くことはなかった。現代における鎖国、情報鎖国とでもいっていい状態であった。
三倉地総統のとった措置は多くの国民に常軌を逸した行動と受け止められた。しかし、その後の国民の判断はふたつに分かれた。多数派は、もはや完全に理性を失った三倉地総統に恐れをなし、“触らぬ神に祟りなし”と沈黙を決め込んだ。一方、少数派とはいえ少なからぬ人々は、勇敢に三倉地総統の悪政に立ち向かった。インターネットが通じないので、人々は文字通り自然発生的に街頭に出て、一定の人数ができると思い思いのかけ声やプラカードを掲げてデモをした。「三倉地独裁政権打倒!」「宿内原発再稼働反対!」といった主張がメインスローガンであったが、そのうち「アジアの赤い虎断固支持!」「アジアの赤い虎とともにたたかおう!」などと、“アジアの赤い虎”に共感を寄せるデモ隊も出現した。当初デモ隊への規制を自制していた警察権力も、ことここに至ると黙視できず、無抵抗のデモ隊に襲いかかり、根こそぎ連行していった。
こうした状況の変化は、宿内原発の“アジアの赤い虎”たちにも伝わった。三倉地総統の豹変ぶりは、彼らにも“想定外”の出来事だった。そして、彼らも身動きできない状態に陥った。
こうしてさらに数日が無為のうちに流れていった。
(続く)

小説・再稼働(2) [Novel]



正午になった瞬間、全国すべてのテレビのチャンネルは、何の前触れもなく、黒い帽子、サングラス、黒い覆面で顔を覆った黒服姿の男を映し出した。椅子に深々と腰掛けた男の背後には、ライフル銃を持った彼と同じスタイルの“兵士”2人が立っている。間を置かず口を開いた男は、先ほど三倉地総統にしたのとほぼ同じ内容の話を淡々とした口調で述べた。男の話は簡潔で、革命家によくありがちな饒舌さはみじんもなく、決起の大義や正当性を述べるでもなかった。代わりに、事前に用意してあったフリップを用いて、宿内原発3号炉建屋の見取り図を示し、彼らが仕掛けた百発の爆弾のうち1つでも爆発すれば建屋は吹き飛び、さらに10発を同時に爆破させれば圧力容器も損傷させる威力があること、そしてそれによって大気中に漏れ出す放射性物質の拡散予想図等々を示しながら、話は専門的分野に及びつつもきわめて具体的で、テレビに釘付けになった全国民は、わずか1年あまり前の厄島事故の悪夢が蘇り、みな一様に体を凍りつかせた。
こうして、あらかじめプログラムされていたかのように1時間ぴったりで過不足なく宿内原発からの生中継が終わると、その後各局の放送は、数日にわたりこの事件に関する様々な特別番組で昼夜埋め尽くされることになった。
厄島原発事故でも政府の危機管理能力のなさが改めて露呈されたが、三倉地政権も事故から何の教訓も得ていなかったようで、事件発生から10時間が経過した午後8時になっても、総統はおろか官房長官の記者会見も開かれなかった。“アジアの赤い虎”の要求をめぐり、どうやら閣内は収拾がつかないほど混乱している模様だった。
一方、マスコミの論調は、それまで再稼働を支持していた右派メディアは「テロリストの暴力に屈してはならない」と強硬論を展開した半面、脱原発指向であったメディアは自爆テロを強行された場合の放射能の危険性を強調し、この際、犯人の要求の有無にかかわらず再稼働中止を宣言すべきだと主張した。このようにマスコミの論調は真っ二つに分かれたが、奇しくも両者に共通するのは、厄島事故後、一部で指摘されていたこの国の原発テロに対する備えのなさへの批判であり、もうひとつは“アジアの赤い虎”の要求のひとつである再稼働と引き替えの10億ドル支払いへの言及がほとんど見られないことであった。
さらに、タブロイド判夕刊紙やスポーツ新聞は、これまで一度も聞いたことのない“アジアの赤い虎”というテロ組織へもっぱら関心が向けられた。ある新聞は既存の国際テロ組織と関係があるだろうと論じ、他の新聞はこれまで非暴力に徹してきた脱原発運動に不満を抱く一部過激分子が組織した純粋の国内組織だと断じたかと思えば、テレビで1時間の堂々たる犯行宣言を行ったリーダーは、脱原発に転じようとして職を追われた前総統の甥に違いないという珍説まで飛び出す始末だった。



