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キエフ化する東京を実感 [No Nukes]

ツイッターを見ていると、よく都内の通勤電車で急病人が発生し電車が遅れたとか、なかにはホームに横たわる人の写真付きでそれをツイートするものもある。そんなツイートを見ていて、私は「ちょっともりすぎ?」「ことさら騒ぎすぎ?」と、半信半疑だった。
私がかつて都内に電車で10年ほど通勤していた頃は、日常的によくあった遅延理由は、ポイント故障など電車の運行システム上の問題、踏切事故や人身事故、それに乗客が網棚に置き忘れた荷物を駅員が捜索するため、などだった。急病人発生というのはあまり記憶にない。

自著『亡国記』のプロモーションのために、23日の代々木公園の集会に合わせてほぼ1年ぶりに上京し、都内に滞在している。そして集会の翌日、朝のラッシュ時に小田急線に乗った。すると、アナウンスが流れ、踏切に車が立ち往生したのと、どこかの駅近くで急病人が発生して停車したため、電車に遅れが出ているという。さらにしばらくすると、小田急線に乗り入れている千代田線でも、急病人が発生したため、大幅に時間に遅れが出ているという。立て続けのことだった。しかも車掌は、「具合の悪い方は早めに乗務員にお申し出ください」というアナウンスを何度か繰り返した。
これにはさすがに私も驚いた。実は冒頭紹介したようなツイートが事実なのかどうか、上京したらぜひ確かめてみたいと思っていたので、私はもはや、それを疑いのない事実と認めざるを得なかった。単なる偶然とはとても思えない。
東京電力福島第1原子力発電所の4つの原子炉が爆発して大量の放射性物質が広範囲に撒き散らされてから、あと半年足らずで5年になる。物忘れの激しい日本人は、もうフクシマのことなど過去のことのように思っている人も多いようだが、原子力緊急事態宣言は発令中で、事故はなにひとつ収束していない。これから「直ちに影響のなかった」健康被害が徐々に出てくる時期を迎えるのだ。
チェルノブイリ原発事故から来年で30年を迎えるベラルーシやウクライナでも、未だ放射能被害が絶えることがない。東京程度に汚染されているといわれるウクライナの首都キエフでは、事故後生まれた子どもたちの健康状態が極めて悪く、体育の授業をまともに受けることができるのは2人に1人くらいだという。
すでに福島県内では子どもの甲状腺がんが70倍以上の異常な高さで発生しているのをはじめ、様々な健康被害が生じているようだ。首都圏の通勤電車内での急病人の発生も、放射能被曝から身を守ることを避けていると、そのうちとんでもない事態になることを示す重要なシグナルと深刻に受け止める必要があろう。
ただ、今回の上京で、私は何人かの人々に会う機会があったが、原発や放射能に無自覚な人なら大いに警告して注意を促すところだが、みな原発に反対し放射能にそれなりに備えている人々なので、面と向かって私の体験した事実を述べるには何かしら気が引けるものがあった。
最後は、ひとり一人が現状を正しく認識して判断し、自分のとるべき行動を主体的に決めていくしかない。ただ、未成年の子どものいる親は、私だったらどんな無理をしてでも、西日本へ移住するだろうことは確かだ、とだけは言っておく。実際、私の家族は、今現在首都圏には誰も住んでいない。



『亡国記』-お陰様で好評をいただき即重版になりました! [No Nukes]

多くの国民の反対と周辺火山の噴火活動の活発化という警告を無視し、主な電力会社のうちでも真夏の最大電力使用率に最も余裕があるにもかかわらず、ただただ自社の利潤追求と「原子力ムラ」の生き残りのためにのみ再稼働した九州電力川内原発は、最大出力を得る前に早くもトラブル発生! といっても3.11以前ならこの程度のトラブルは各原発ではトラブルともいえぬ日常茶飯事で、新聞記事にもならなかったろうが……。

2年近く続いた原発ゼロが破られようとするなか出版された『亡国記』が、各方面から好評をいただいている。
まず、本書の帯でも小出裕章さんとともにご推薦をいただいた文芸評論家の斎藤美奈子さんが、8月5日付「東京新聞」の「本音のコラム」に一文を寄せていただいた。

戦慄の原発小説
 火山活動は活発化しているわ。川内原発は再稼働に向けて動き出すわ。政府はあんなザマだわ。右を見ても左を見ても不安だらけの日本。
 このタイミングを見計らったように出版されたのが、北野慶「亡国記」(現代書館)。二度目の原発事故を想定した希代の長編小説だ。読者より一足早く校正紙で読んだ私は叫んでしまった。なに、この怖さとおもしろさとリアルさはっ!
(中略)
 フィクションとは思えぬ臨場感。大震災後に出た数々の原発関連小説の中でも読み応えはピカイチじゃないかな。多くの人には未知の作家の大きなチャレンジ。日本列島が海に沈む小松左京「日本沈没」(一九七三年)や日本が東西に分断される矢作俊彦「あ・じゃ・ぱん」(九七年)にも負けぬスケール感に圧倒される。