午後1時に招集された緊急閣議では、三倉地総統自身、事件への具体的対処策が何一つ提示することができない状態で、各大臣から意見が百出して収拾がつかず、かろうじて決まったことといえば、総統、官房長官、国家公安委員長、電力供給公社総裁、国防・産経・財務・外務の各省大臣と事務次官から構成される「宿内原発テロ事件中央対策本部」の設置くらいであった。
以降、“アジアの赤い虎”との交渉窓口は、実質的にこの「中央対策本部」が担うこととなった。しかしここでも、事件への対応をめぐり、侃々諤々の議論が繰り広げられることとなる。
電力供給公社総裁は、とにかく再稼働は既定の事実だからそれを曲げられては困る、テロリストの要求通り10億ドルを払うなり、警察庁のテロ対策特殊部隊や国防軍を投入して鎮圧するなり、早急に事態を収拾して再稼働に向けた態勢を整えてほしいと訴えた。すると、国家公安委員長は口角泡を飛ばして、「原発は安全で絶対事故も起きなければテロリストが侵入する可能性もない」と無策を決め込んできたうえ、昨年の厄島事故後も何ら緊急対策を講じなかった電力公社をひとしきり非難した後、テロ対策特殊部隊は国家機関や空港などの公共施設でのテロ行為に対する訓練は積んでいても、原発を対象とした訓練は全く行っていないのでお手上げ状態だと述べた。国防省長官も同じだと言って両手を挙げた。
「それでは、同盟国のテロ専門鎮圧部隊の応援を求めてみたらいかがでしょう。」厚顔無恥とはこのことをいうのか、悪びれるそぶりもなく、電力供給公社総裁が平然と言ってのけた。公安委員長と国防大臣が同時に口を開きかけたが、二人とも呆れたといった様子で、そのまま言葉を飲み込んだ。
すかさず機転を利かせた産経省事務次官が口を挟み、ここはテロリストの要求通り10億ドルをスイスの口座に振り込むのが現実的な対応策ではないかと提案した。すると、今度は外務大臣が激怒し、そんなことをしたら同盟国をはじめ国際社会の理解が得られない、テロリストの要求を呑むことはあり得ないと突っぱねた。財務大臣も、海外から笑いものにされるだけでなく、10億ドルもの国費を支出することは、そのまま国民の税負担になるので、国民から反発を招くと同調した。
すると、妙案が浮かんだのか産経大臣が膝を叩いて、「官房長官。ここはひとつ、官房機密費から捻出していただくことはできませんか」と官房長官に尋ねた。官房長官は、額が額だけに難しいが不可能ではなかろう、だが、いずれ10億ドルの出所が野党などから追及されるので、それは必ずしも得策でない、と述べた。
「それでは、こういうのはどうでしょう。」と、産経省事務次官が遠慮がちに口を開いた。「テロリストと裏取引をして、10億ドルをスイスの口座に振り込むのです。政府は彼らの身の安全を保障し、裏で逃亡を助けてやります。そして、表ではテロ対策特殊部隊が宿内原発に強行突入し、テロリストは取り逃がすものの、原発を彼らの手から取り戻し、翌日総統は3、4号機の再稼働を宣言するのです。」この大胆な提案に、一座は色めきだった。「それは名案だ。しかし、肝心の赤い虎側がのってくるかどうか……。」と官房長官が呟いた。
一同の視線が、終始一貫瞼を閉じてうつむき加減に拱手していた三倉地総統へと注がれた。その視線のエネルギーを感じたのか、おもむろに目を見開いた総統は、低くかすれるような声でひとこと言った。――それでいってみましょう。
(続く)

小説・再稼働(1) [Novel]

この物語はフィクションであり、実在するいかなる国家、団体、個人とも一切関係ありません。

20XX年9月11日、日本民主主義人民共和国を襲ったマグニチュード9.0の大地震と大津波によりメルトダウンを起こした厄島(やくしま)原子力発電所事故は、三倉地*総統の「事故収束宣言」とは裏腹に、事故後1年以上たった今でも依然危険な状態が続き、爆発した4基の原子炉の残骸からは放射性物質が大気中・地中・海中へと四方八方排出され続けている。
事故後、この国の発電量の3割近くを占めていた原子力発電は、定期点検により相次いで稼働を停止し、11月6日にはついに最後の1基が定期点検に入り、半世紀ぶりにこの国から“原子の火”が消えた。事故前、「原子力は安全」「原子力はクリーンなエネルギー」という洗脳教育を受けてきた国民も、事故により「安全神話」が崩壊し、「脱原発」の方向へ大きく動いていった。そうしたことに焦りを覚えた共和国電力供給公社と産業経済省官僚は、「冬の電力不足」キャンペーンを大々的に展開し、事故直後に実際に発動した「計画停電」をちらつかせて経済界を震え上がらせたうえで、三倉地総統をして宿内(すくない)原発3、4号機の再稼働を宣言させようとしていた。
*三倉地(みくらじ)はハングル表記すると미꾸라지すなわちドジョウを意味する。




11月30日、師走を目前に控え、宿内原発再稼働をめぐる動きが急だった。1月、2月の冬の電力消費量のピークに間に合わせるためには、ここ一両日中に総統の最終的なゴーサインが必要であった。ピーク時に1基も原発が動いていなければ、高緯度に位置するこの国では、1年を通して原発なしでも電力が間に合うことを証明することになってしまうので、脱原発の国民世論を勢いづかせるだけでなく、下手をすれば原発再稼働の機会を永遠に失うことにもなりかねなかった。そのため三倉地総統は、もともと原発マネーで手なずけられていた地元宿内町長や厄井(やくい)県知事と形だけの会談を相次いでもち、明日にも再稼働正式決定を下すという観測が流れていた。すでに数日前、三倉地総統は会見を開き、「国民の生活を守るために再稼働は必要です。私がすべての責任を負います。」と大見得を切っていた。
午前9時50分、宿内原発正門を、東日の「TONICHI」というロゴが大書された1台の大型コンテナトラックが静かに入構していった。運転手は守衛と顔見知りなのか、座席から開け放たれた窓越しにカードを提示しながら、笑顔でなにやら二言三言言葉を交わし、コンテナの扉を開けて中を改められることもなく、フリーパス状態で関門を通過した。
トラックはそのまま、加圧水型のドーム状をした原子炉の立ち並ぶ構内のいちばん奥を目指してゆっくり進み、3号機の前まで来て停止した。あたりに人影はほとんど見られなかったが、予定された来車だったのか、トラックが停止するとほぼ同時に、建屋の扉が音もなく開かれた。