また、8月23日付「北海道新聞」「本の森」欄でも以下のようなインタビュー記事を載せていただいた。

原発と震災 近未来に警告
 5年前なら「ありえない!」と一顧だにされなかったかもしれない。だが、「3・11」を経験した今は、たった1カ所の原発で起きた重大事故が日本国自体を崩壊させるという物語が現実味を帯びて迫る。400字詰め原稿用紙約650枚の労作は、「近未来シミュレーション小説」とでも呼びたい読後感だ。
 「(東京電力)福島第1原発事故が起きても原発をやめられない日本人に怒った神様が、時間を持て余しているやつを捕まえて、『大変なことになるぞ』と(警告するために)書かせてくれた気がする」と創作の道のりを振り返る。
(中略)
 この小説は初め、別の題でインターネット上に発表した。読者から「一気に読んだ」「考えさせられた」の好意的な評価を得、さらに「続編を読みたい」との要望を受け書き足した。
 「(11年の)3・11で人生観がひっくり返された」と言う。当時は埼玉県在住。それまでは「国内に五十数基の原発があるのを考えることなく暮らしてきた人間」だった。3・11以降は東京都内の反原発デモにも参加した。だが12年12月の総選挙で脱原発に消極的な自民党が大勝。「すごい挫折感で1カ月ぐらいうつ状態になった」。13年4月に福島からより遠い岡山市に移った。
(中略)
 「1人でも多くの人に読んでほしいと思い、分かりやすい言葉を使って書いた。原発が『それでも必要』と言う人にも」と願う。

その他、Twitter、Facebookなどでも、有名無名の老若男女の方々から「一気に読んだ」「みんなに読んで欲しい本」「恐ろしくリアリティーのある近未来」「読みながら戦慄を覚えた」「原発に反対の人も、推進しようとしている人も、必読でしょう」「原発再稼働が始まろうとしている今だから背筋を寒くする」等々、たくさんの感想をいただいている。
思えばちょうど2年前の今ごろ、「すべての日本人に読んでほしい、そして考えてほしい」の一念から始めた無謀な挑戦が、今報われようとしている。しかし、その思いが真に報われるのは、「危険な原発はいらない! 安心して暮らせる国であってほしい」という国民の思いが高まり、この国から、そして世界から、原発がなくなる時であることを忘れてはならないと肝に銘じる。



原発のない明日の日本のために、今からでも私たちにできること [No Nukes]

日本滅亡へのカウントダウンが始まった
川内原発1号機が新規制基準下で初めて再稼働した。これを機に、今秋以降堰を切ったように再稼働ラッシュが始まり、現在進行中のフクシマの悲劇などなきがごとく、原発大国ニッポンが復活するだろう。しかし、たまたま地震・火山活動の弱まった半世紀ほどの間にその隙を突いて林立してきた日本の原発が、3.11まで大きな事故を起こさなかったことのほうが奇跡に近く、再び地震・火山の活動期に入った今、今日の再稼働によって、日本滅亡へのカウントダウンが始まったと覚悟を決めたほうがいい。
2年前の大飯原発再稼働を巡って盛り上がった脱原発デモも、肝心のこの時期、戦争法案反対デモにお株を奪われ精彩を欠いている。なるほどアベ=棄民党政権が倒れ野党が政権を取れば、野党第一党の民主党が与党時代に約束した「2030年代に脱原発をめざす」政策が最低限の公約として掲げられるかもしれないが、それまでの20年間に起きるであろう巨大地震や巨大噴火によって、再びフクシマを上回る悲劇的な事故が起きないとは、誰も保証できない。
政治の力で脱原発が果たされないなら、市民ひとり一人の知恵と力で、各電力会社に直接、原発の停止と廃炉を迫っていく以外にない。そのための方策を再度整理しておこう。

①電力料金1円不払い運動
電力事業の地域独占化で、現在まで私たち国民は、好むと好まざるとに関わらず、沖縄を除くすべての地域で、原発を所有する電力会社と電力供給契約を結ばざるをえなかった。そこで、私たちが決して電力会社の原発稼働を認めてはいないことの意思表示として、1円不払い運動はある。詳しくは「原発再稼働申請に抗議の1円不払い運動を!」(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2014-02-14)をご覧いただきたい。毎月の電気料金支払時にいったん1円を留保することによって、電力会社には事務費用のロスが生じる。ひとりでも多くの人がこの運動に参加することによって、電力会社により大きな打撃を与え、かつ原発反対の声を直接電力会社に届けることができるのだ。

②メガバンク解約運動
各電力会社の大株主であり融資元でもあるメガバンクの口座を解約し、信用金庫やゆうちょ銀行へ変更しよう。解約件数が何十万へと増えれば、経済整合性がないにもかかわらず電力会社(とりわけ犯罪企業=東電)を支え続ける銀行の行為が問われることになる。なお、有力地銀の場合、その地域の電力会社と、やはり株主・融資関係にあることが多いので注意が必要だ。

③家庭用電力自由化で真っ先に地域独占電力会社の解約を!
来年4月から、いよいよ家庭用電力が自由化される。誰でもできる原発への反対の意思表示として、これ以上のチャンスはない。電力会社を選ぶ基準は価格ではなく、原発由来電力を使っているかどうかだ。1軒でも多くの家庭が既存電力会社を解約することによって、家庭用電力料金から利益の9割を得ている彼らにいっそう大きな打撃を与えることができるのだ。

④ソーラーパネルの設置でオフグリッド化へ
さらに、一戸建て持ち家に住む家庭は、ソーラーパネルを設置し、できれば蓄電装置も設置して電力会社とつなぐ電線を一切カットしてオフグリッド化し、電力の完全自給自足をめざすべきだ。ソーラーパネルも高効率化しているので、さして大面積のパネルを設置しなくても、よほどの悪天候が続かない限り、日常生活に不便なく電気を使える。
2012年6月、当時の菅首相は国際舞台で「1千万戸ソーラーパネル設置計画」を打ち出したが、単なる打ち上げ花火に終わってしまった。しかし、たとえ国による大胆な設置補助政策がなくとも、市民の意識改革によってその計画を超過達成することは可能だ。