黒いつなぎに黒いつば付き帽子を被った運転手と助手は、座席から外に出ると小走りでトラックの後ろに回り込み、慣れた手つきで扉を素早く開け放った。すると、まるでクモの子を散らしたように、運転手らと同じスタイルで黒の覆面をした百名は下らない人影が一斉に路上に降り立ち、訓練された軍人たちのように一糸乱れぬ動作で積み荷を降ろし始めた。その間に、十名ほどの別働隊が全速力で建屋内に走り込んでいった。よく見ると、彼らの手には一様に銃らしきものが握られていた。
1つ1メートル四方はあろう木製の重たそうな積み荷を50個ほど降ろし終えた本隊の人員は、休む間もなく積み荷をバケツリレー式に建屋内に運び始めた。そして、すべての荷物が建物内に運び込まれると、建屋の扉がゆっくりと閉じられた。トラックが到着してからものの5分も経たない出来事だった。
建屋内ではすでに数名の警備員たちが別働隊の武装集団によって制圧されていた。そして、ようやく館内にけたたましい非常ベルが鳴り響く頃には、本隊・別働隊の全員が、ボックスから取り出されたものを身にまとったうえ、本隊は一斗缶ほどの“装置”を建物中にくまなく配置していった。その間に、別働隊10名は迷わず中央制御室に向かい、居合わせた職員らを無抵抗なまま拘束して制御室を占拠した。
しばらくして、宿内発電所の古田所長が2名のコマンドに脇を抱えられてやってきた。古田所長はリーダーとおぼしき人物に、総統官邸とホットラインをつなぐよう命令された。拘束を解かれた所長は、部下にあれこれ指示し、20分後には制御室の一角に設置されたテレビ電話システムの画面に三倉地総統の緊張した顔が映し出された。
やがてゲバラひげたくわえた40がらみのリーダーがおもむろに口を開いた。
「われわれは国際テロ組織“アジアの赤い虎”だ。われわれは午前10時、武装部隊百余名で、宿内原発3号機を占拠し、宿内原発全体は今われられの制圧下にある。総統もご覧の通り、われわれは全員、自爆用のダイナマイトを装着し、起爆装置を手にしている。さらに、強力爆弾を3号機建屋の百ヵ所以上に配置した。また、制御室に残っている10余名の職員の分を含め、1ヵ月以上の食料も建屋内に運び込んである。よって、われわれは、機動警察隊はおろか、自衛軍によっても制圧することはできない。」
「総統の三倉地だ。君は何者だ。まず名乗るのが礼儀だろう。」三倉地総統の気色ばんだ声が画面の向こうから響いた。
「われわれは先ほども言ったように、国際テロ組織“アジアの赤い虎”だ。」
「それは分かった。私が聞いているのは君の名だ。」
「それは答える必要がない。“アジアの赤い虎”は全員が思いをひとつにしている。私の意志は全員の意志だ。」
「よかろう。答えたくなければ答えなくとも。で、君たちの要求は何なんだ。」少し落ち着きを取り戻した三倉地総統が低い声で尋ねた。
「われわれの要求はふたつだ。その1、宿内原発3、4号機を再稼働させるな。そのことを、テレビを通して全国民の前に発表せよ。
その2、宿内原発3、4号機をどうしても再稼働させたいならば、10億米ドルをスイスのわれわれの口座に振り込め。
もしわれわれの要求を無視して一方的に再稼働を発表した場合、われわれは即時自爆テロを敢行する。
それから、付帯的要求事項として、このホットラインを通じて、本日正午から1時間、テレビ局各社にわれわれの生の声と映像を放送させること。
以上。
考えるまでもなく、あんたらが姑息な手段を用いてわれわれに奇襲攻撃を仕掛けようものならば、間違いなくわれわれは捕捉される前に自爆テロを敢行するだろうから、それによってもたらされるすべての結果に対して、日本政府と三倉地総統は責任を負わなければならない。」こうきっぱりと言った後、リーダーは自ら総統官邸とのホットラインを切断した。
(続く)

小説『友に寄す』電子書籍版刊行! [Novel]

友に寄す.jpg
先に電子書籍版で復刻した私の処女作『極北のレクイエム』に収録されていた「友に寄す」が、同じく電子書籍版で復刻されました。
1970年代の北海道の大学を舞台に、差別や「強制送還」という警察権力の脅しに苦悩しつつ、在日としてのアイデンティティを確立していこうとする〈友〉と、差別者である〈私〉との心の交流を、当時の学生運動などを背景に描いた作品で、私にとって韓国・朝鮮との関わりの原点となった出来事を下敷きにしています。
在日や差別、さらには韓国を巡る状況は、この間大きく変化しましたが、今日読んでも、民族や人種を越えた友情を考えるヒントを多く与えてくれるものと確信しています。
[バッド(下向き矢印)]
http://p.booklog.jp/book/44754

『極北のレクイエム』電子書籍版刊行に寄せて [Novel]