万一に備えて常に避難の準備を!
そうしてあらゆる手段を使って既存電力会社を追いつめ、原発を所有し使い続けることがいかに非経済的で、ひいては経営破綻をも招きかねないことを悟らせることによって、この国から原発をなくしていくことが可能になる。
しかし、その日まで大地震・大津波・大噴火等によって第2のフクシマ、壊滅的な原発事故が起こらない保証はどこにもない。明日にも川内原発1号機が破滅的な事故を起こし、放射性物質が偏西風に乗って日本列島を覆い尽くすかもしれないのだ。
備えあれば憂いなしとはいえないが、常に物心ともに事故に備えておくことが、万一の時に自分と家族を守る道だ。原発事故を甘く見てはいけない。30km圏だけに被害が及ぶわけでないことは、フクシマの例でも学習済みだ。たとえ、事故の起こった原発から何百キロ離れていようと、四方を海で囲まれた狭い列島に住む私たちに必ず安全といえる逃げ場はない。いざとなったら、決して政府やマスコミの垂れ流す情報など信じることなく、無用・無益な被曝は避けつつ、真っ先に逃げるが勝ちなのだ。あらかじめ万一に備え、家族と避難場所や避難経路、避難手段等を相談しておくことをお勧めする。

もちろん、そうした悲劇的な結末を迎える前に、選挙で原発推進政党を政権の座から引きずり下ろし、「即時原発停止、全原発廃炉」を掲げる政権が誕生することを願う。しかし、3.11以降、脱原発と原子力ムラの力がせめぎ合う中で、この間、流れは悪い方へといきつつある現実を冷静に見なければならない。

*確かに原発の問題は単なるエネルギー問題ではなく、日米原子力協定の問題、また、「核の抑止力論」「核武装論」等とも関係した軍事問題でもある。しかし、原発を所有し運営する電力会社、ましてや来年以降、独占的地位を解かれる民間会社にとって、原発は第一義的に経営上の問題だ。それでも国が遮二無二原発を維持し続けようとすれば、多くの国民に原発がエネルギー問題でなく軍事問題、安全保障問題であることが暴かれ、反原発感情を高め、核アレルギーを招く結果になるだけだろう。



夏休みの1冊はこれ!『亡国記』-みんなで考えよう「原発再稼働」 [No Nukes]

戦争で「国破れて山河あり」、原発で「国滅びて山河のみ」
戦争法案を巡る安倍政権の横暴ぶりに、さすがに多くの国民が安倍の正体に気づき始め、「アベ政治を許さない」という声が日増しに強まりつつある。脱原発の抗議運動の時には弱かった学生等若者たちの動きも、SEALDsを中心に目立つようになった。
しかし、その陰に隠れるように、川内原発では1号機への核燃料の搬入が7月7日に始まり、8月10日にも再稼働する見通しだ。新しい規制基準による初の再稼働で、これを許せば来年以降、雪崩を打つように再稼働ラッシュが始まるものと思われる。
誤解を恐れずにあえていえば、たとえ戦争法案が通った果てに日本が戦争に巻き込まれ、先の大戦のような悲惨な結末を招いたとしても、敗戦の廃墟の上にゼロから、今度こそ過去の亡霊を一掃して新しい国造りをしていくことは可能だが、地震と火山の活動期に入った今、再稼働の果てに第2のフクシマを招いたら、壊滅的な核汚染の果てに、たとえ生き残った者がいたとしても、二度とこの国土、日本列島の上に原発のない新しい国造りをすることはできないのだ。原発で国が滅びれば、核に汚染された山河には二度と人が住めなくなってしまうからだ。
3年前、官邸前や国会周辺に集まった市民たちは十分自覚しているだろうが、多くの国民は、そうした危機意識とフクシマの真実にあまりにも疎いのではなかろうか?
もう一度確認しよう。今日、政府やマスコミによって操作された「フクシマ」でなく、ありのままのフクシマの真実を前提にしたとしても、それは数々の幸運の積み重ねによって「あの程度」の事故で済んだという事実を。
例えば、あの事故が東の外れの福島で起きたために、排出された核物質の8~9割方が広大な太平洋へ流され、国土の汚染が極限されたこと。もしあの事故が浜岡原発以西の原発、つまり日本の原発の半数以上がある地域で起きていたら、核物質の大半は日本の国土、それも関東地方をはじめ最も人口が集中している地域を汚染したであろう。
あるいは、福島第一原発が相次いでメルトダウンした時、福島第二も一時期避難指示が出されていたし、さらに女川原発や東海第二原発も間一髪で全電源停止や津波による浸水の被害を免れたという事実を。もし地震が、敦賀・大飯・美浜・高浜原発やもんじゅの集中する若狭湾で起きたら、一原発で被害を食い止めることは不可能で、連鎖的に他の原発にも被害が及ぶだろう。フクイチでさえ、一時「撤退」の話が出たのだ。当時最高権力者であった菅元首相自ら、「首都圏5千万人の避難を考えた」と後に述懐している。もし若狭湾の「原発銀座」で破滅的な連鎖事故が起きれば、関西圏・中部圏・首都圏と日本の人口の大半が集中する広範な地域に避難命令が出されることになるが、何千万もの人間がどこにどう避難しろというのだろうか? そして、そうなれば、どこかの大臣が「福島では一人の死者も出さなかった」と豪語したその放射能の急性障害による死者を出すことが避けられないだろう。
未だ12万人が避難生活を余儀なくされている福島県民の払った犠牲を、あまりに軽く考えすぎているのではなかろうか? その福島県民には申し訳ないが、被害が「あの程度」で済んだことを、他の1億2千万人の国民は感謝しなければならないのだ。そして、感謝するということは、二度と同じ過ちを犯してはならないということに他ならない。