私の処女作『極北のレクイエム』が絶版状態になって久しいため、このたび電子書籍化することにした。
職業作家でない私は、小説を書くということは、常に〈自己総括〉作業であり、書くという作業(時に苦行でもある)を通してそれまでの自分を乗り越えてきた。とりわけこの作品は、学生時代の活動とその挫折から10年をかけて完成しえただけに、本の刊行によってようやく私は、それまで引きずってきた学生時代の負の遺産を清算して、未来へ向けての一歩を踏み出すことができたのであった。
それだけに、刊行当時はもちろん、その後数年間は、自著を読み返すたびに、私の関心はもっぱら主人公の島浩一郎をはじめとする登場人物の人間模様に向けられ、私がこの小説で扱った70年代の学生運動-内ゲバに象徴される60年代学生運動のネガティブな側面が全面開花した時代-そのものに向けられることは少なかった。
しかし、今回十数年ぶりにこの本を読み返してみて、さすがに四半世紀もたてば、作品は作者から独り立ちし、作者は全く客観的立場から作品を眺めることができることに気づかされた。そして、執筆当時にはあまり意識化できなかった作品の別の側面を強く認識させられることになった。
それは端的にいえば、島浩一郎が属したノンセクトラジカル(NR)の学生運動が、実は革マル派(作品では「マルクス派」)や中核派(同「中央派」)といったセクト主義から決して自由たり得なかったという強い認識であり、作品は一見、そうした時代背景のもと、それに翻弄される友情物語の体裁をとりつつも、当時私が思っていたように、島や山根や松浦、そして水野芙美らの人間的な真摯さとそれと裏返しの弱さ…といったところに物語を主導的に動かしていく力がはたらいていたのではなく、実は革マル派-中核派の党派政治の非和解的な殺人ゲームの大きなるつぼの中に彼らの全存在が投じられていたのだという、圧倒的な歴史認識であった。
であるが故に、今となっては私の手を離れた客体として存在するこの作品の読後感は、救いようのない絶望感であるとともに、70年代学生運動を規定づけて学生運動自体をなきものにしてしまった党派政治(革マル・中核に限らず)の内ゲバにいきつくセクト主義への憤怒の感情であった。
とまれ、『極北のレクイエム』は、60年代後半の(全共闘)運動に比べて圧倒的に語られることの少ない(無い)70年代学生運動のネガティブな面を、セクト主義から自由たり得なかったノンセクトラジカルの学生運動の側から描いた作品として、その文学史的価値が決して少なくないと、われながら思う次第である。

極北のレクイエム.jpg
http://p.booklog.jp/book/43151

死の淵から奇跡の再生 [Novel]

僕の名前はセキセイインコのミウ。みんなミウ君って言うよ。5年半前、生まれて2週間の時、クリスちゃんといっしょにこの家に来た。
クリスちゃんは賢くて好奇心旺盛で、ちょっぴり意地悪で力持ちで、そのうえプライドも高くて、何もかも僕と正反対の鳥だった。子どもの頃、クリスちゃんにいじめられて羽から血を出し、獣医さんに連れて行かれたことがあったけど、僕はクリスちゃんが大好きで、いつもクリスちゃんのまねっこばかりしていた。

kurimiu2.jpg


そんなクリスちゃんは、2歳半の時、自由を求めて自らカゴの隙間から抜け出し、大空に旅立っていった。それ以来、僕はひとりぼっちになってしまったが、僕はクリスちゃんみたいにこのカゴから逃げようなんて思わなかった。なぜなら、弱虫の僕には、カゴは外敵から身を守ってくれる大事な場所だからだ。だから、クリスちゃんがいなくなってから、パパはいつもカゴの出入り口を開けっ放しにしてくれているけれど、僕は気が向かなきゃめったに外へ出ない。たまにパパが出口を閉め忘れたままベランダに出しても、僕は外へ出なかった。
それなのに、カゴは僕を守ってくれなかった。