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すべての日本人に読んで欲しい、そして考えて欲しい!
そういう切なる気持ちから、私は2年近く前に、想像力をはたらかせて「最悪のシナリオ」のひとつを考えてみた。そして、それを小説にしてみた。すべての日本人に読んで欲しい。そして考えて欲しい-その思いが今、ようやく『亡国記』という作品に結実し、みなさんに届けることができることになった。(8月初め発売予定・ただ今予約受付中)
川内原発再稼働を目前に控え、この夏休み、できれば一家に1冊備えて、お子さんからおじいさん、おばあさんまで読んでいただいた上で、みんなで話し合って欲しい。そして、ひとり一人が自分の問題として原発の問題を考えて欲しい。



脱原発-反原発と終戦-敗戦のアナロジー [No Nukes]

3.11以降、フクシマを許してしまった一部活動家による孤立した「反原発」闘争への反省から、より幅広い国民的コンセンサスを得るべく「脱原発」という言葉が造語され、かつ流行さえした。そして実際、脱原発は国民の7~8割の支持を得ることに成功した。
私も、3.11によって初めて原発の本質に気づかされた愚者のひとりとして、脱原発陣営に身を置いてきた。しかしこの脱原発という言葉は、原発と福島の事故の本質や責任等を曖昧化する負の側面もあわせ持っていた。実際、脱原発と言った時、それはいつ実現すべきものなのか、発電手段としての原子力はそもそも認められるものなのか、事故の責任はどこまで追及すべきものなのか等々に関して、一切不問に付してきた。その結果、当時の民主党政権は2030年代の脱原発をめざすとする「脱原発依存」なる言葉までつくりだして、より問題を曖昧化したし、国民の7~8割の脱原発の中身も極めて曖昧模糊としたものに過ぎなかった。
脱原発を政治の責任として問うべき2012年末の総選挙で原発推進派が大勝した現実を前にして、私は自身の揺るがぬ信念を担保するためにも、この曖昧な言葉と訣別し、自らを反原発派と任じることにした。
思えば2011年3.11を巡るこの脱原発-反原発の差異は、1945年8.15を巡る終戦-敗戦の差異によく似ている。8.15という日本という国家そのものと戦争を遂行してきた軍部の紛れもない敗北を、「終わる」という自動詞で表現することによって、あたかも季節が移ろうかのごとくに戦争が終わったことにして、当時の為政者どもは自らの万死に値する責任を回避したにとどまらず、国民総体にも戦争と敗戦の意味を思考する機会まで奪い去った。
したがって、日本の「終戦」はドイツやイタリアとは異なり、あくまで連合国によって強制されたものに過ぎず、天皇制の存立はおろか、一切の後始末を連合国の手に委ねることしかできなかった。
敗戦という現実と真っ向から対峙することを回避したために、国民はその本質を見極め、責任者を自らの手で裁く責任を放棄し、為政者どもが形を変えて復活する道を許した。そうして戦後政治の舞台に紛れ込んだ軍国主義の亡霊とその末裔どもが、後日「東京裁判は戦勝国による一方的な裁判で無効」「日本国憲法はアメリカの押しつけ」などという恥知らずな主張を展開し、敗戦という悲惨な事実そのものを隠蔽して、侵略戦争を美化する道を切り開くことを許すことになったのだ。
脱原発という曖昧な言葉も、同様に、いやそれ以上に、急速に原発推進勢力が息を吹き返す道を許してしまった。私たちは3.11によって、あの事故からはっきりと反原発という教訓こそ引き出さなければならなかった。そして、事故の責任を徹底追及し、いつやめるか不確かな脱原発ではなく、即時全原発廃炉を迫っていかなければならなかったのだ。
しかし、フクシマの「戦犯」は当時の民主党政権ではなかった。私たち市民が、政権交代前後から民主党を市民政党として育て支えてきていれば、民主党政権はあのような事故対応の誤りを犯すことはなかっただろう。そして、「脱原発依存」などという曖昧模糊とした方向性を打ち出すことを許さなかったであろう。そして、敵=「戦犯」が自民党であることが明白であるからには、私たち自身が「市民自治政府」などという理想を実現する実力を持たない以上、2年前の選挙では当時の与党・民主党をも包摂した幅広い「反原発戦線」を構築して、ゲンパツ戦犯=自民党の復活を絶対に阻止しなければならなかったのではなかろうか?
私たち日本国民は2度の「敗戦」を経験しながら、それを「敗戦」と気づかぬまま、「終わった」ことさえ自覚せずに、連綿と変わらぬ、変われぬ社会を維持し続けている。幸いにも8.15によってもたらされた「終戦」は戦後復興と経済成長の明るい未来を約束してくれたが、3.11によってもたらされたフクシマ後の社会は、変われぬゆえの破滅と滅亡を暗示しているだけだ。

0ベクレル食品は国民の権利 [No Nukes]

本来私たちは、誰もが安全な食品を食べる権利を有している。しかし、資本主義社会では国民は消費者として食品を貨幣と交換して手に入れ、生産者(=農漁業者や食品加工業者)も資本主義の生産・流通システムに組み込まれている。したがって、生産者はより効率的に生産して利潤を上げなければならないし、消費者もより安価な食品を求めようとする。その過程で、本来食品に含まれない残留農薬や食品添加物の含まれる食品を食することを余儀なくされる。
残留農薬にしろ食品添加物にしろ、本来人間の体にとっては異物であり、である。しかし、資本主義社会では、その毒に一定の制限(それは歴史的、社会的条件によって決められる)を設けて、それ以下なら健康に大きな害を与えないとして許容される。いわば、国民が消費者として強いられるがまん値である。それにがまんできない人は、消費者であることをやめて自ら安全な食物を生産するか、かなり高い対価を払って無農薬農産物や無添加食品を求める選択肢がある。
このようにして多くの国民がある種の妥協をしてがまんを強いられるのも、それによって農漁業者や食品加工業者の利益を確保して彼らの生存・存続を保障しなければ、資本主義のシステムが守られないからである。いわば資本主義のシステムは、人間の命や健康と生産者の利益とを天秤にかけてその平衡点をさぐる仕組みである。
放射性物質はいうまでもなく人体に有害である。1ベクレルでも人体に取り込まれ、排泄されずに体内に留まれば、ほぼ一生DNAを傷つけ続ける。しかし、現実に原発事故が起きて放射性物質が広範囲に国土を汚染したため、政府は基準値を設けて、それ以下は国民にがまんを強いている。
だが、放射性物質が残留農薬や食品添加物と異なるのは、放射性物質が食物に含まれることによって利益を得る者は誰もいないということである。その意味で、資本主義的生産システムが強いるがまん値とは本質的に異なる。
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福島のキュウリをほおばるアホ首相

食品衛生法は第6条で次のように定めている。
第六条  次に掲げる食品又は添加物は、これを販売し(不特定又は多数の者に授与する販売以外の場合を含む。以下同じ。)、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない。
二  有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは付着し、又はこれらの疑いがあるもの。ただし、人の健康を損なうおそれがない場合として厚生労働大臣が定める場合においては、この限りでない。
放射能の食品基準値は厚労省が定めているので、一見合法のように見えるが、上述したように、それは本来、食品添加物のように、大量生産・大量消費の資本主義的食品生産に基づいて国民が強いられるがまん値であって、誰にも利益をもたらすものではない放射性物質を国民が受忍する義務は、憲法で保障された生存権を侵すものだと考える。
なおかつ、残留農薬や食品添加物については、国民の犠牲を伴う長い歴史の中である程度は人体に与える影響も研究されてきている一方、低線量放射性物質による内部被曝の人体へ与える研究は不十分で、政府の基準値は何の根拠もない単なる線引きに過ぎない。
しかも、食品添加物については食品への表示が義務づけられ、農産物については無農薬や低農薬・減農薬のものを生産物に表示して差別化することが許されている。消費者はそれらを判断材料に、より安全な食品を選ぶ自由が保障されているのだ。
しかし、放射性物質については原則、基準値をクリアした食品だけが流通ルートにのることとされているだけで、消費者には産地表示以外により汚染されていない食品、0ベクレルやより0に近い食品を選ぶ自由すら奪われている。この事態は国民の生存に関わる自由な選択権を奪うことにほかならない。
消費者にとっては産地以外により放射能フリーな食品を選ぶことができないこのような状況で(しかも加工食品となると、原料の原産地はより特定しにくくなる)、それを称して風評被害などと呼ぶのは的外れといわざるをえない。
本来、放射能汚染地帯には、人が住むことはもちろん、農水産物を生産することもあってはならない。しかし、東京電力のまき散らした放射性物質があまりに広範囲・高濃度であったため、その原則を貫こうとしたら、東電の経営破綻はおろか、国の財政や経済に与える影響が大きすぎるため、国は国民を欺きつつ、汚染地帯に福島県民をはじめとする住民を住まわせ続け、農水産物を生産させ続けているわけで、その結果は、事故後3年にして疑い例を含め18歳未満の子どもの甲状腺がんが百名を突破する事態等となって、健康被害がますます深刻さを増している。
風評被害キャンペーンがすっかり定着した今、汚染食品は止めどなく日本国中に広がりつつある。そうしたなかで、私たち0ベクレル派ベクレルフリー派は、一時も気を緩めることなく、日々の食生活で1ベクレルでも体内に取り込まない、取り込ませない努力を続けていくしかない。

緊急出版!『日本滅亡(全1巻完全版)』-川内原発再稼働は日本滅亡への第一歩 [No Nukes]

昨日、原子力規制委員会は九州電力川内原発1・2号機の再稼働申請に関する審査書(案)を公表、再稼働へ向けて大きく動き始めた。私たちはこの1年近く、原発が一基も動くことのない四季を経験し、社会生活に何の支障も来さず過ごしてきた。まさに事実によって、この日本に原発は必要ないことを証明したのだ。
にもかかわらず、原発の再稼働を認めることは、私たち国民にとっては、まさに「日本滅亡」への危険な第一歩を踏み出すこと以外のいかなる意味も持たない。
それに加えて、2012年12月に誕生した安倍政権は、特定秘密保護法を制定し、集団的自衛権行使容認を閣議決定し、「戦争のできる国づくり」に邁進している。
今後、安倍政権ないしはその体質を継承する政権が続く限り、日本の原発は、地震をはじめとする自然災害のみならず、国際テロ組織の標的となり、さらにいざ戦争当事国となり日本が相手国の攻撃対象となれば、ミサイル攻撃のターゲットとなるリスクも負うことになる。 にもかかわらず、日本には二重格納容器やコアキャッチャーを備えた原発は一基もない。(私はこのブログで若杉冽著『原発ホワイトアウト』を評した時に、原発へのテロ攻撃という設定に異を唱えたが、あれから政治状況が大きく変化した今は、その現実性も十分に考慮しなければならなくなった。)
川内原発を皮切りに、全国の原発が次々と再稼働したら、日本はどうなるのか? もし「第2のフクシマ」が起こり、フクシマレベルの放射能排出にとどまったとしても、それが浜岡・福井の原発銀座以西で起きれば、放射性物質は偏西風に乗って西へ運ばれるため、周辺二百キロレベルにとどまらず、恐らく北海道を除く以東の日本は汚染から免れることができないだろう。幸いにして「日本滅亡」は免れたとしても、「日本半壊」は免れず、それは先の戦争で被った国民生活の被害を凌ぐことになるだろう。

私は2013年と2014年初めに出した『日本滅亡』『日本滅亡Ⅱ』を1巻にまとめて再構成し、『日本滅亡(全1巻完全版)』として、今このタイミングで改めて世に問うことにした。全国の原発の再稼働阻止のために私個人のできることは限られている。本書の出版もそのささやかな営みのひとつにすぎない。