今からひと月前、五月晴れのさわやかな日だった。いつものようにベランダでいい気持ちで毛繕いをしていると、突然空が暗くなり、何かがカゴの上を覆った。僕はびっくりしたけど、慌てることなく見上げると、僕の何十倍もあろうかという真っ黒なカラスだった。大きいことは大きいけれど、うちの人たちと比べれば小さいものだ。だから僕は、全然怖いと思わなかった。
「遊ぼ!」とカラスが低い声で言った。
それで僕は、
「いいよ。何して遊ぶ?」って、カゴの天井に飛びついた瞬間だった。
僕の体ほどあるカラスのくちばしがいきなり僕の両足に噛みついて、猛烈な勢いで引っ張った。
「ギャ!」大声を上げたのは覚えているけど、その後どうなったのか全く分からない。気がつくと、僕はカゴの底に投げ出され、カラスの姿はいつの間にか消えていた。僕は止まり木に飛び移ろうとしたけど、体が動かない。そして、足のあたりが猛烈に痛かった。まわりを見ると、真っ赤な血がたくさん飛び散っていた。僕は気が遠くなり、そのままうとうとしてしまった。
どれほど時間がたったろう。ベランダのガラス戸の開く音がして、
「わあ! ママ、ミウ君が大変だ!」と叫ぶパパの声がした。
それから、僕はカゴごと部屋の中に移され、パパとママが慌てた声で話していた。
「今日は休日だから、どこの病院もやってないだろう。」
「インターネットで調べて電話してみたら。」
さらにしばらくして、
「近くの病院はどこもやってないよ。隣の町の獣医さんで、鳥は見ていないと言うので、事情を話したら、連れておいでと言ってる所があるにはあるけど…」
「じゃ、すぐタクシーでそこに行こうよう。」
それで僕は、このうちに来る時クリスちゃんと入れられてきたワラで編んだ丸い小さな箱に入れられて、車で隣町の動物病院へ向かった。
めがねを掛けた男の獣医さんは、僕をつかんでひっくり返してあちこちいじった後、こう言った。
「右足が根本から完全になくなってますね。左足もすねのあたりで折れていて、放っておくと自然に取れてしまうかもしれません。よほどの覚悟を決めて面倒を見るか、安楽死させるか、よくご相談ください。」
僕はまた箱に戻され部屋を出た。そのうち、お姉ちゃんが息せき切ってやってきた。パパが、さっき獣医さんの言ったことをお姉ちゃんに繰り返すと、お姉ちゃんは、
「私だったら生きたい。」と、泣きそうな声で言った。
「分かった。」そう言ってパパは、僕を連れてまた獣医さんの所へ連れて行った。
「分かりました。」と獣医さんは言い、また僕をつかんで薬を飲ませた。
「明後日、また連れてきてください。それまで、タオルのような柔らかいものの上に置いてやってください。」
家に帰ると、パパが水とエサをくれた。あの時から何も口にしていなかったので、僕は夢中になって水を飲み、エサを食べた。足は痛かったけど、ものすごく食欲はあった。