原子力規制委員会へのパブコメを集中しよう!
原子力規制委員会は「審査書案に対する科学的・技術的意見の募集について」と称して一般からの意見を1ヶ月間募集している。「科学的・技術的」と意見に枠を設けているが、私たち市民が再稼働を前に規制委に意見を言うことのできる場はここしかない。「地震国日本に原発建設は許されない」のひと言でも、私は立派に「科学的・技術的意見」だと考える。市民ひとり一人の思いを原子力規制委員会に届けよう。[バッド(下向き矢印)]



『日本滅亡(全1巻完全版)』は7月17日~21日(アメリカ時間)の期間、無料キャンペーン実施中!
(お手持ちのタブレット、スマートフォンなら何でも、無料アプリさえダウンロードすればご覧になれます。)

原発爆発・放射能ばらまきという巨大犯罪でストックホルム症候群に陥った日本人 [No Nukes]

例えばある晩、あなたの家に強盗が押し入ったとする。犯人は凶器を突きつけ、動くな、自分の言うとおりにしていれば安全だ、と言う。その時、あなたはどう行動するだろうか? 真っ先に考えるのは逃げることだろう。犯人の隙を見て逃げ出す方法を考えるだろう。もし犯人があなたの体を拘束して自由を奪っても、あなたはどうにかその拘束を解こうと試み、犯人を欺く策を必死に考えるだろう。あるいは、自力での脱出が不可能と判断すれば、助けを求める方法を考えるだろう。
ところが、犯人が家に籠城し、拘束が長期化すると、時として被害者は、逃げることを諦めるどころか、思考停止の果てに犯人に感情移入し、犯人の思いのままに操られることがあるという。被害者は、そうすることだけが、自分が助かる唯一の道であると思い、犯人は絶対自分を殺したり傷つけたりしないと信じ込む。時には、外から被害者を助けようとする人に対して、敵意をむき出しにして威嚇することさえあるという。
3.11以降、原発事故の被害者、いや、多くの日本人が、このストックホルム症候群に陥っているのではないだろうか? この場合の犯人とは、東電・政府・御用学者・財界等からなる原子力マフィアである。
3.11以前、私を含むこの国の99%の国民は、「原子力の安全神話」という緩いマインドコントロールのもとにおかれ、原発爆発後もそれが人々から的確・正常な判断力を奪う作用を果たした。私も当初、政府の大本営発表を鵜呑みにし、「たいしたことはあるまい」と高を括っていた。そんな私が3月16日に埼玉から関西へ一時避難できたのも、ひとえに「1%」に属する姪がいたからだった。
だが、当時私の家がもう少し爆心地に近いか、子どもが高校生ではなく小学生くらいだったら、もっと機敏に動き、早い時期に西日本なり海外へ移住していたと思う。
あれから3年以上、私は情報収集に努め、多くの本を読んだ。だから、犯人たちの言うことはすべて嘘だと言える。(すでに2013年4月、斉藤和義は「ずっとウソだったんだぜ」と言っているではないか!)
だが多くの人々は、いまだに犯人の言うことを信じ切り、逃げ出そうとすればいつでも逃げることができるのに、家から出ようともしない。犯人の嘘を暴く証拠は、その気になればいくらでも入手し、判断材料があるのに、いまだに犯人が垂れ流す情報にすがって自ら判断することを放棄している。殺さない、傷つけないという何の保証もない犯人の言葉を信じ、実際に傷つき死んでいく人がいても、それはその人自身の責任か、運が悪かったと思い込もうとしている。そればかりか、外から必死に助けようとしている人々に向かって、敵意をむき出しにして、ほっといてくれ、私は自分の意思でここにいるのだと叫んでいる。
おまけに、本来犯罪者を指弾すべきマスコミは、あろうことか犯人の言い分のみを一方的に垂れ流している。
犯罪者にとってこれほど都合のいい人質、これほど狼藉の限りを尽くせる国はほかにないだろう。
人々よ、目覚めよ! あなたはいつでも逃げることができる。その結果失うかもしれないものは、後からいくらでも犯人に償わせることができる。だが、今逃げなければ、あなたはかけがえのない、代替のきかない大切なものを失うかもしれないのだ。

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犯人の嘘を暴く証拠はいくらでもある。(「DAYS JAPAN」6月号)

科学至上主義に悪のりする原子力・核マフィア [No Nukes]

「たけしのTVタックル」のUFO特集などによく出ていた大槻義彦1)にカリカチュア化された科学至上主義は、「科学的」に証明できないものは分からないものではなく、ないもの、存在しないものと独断的に断定する。例えば、UFOは未確認飛行物体の略語で、文字通り何だか確認されていない飛行物体を指す言葉に過ぎないのだが、UFO=宇宙人の乗り物と信じる人々に対して、「証拠がないから未確認」と反論するのではなく、「証拠がないから存在しないもの」と全否定する。
そんな彼らが根拠とする科学とは何か? たかだか近代社会数百年の歴史で資本主義の発達とともに確立してきた科学万能主義の極端型に過ぎない。例えば近代医学は、科学主義の名の下に、人類がチンパンジーから分かれる前から経験的に蓄積してきた医学的な知恵(例えば下痢をしたらある種の葉っぱを食べる、ミネラルをとるために特定の場所の泥を舐める、怪我をしたら化膿しないよう唾液を塗ったり特定の植物をすりつける等の行動は、類人猿のみならず、多くのほ乳類に見られる普遍的行動だ。)、その延長上に発達してきた東洋医学など世界中に存在する土着の医学を、すべて科学的根拠のない迷信として否定し尽くした。しかし、資本主義が終焉期を迎えた今、悪いところは切ってしまい、人工的に精製された化学薬物をひたすら投与するという西洋医学への疑問が提起され、中国や韓国では東洋医学が西洋医学と同等の扱いを受けているし、日本でさえ漢方薬が保険適用されるようになった。
また、そんなに万能、絶対であるはずの「科学」も、歴史を遡れば、数十年前に立証された真理とされた科学的常識が、わずか数十年で180度覆されることなどざらである。例えば、ニュートンの宇宙論はアインシュタイン理論によって否定され、昔、定常とされていた宇宙は膨張しいずれ収縮するものとされたと思ったら、今は速度を上げて膨張を続けているとされている。身近な例でいえば、昔は野球選手は泳いではいけない、スポーツをするときは水分を取るなと言われていたスポーツ科学が、今では全否定され180度違うことが定説とされている。
しょせん科学の絶対性なんてその程度のものなのだ。
ところが、20世紀の資本主義絶頂期に人類殺戮の兵器として登場し、それを世界中に拡散するために平和利用の名の下に原子力発電の普及に成功した核マフィアは、当時絶対的信用を得ていたこの科学万能主義、科学絶対主義を悪用し、軍事と結合して情報管理と情報隠蔽のもとに、自己に都合のいい情報のみに基づいて放射能の安全神話を作り上げた。それはすでに、広島・長崎での被爆者を見殺しにした米軍の情報収集活動から始まり、50~60年代の狂気の核実験における動員人力や周辺住民へ与えた影響調査では、米ソ冷戦構造にもかかわらず、利害の一致により米ソ(その他の核保有国)は共犯関係を結んだ。2)
スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故においても同様だった。とくにレベル7のチェルノブイリ事故は、もし西ドイツ等西側で起こっていたら、もう少し秘密の暴露が図られたであろうが、不幸にも当時、鉄のカーテンの向こう側で起こった事故であったために、国際核マフィアは完全に近い情報遮断に成功した。ソ連政府によれば、死者33名だが、これは事故収拾に当たった消防士らの急性死者の数に過ぎない。また、IAEAは放射能とがんの関係において、否定しようのない甲状腺がんのみ認め、それも死者は9名とされた。
これがいかにでたらめな数字であるかは、数々の研究成果が発表されている今日では言を俟たないが、IAEA、ICRP、WHO等の国際核マフィアは、情報操作、情報隠蔽に基づく都合のいい事実のみを事実と認定し、それ以外のすべての事実や事象は科学的根拠のないものとして排除する。3)
フクシマの事故が起きたとき、実はいちばんその教訓を学ばなければならなかったのは、地元福島、そして関東地方をはじめとしたすべての国民であったはずなのだが、事故が起きる前から、事故が起きたことを想定して予めチェルノブイリに学び、それをさらに強化して実践したのが、日本政府や地元福島県であったのだ。それが証拠に、想定外であったはずのこの事故の1週間後には、山下俊一が早々と福島県入りし、翌19日には福島県の「放射線健康リスク管理アドバイザー」に就任している。県民洗脳工作の本格的始まりである。事故発生以来、フクシマについて不安を煽る者は、たとえ政府関係者でも抹殺された。「放射能つけちゃうぞ」発言を捏造された鉢呂吉雄経産省がその例である。
チェルノブイリで情報操作・情報隠蔽にほぼ成功した国際核マフィアにとって、次の事故が日本で起きたことは幸いだった。日本は民主制の外観をまとってはいるが、実態は官僚が支配するムラ社会で、市民意識は極めて希薄だ。安全・安心洗脳工作食べて応援・絆キャンペーン冷温停止状態・収束宣言除染・帰還運動等で県民・国民管理は十分に可能だ。後は、一部の真実を暴き、避難や被曝を訴える不遜な市民らを孤立させ、彼らをカルトに仕立てあげ、彼らの言うことはすべて風評被害福島への差別と言いくるめればいいだけの話だ。都合よく(?)民主党政権は自壊(野田の自爆)し、代わって登場した安倍政権は、民主主義の外套もかなぐり捨てるウルトラ右翼(ファシスト)だ。
そんな中で、そうした空気を読まずに物議をかもした小学館「ビッグコミックスピリッツ」『美味しんぼ』は、彼らにとっても予想外の出来事だったようだ。安倍自ら「根拠のない風評被害には国として対応する」と発言してまで封殺する挙に出た慌てようを見ると、そのことがよく分かる。3)
こうして国内外の核マフィアどもは、不幸にも来年あたりから目に見えて増加するであろう健康被害という事実をすべて根拠のないデマとする布陣を整えた。チェルノブイリでは認めた甲状腺がんの因果関係さえ、この分でいけば、日本政府は1名も認めないかもしれない。
こうした中で、真実を追究する市民は、核マフィアの振りかざす「科学」に対して、統計学疫学臨床医学などを総動員してデータを蓄積し、世界の世論に訴えていかなければならない。日本の自覚・自立した市民の味方は、もはや国内にはいないのかもしれない。しかし、絶望するのはまだ早い。味方は世界中の市民だ。世界の良識だ。