受傷後.JPG


2日後、パパが僕を獣医さんに連れて行こうと、また小さなワラの箱に入れようとしていたら、ママが、
「小鳥を見てくれる病院に連れて行った方がいいんじゃない。」と言った。それでパパは、僕を抱えて、歩いて行ける近くの病院へ連れて行った。
そこの病院の先生は、まだ若い女の先生だった。
「こんなひどい傷を負った小鳥を見るのは初めてです。」と言って、僕をパパから引き離して別の部屋へ連れて行き、僕を縛り付けて何かしたり、体中をあちこち触った。そして、またパパの所へ連れて行ってこう言った。
「人間で言うと、膝の下の部分で複雑骨折してますね。今手術をすれば直る可能性があります。そして、神経がつながっていれば、指が自由に動くようになり、片足で木に止まることもできるようになるかもしれません。でも、やってみないと分かりません。」
「よくなる可能性があるなら、手術してください。お願いします。」すぐにパパが答えた。
それで僕は即入院ということになり、別の女の先生が手術してくれた。折れたところに金属の細い棒を入れたのだそうだ。痛くはなかったけれど、その間身動きできず、とてもつらかった。
それから僕は、2日間病院の小さなケースの中で過ごした。パパやお姉ちゃん、ママがお見舞いに来てくれたけれど、帰ることはできなかった。
3日目に、やっと僕は家に帰れた。残された片足には、包帯とテープがぐるぐる巻かれていた。僕は、昔カメちゃんたちが入っていた小さな水槽の中に入れられた。そこで2週間ほど、痛い足を引きずりながら動いたり、エサを食べるだけの生活を送った。朝晩、パパが僕をつかんで薬を飲ませた。それが嫌で、僕は「ビー、ビー」と鳴いた。でも、その後で、パパやお姉ちゃんが僕の頭や首をなでてくれるので、僕はうっとり目を閉じ、なされるに任せる。あれ以来、パパやお姉ちゃんのこれが、僕の唯一の幸せなひと時だ。
あの時から、この「ビー、ビー」という声を出す以外、僕は鳴くことを忘れてしまった。鳴く元気もなかったし、カラスに襲われた時のショックから、声も出なくなっていたのだ。
それでも、2週間ほどすると痛みもとれ、水槽暮らしが窮屈になってきた。それで、僕がバタバタ暴れるので、パパは膝掛けを床に広げ、その上に僕を置くようにしてくれた。僕はその上で、足を引きずりながらくちばしと羽を使って動き回ることを覚え、そのうち不自由な足も少しずつ使えるようになっていった。
退院してからも、2、3日おきに、パパは僕を病院へ連れて行った。先生はいつも、「よくなってますよ。」と言うが、そのたびに足の包帯を交換するため僕をつかむので、僕はその間中、「ビー、ビー」鳴き続けた。でも、いつだったか、病院へ行く途中、空の方で、小鳥のさえずりが聞こえるので、僕は思わず「ピー」と小さな声で鳴いた。そしたら、パパがとても喜んでいた。
最初、風切り羽も抜けてしまい、飛ぼうとしてもうまく飛べなかったが、3週間くらいたつと、部屋の中を飛び回って、パパやママを慌てさせた。飛ぶのはいいけど、足が使えないから、どこかに止まろうとしても止まれず、最初は墜落してしまったからだ。



ちょうど1ヶ月がたち、いよいよ足に埋め込まれたピンを抜く日が来た。すでに3日ほど前から包帯はとれていた。僕が口でつついてとってしまうので、先生が「もういいでしょう」と、外してくれたのだ。で、その時以来、僕の足の指がかなり自由に動くようになり、ものをつかむこともできるようになった。それで、いよいよあちこち歩いたり飛び回れるようになった。
ピンはあっという間に抜けた。見たら3センチほどあった。あれが足の中に入っていたのかと思うと、なんだか気持ち悪くて、僕は思わずくちばしで足を触ってみた。
「ピンを抜いたので、また骨が折れてしまう可能性があります。その時は、再手術をしてピンを埋め込み、今度は抜かずに、ずっとそのままにすることになります。なので、2、3日は安静にしてください。その後は、むしろ足を動かして“リハビリ”した方がいいでしょう。」と先生が言った。
それで、家に帰ると、僕は底を外したカゴに3日間入れられた。でも、そうしている間に、昔のことを思いだし、「ギャー」と鳴いたり、大きな声で「ピヨ」と言ったり、気持ちがいいと「~.@?:*;~」とうまく表現できない声でさえずったりできるようになった。そして、薬の時間には、パパの目を盗んで部屋を飛び回っても、くちばしと足を使ってどこかに止まることもできるようになった。
4日目、いよいよカゴの扉が開かれ、自由に部屋の中を動けるようになった。僕の生活は、すっかり元のペースに戻ったも同然だ。もちろん、あの危ないベランダには出られないけれど……。
その日の晩、薬をもらって、いつも寝る部屋に連れて行かれ、カゴの扉も閉められてからのことだった。僕は、いつも寝る時に、ブランコに止まって寝ていたことを思い出した。見上げると、ブランコがあった。僕は、思い切り飛び跳ねて、くちばしと足で何とかブランコにつかまることができた。そうしていると、ブランコについている鈴の音を聞きつけたパパがやってきた。
「ミウ君! どうやってそこに登ったの! すごいね!」そう言ってパパはカメラを持ってきて僕を撮った。
その時の映像が、これだ!
[1][2][3][次項有]



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。