1)当然ながら、彼は「美味しんぼ」の件についても、「ストレスによる高血圧症状が主な原因であり、放射能とは直接関係がない。」と決めつけ、作者を批判し、政府の立場を代弁している。(http://29982998.blog.fc2.com/blog-entry-580.html
2)米ソを中心とした大気中核実験による過剰死は2000万人という数字もある。(ジェイ・M・グールド、ベンジャミン・A・ゴールドマン著『低線量放射線の脅威』(今井清一、今井良一訳、鳥影社)
3)チェルノブイリ事故による過剰死は100万人(同上)。なお、1986年以降20年間に、ウクライナとベラルーシの人口は1割減少、平均寿命も低下。
4)御用学者どもは「被曝による鼻血が考えられるのは『全身に500~1千ミリシーベルトを超える被曝をした場合』」と一方的に決めつけるだけで、作中で描写されている低線量被曝による鼻血や疲労感に関する松井英介・岐阜環境医学研究所長の学説に対しては言及・反論できずにいる。にもかかわらず、御用学者の断定が唯一の「事実・真実」とされ、「鼻血」は「なきもの」、よって「根拠のない風評被害」と決めつけられて、国家権力によって言論封殺される。
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フクシマのタブーに触れる書-数字と確率で実感する「フクシマ」 [No Nukes]

『日本滅亡』『日本滅亡Ⅱ』をまとめて『日本滅亡(全1巻完全版)』にして近々出す予定だが、その次の仕事として、よりフクシマに即した作品を考えていて、そのためにいろいろ調べているうちに、『数字と確率で実感する「フクシマ」』(たくき よしみつ著)という電子書籍に出会った。
Image.jpgこの著者、私は初めて知ったのだが、ミュージシャンであり、小説家でもあり、今までに小説以外にも大手出版社からたくさんの本を出している。そして、福島市出身で3.11の時には川内村に住んでいて間近にフクシマを体験した。その体験をまとめた『裸のフクシマ-原発30km圏内で暮らす 』(講談社)は数ある原発関連本の中で目にした記憶があるし、子ども向けに書いた『3・11後を生きるきみたちへ―福島からのメッセージ』 (岩波ジュニア新書) という本もあるそうだ。その著者が書いた本書は、なぜか「さらに内容を増やして、コンパクトな新書スタイルで出版することも考えましたが、持ち込んでもなかなか版元が決まらず、このままでは書いたままになりそうなので、とりあえず電子出版という形で出すことにしました。」(著者あとがき)とある。
電子書籍後進国・日本では、まだまだ電子書籍はマイナーな存在だ。『裸のフクシマ』がAmazonで16件もカスタマーレビューがあるのに対して、この本は3件しかレビューがない。ちょうど1年前に出されようだが、はたしてどれだけ読まれているのだろうか?

私はかねてより、フクシマの事故が実際より過小評価され、また数々の幸運が重なって「あの程度」の事故で済んだという点がないがしろにされ、それらのことが「脱原発」の実現を妨げ、再稼働路線を既成事実化することに大きな役割を果たしていると思ってきた。過小評価の具体例としては、福島の地理的・気象的条件から、放出された放射性物質の9割方が太平洋側に行ってしまったという点だ。これがもし、浜岡や若狭湾の原発銀座以西で起きていれば、関東ないしは関西地方の数千万人が避難を余儀なくされていただろうが、なぜかそのことを言う人はあまりいないし、マスコミではタブーのごとく語られない。また、幸運ということでいえば、数々の幸運が破滅的事故から日本を救ったのであるが、いちばんの幸運はといえば、なんといっても4号機の奇跡であろう。当時の最高責任者・菅首相自ら「首都圏5千万人の避難」を考えたと告白する4号機を破滅的な爆発から救ったのは、設計ミスから作業が遅れ、本来ないはずの大量の水がその時あって、地震によって生じた隙間から使用済み燃料棒プールに流れ込んだからという事実だ。
本書はそのようなフクシマの幸運の数々-もし風が海から吹いていたら、もし地震が夜間に起きていたら、もし地震が1年早く襲っていたら、もし福島第一以外の原発で同じことが起きていたら、もし4号機の作業でミスをしていなかったら、等-を確率的に計算し、あの程度の事故で済んだのは宝くじで1等を当てるほどの偶然であったと結論づけている。

本書の出版を引き受ける出版社がなかった理由は、まさにここにある。テレビ・新聞はもとより、出版メディアも含めて、3.11以降、「脱原発」へ潮流は大きく変わったが、そこにはふたつのタブーが依然として存在する。ひとつは放射能がらみの諸問題-食の安全、内部被曝、低レベル放射線の人体への影響、奇形・がん等の健康被害の実態、等々-であり、もうひとつはフクシマ以上の事態を想像すること、させることである。なぜなら、このふたつのことがクローズアップされたとき、人々に否応なくフクシマを自らの問題として考えさせ、そうすることによってフクシマを内面化させ、雰囲気としてでない意志としての脱原発に向かわさせることになるからだ。そうすれば、少なくとも再稼働は永遠に遠のき、すべての原発は廃炉にせざるをえなくなるだろう。
ふたつのタブーは、だから原子力マフィアの譲れない最後の一線であると同時に、多くの人々をしてフクシマの現実から目を背け、それを福島という場所に封印して、3.11以前の安穏とした日常という虚構の上に精神のバランスを保たせるに欠かせない装置でもあるのだ。
今日の日本の一見平穏でありながら異常な社会は、この原子力マフィアと国民の間のふたつのタブーを仲立ちとした共犯関係によって保たれているといっても過言でない。だから、タブーを犯す者は徹底的に排除されるのだ。(ここでいう国民には、大多数の物言わぬ国民だけでなく、首相官邸前などに抗議活動に行くような自覚した市民の一部-デモが終われば近くの居酒屋で何も気にせず飲食し、スーパーに行ってもせいぜい福島産だけ避けて、安穏と首都圏に住み続けるような人々も含まれる。)
そうした意味で、私の『日本滅亡』もこのタブーに触れてしまったために、多くの人々にその存在さえ知られないのだと自己合理化しつつ、ならばなおのこと、私はそのタブーに挑戦しつづけていかなければならないと、次作にさらに意欲を燃やすのだ。

数字と確率で実感する「フクシマ」:Amazon Kindle版ブクログのパブ-Rakuten kobo 各99円

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